18 好きになっても
うちの舅がね、やってる整備工場なの。見せたいものがあるから悪いけどちょっとつきあってくれる?
苑子が口にした寄り道の理由はどこか奇妙だった。秘密めいた言い方もさることながら、自分の夫もそこで働いているとなぜ二人に言わないのか。
思惑を秘したまま到着した野上モータースでは、店舗に寄らず敷地を横切って工場の方角へ。なんだ、結局拓馬のところに行くのかと思いきや、内部が見える位置まで来たところでストップ。
そして「中里さん」となぜか千尋だけを呼んだ。
「あれ、あの赤い車、見える?」
指し示した乗用車はエンジンルームが開いていて、一人の整備士がかがみ込んで手を動かしていた。あれは――拓馬だ。
「修理してる人がいるでしょ。あれね、あたしの旦那」
「え……?」
「クルマが大好きでね、三度の飯より――ううん、女といるよりクルマいじってるほうが好きっていう人なの。変わってるでしょ」
むしろ自慢げに言って甘い視線を夫に向ける。
いったい苑子は何をしたいのだろう。まさに言葉どおり夫を見せたかっただけなのか。
千尋もまたその意図を測りかねているようだった。さっきまでのおよそ親和的とは言えない態度から一変、家族を紹介しようというのだから戸惑うのも無理はない。
しかし苑子は構わずに語り続ける。なんと拓馬との出逢いのエピソードまで。
「四年前、休日に外出先で突然車が動かなくなっちゃってね。近くにスタンドもないし人も通らないし、伊原くんなら車に詳しいと思って電話したの。そしたら自分は仕事中で行けないけど、整備士の友達がいるから呼んであげるって。それで来てくれたのが拓馬だったの」
穏やかな語り口からは幸せが滲み出ていた。つられて一希も懐かしさとともに思い出す。まさかあの時は自分がキューピッドになるとは考えもしなかった。
「拓馬、あっという間に直してくれてね。休日にわざわざ来てくれて、服も汚れちゃったのに、部品代だけ後でカズに払ってくれればいいよって言ってさっさと帰っちゃって。あたし、ろくにお礼も言えずにぼうっとしてた。――一目惚れだったの」
そう、それから一希をも巻き込んだ猛アタックが始まるのだ。
「押して押して押しまくったけど、何しろ相手は女は苦手、クルマのほうが可愛いって人でしょ? 手強かったなあ。でもおかげでもっと好きになった。付き合うようになって、こうして結婚もして子供も生まれたけど、好きの気持ちはぜんぜん変わらない。ううん、もっとずっと好きになってる。――だからね、中里さん」
「……はい」
「あたしはあなたの敵じゃないから。絶対に敵にはならないから。だから警戒しなくていいのよ」
……何なんだ、それは。
拓馬についての話の帰結が「私はあなたの敵ではない」? 意味がわからない。
しかし千尋は心当たりがあるのかバツが悪そうに目を伏せた。本当に苑子を敵だと思っていたというのか。
「――苑子? カズ? どうしたの?」
こちらに気づいた拓馬が作業を中断し、手についたオイルを布切れで拭いながらやってきた。作業着はもちろんのこと手で擦ったのか鼻にも汚れがついている。そんな夫を苑子は愛しそうに見つめ、彼の右腕に甘えるように縋り付いた。
「近くまで来たから、あたしの素敵な旦那さんを紹介しておこうと思って」
「汚れるよ、苑子」
夫婦の醸し出す甘ったるさに当てられ、紹介を受けた千尋と須賀の挨拶もどこかぎこちない。
「は、初めまして。中里千尋です……」
「初めまして。どうぞよろしく」
拓馬はちらりと確認するような視線をこちらに寄越した。
――そうだよ、これがちぃちゃんだったはずの女の子なんだよ。
ちぃちゃんかもしれない。ちぃちゃんに間違いない。ちぃちゃんではなかった。友人に聞かせてきた言葉を振り返ってみれば、一人の女の子にずいぶんと翻弄されたものである。
その女の子が苑子を敵視していた。いったいどういうことなのか。
一希の疑問を解く機会は間もなくやってきた。
「二人とも整備工場は初めて?」
「はい」
「ね、拓馬。せっかくだからちょっとガレージのなか見せてあげてくれない?」
さりげない言い方だが目的は明らかに人払いである。
拓馬は軽く頷いて妻の頼みを引き受けた。千尋は少し不安そうだったけれど、須賀に「面白そうだから行こうよ」と促され仕方なしについていった。
ようやくやってきた説明要求のチャンス。わざわざ作ってくれたのだ、はっきりと答えてもらおうではないか。
「苑ちゃん、『敵じゃない』ってどういう意味? でもさっき職場で仕掛けてたのは苑ちゃんだよね。わざとやったってこと? なんで拓馬が関係あるの?」
返ってきたのは罵声だった。
「このあんぽんたん! 伊原くんが原因でしょうが!」
「え? 俺?」
「あの子の目には、あたしが伊原くんに馴れ馴れしくする図々しい人妻に映ってたのよ!」
何ソレ!
