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われても末に  作者: 乃梨
16/21

16 戸惑う心

大変長らくお待たせして申し訳ありませんでした。

連載再開にあたって前話「15 衝撃」の最後の部分を改稿しています。

 会社に戻ってきた時には雲間から青空が覗いていた。ハッチバックセダンを降りて雨上がりの湿った空気の中をオフィスに向かう。

 六月上旬。一週間近くぐずついた天気が続き、昨日ようやく梅雨入り宣言が出されたところだったが、早くも梅雨の晴れ間だろうか。外回りの多い身としてはありがたいことだ。

 歩きながら携帯を取り出してこの後の予定を再確認した。一九時に顧客とアポ。ちょうどエアポケットみたいに空いてしまったこの数時間は、企画を練るフリしてダラダラしていればいいか。

 が、来週のカレンダーに書き込まれた『富永電機』の文字が一希の勤労意欲の尻を叩いた。

 もう一度契約書類を見直すか。


 ――あの接待の日からひと月以上がたつ。リノベと売却の両方で検討していた社宅に関し、最終的に富永電機は売却の結論を下した。残念ながら神保部長の希望は叶えられなかったことになる。

 すでに両社のトップ同士の顔合わせも済ませ、現在は詰めの交渉を行っている。メインバンクからの融資取り付けもほとんど決まっており、契約締結は目前だった。

 一希にとっては久しぶりに億単位の金が動く大型案件である。もちろんリヴィータにとってもまたとない好物件とあって、水島や畠山とともに仕事に没頭する日が続いた。

 ……いや、意識的にこの案件にのめり込んだと言うほうが正しいかもしれない。


 オフィスに着いた一希はまず畠山のところに行き、二、三の報告を行った。それから自分の席に戻りしな、隣の島にちらと目を遣る。

 するとちょうど顔を上げた千尋が微笑んだ。とっさに口元に笑みを作って返し、席に座る。何でもない風を装っているが、実のところ、机に突っ伏したい気分だった。


『娘がいつもお世話になっております』


 あの夜、気の好い笑顔でそう挨拶した千尋の母親。八重子とは似ても似つかないその面差しにどれほど驚愕したことか。

 なんとか取り繕って辞去したが、どうやって家にたどり着いたかまるで覚えていない。それほどに衝撃は大きかった。

 八重子ではない。八重子ではなかった。

 中里千尋は――ちぃちゃんではなかった。

 巨大な失望感に襲われ、その夜はまんじりともせずに明け方まで過ごした。十五年もたっていたとはいえ、自分がちぃちゃんを見間違ったと認めるのは受け入れがたかった。

 これ幸いと仕事に逃避したが、会社に来ればこうして千尋と顔を合わせる。そのたび、突きつけられた事実と納得できない感情との間で揺れ動いた。


 ちぃちゃんじゃない? では初対面でのあの既視感は何だったのか。記憶を共有しているという確信は何だったのか。願望が生んだ思い込み? いや、絶対にそんなことはない。ならあの母親の存在はどう説明する?


 心の混乱に収拾がつかない一希をよそに、千尋は以前と変わらない――いや、以前よりずっと親しみを込めた態度で接してくるようになった。

 初めはそれを、接待を通して距離が縮まったからだろうと思っていた。でも〝後輩として慕っている〟とするだけでは違和感を覚える眼差しを時折感じるようになって、一希を大いに戸惑わせた。

 勘違いだよな。そうだよな、自惚れがすぎるよな。だってまさかちぃちゃんが俺のことを。

 ――いや、ちぃちゃんじゃない。


 認めなければいけない事実を思い出してまたもや堂々巡りが始まる。妹なのか。妹ではないのか。でも妹ではなくなったからといって、ころっとそういう対象として見ようとするのは節操がなさすぎる。

 ――どうすりゃいいんだよ。

 その気はないからと素っ気なくすることもできない。困ったことがあったら相談してくれと言ったのは一希なのだ。

 妹。妹じゃない。妹。妹じゃない。妹。妹じゃない。

 いっそ本当に花占いでもやってすっきりしてしまおうかと、ヤケクソな思いにも駆られるのだった。



「伊原くん、コンペの企画固まった?」


 不意に話しかけられた一希はモニターから顔を上げて椅子ごとくるりと振り向いた。やはり椅子ごと寄ってきた声の主――苑子にいつもの闊達さはない。思案げな表情を見るにどうやら煮詰まっているらしい。


「まあだいたいは。苑ちゃんは?」

「んー。それがね、アイデアは出るんだけどどれも現実的じゃないような気がして」


 案の定の答えが返ってきて思わず苦笑した。何も奇をてらった企画である必要はないんだけど。

 先日、全社員を対象にした社内コンペの開催が発表された。物件は築四十年の戸建住宅。これをどう再生させるか、一般住宅以外の用途にも可能性を広げてアイデアを集めたいという水島発案のコンペだ。

 一希は営業という職種柄、収益を常に念頭に置いて考えるから、アイデアといってもその幅は自然と決まってくる。しかしインテリアデザイナーである苑子は