「嘘だろ?」
「実際、言われたもの。『野上さんって結婚してるんですよね』って。あれは牽制よ。人妻のくせに伊原くんに近づくなっていう」
そういえば一希も一度同じことを訊かれたような……どことなくトゲは感じたけど、あの時はただ結婚の事実を確認しただけだと思っていた。
「でもなんで……」
「あなたが好きだからに決まってるでしょ! 気づかなかったとは言わせないわよ。さっきだって伊原くんに助けてもらって、キラッキラした顔で喜んでたじゃない」
確かにあの笑顔は眩しかった……いや、それは置いといて。
「ま、まあ……好意みたいなものは感じてたけど」
「好意? なにスカしたこと言ってんのよ! そんなほんわかしたもんじゃない。あの子はね、嫉妬であたしを敵認定するぐらい、伊原くんが好きで好きでたまんないのよ!」
怒涛の勢いでまくしたてる苑子に対し、一希の反応は今ひとつ鈍い。だってどう信じろと言うのだ。千尋の心の裡にそんな激しい感情が隠れていて、しかも自分に向けられているだなんて。
こちらが半信半疑なのが伝わったのだろう、苑子はトーンを落として事の経緯を語り始めた。
「OJTに入ってわりとすぐよ。あの子が時々じっとあたしを見てることに気づいたの。初めは観察するようだったのが、だんだん不満そうに変わっていって。なんでだろう、あたし何か悪いことしたかなって考えたけど思い当たらない。でもある日やっとわかった。あの子がそういう目で見るのは決まって伊原くんと絡んだ後なの」
「絡む?」
「喋ったり笑ったりバカを言い合ったり。あの子の目にはあたしたちがベタベタしてるように見えたんでしょ」
一希は頭を抱えたくなった。ほぼ同時期に入社したこともあって確かに仲はよいが、苑子はそれ以上に親友の妻だ。髪の毛一本の下心すらない。
なぜ千尋はそんなふうに……いや、そもそもなぜ一希なのか。
一目惚れされるような超イケメンではないし(上の下と中の上の中間ぐらいという自己評価だ)、何か印象的な行動を見せた覚えもない。強いて言えばあの接待だが、今の話ではそれより以前かららしいし……
「俺、まだちょっと信じられないんだけど……」
「何がよ」
「なんで俺なの? まともに話したこともなかったのに」
「きっかけなんて何だっていいのよ。好きになる時にはなっちゃうの。よかったわねえ、あんなきれいな子に好かれて。――なに、何か不満そうだけど」
「不満とかじゃなくてさ……」
いいんだろうか。俺みたいな男で。
いいんだろうか。ちぃちゃんだと思ってた子をそんなふうに見ても。
黙り込んだ一希の背中を苑子は励ますようにバシッとはたく。
「何をぐだぐだ考えてんのよ。好きなら好きでいいじゃない。ていうか、それだけでいいの。それが一番大事なの。――ほら、戻ってくるわよ。笑って」
とっさに顔を取り繕うと、ちょうど三人が話しながらガレージから出てくるところだった。近づくにつれ何やら取り決めを交わしているらしい会話が聞こえてくる。
何の話かと問えば、二人ともそれぞれの自宅の車を修理に出したいとのことだった。
「この間駐車場でサイドをキズつけちゃったんですよね。結構目立つんで、家族がうるさくて」
「キズ直すの拓馬は超得意よ。もう芸術家の域。中里さんは?」
「パワーウインドウの調子が時々おかしくて……梅雨だし、ちゃんと見てもらおうかと」
「安心して拓馬に任せなさい。よしっ、お得意さん二名確保」
戻ってきた時にはまだ苑子を気にしている様子だった千尋は、軽い調子にほっとしたように頬を緩めた。
その表情を目に映しながら一希はそっと自問する。
――好きになってもいいんだろうか。
さっきはたまらない気持ちになってつい口を出した。彼女が自信と笑顔を取り戻したのが嬉しかった。たとえ妹ではなくても、これからもああやって関わってしまうと思う。
だったら。本当に自分をそんなふうに想ってくれているのなら。
好きになってもいいのか? 妹とか妹でないとか、ぐだぐだ考えずに。
苑子が言った言葉を深く噛み締めながら繰り返した。
――好きなら好きでいい。それだけでいい。それが一番大事。
その三日後、一希のもとにとある知らせが届く。
それは富永電機がリヴィータとの売買契約を取りやめるという驚くべき内容だった。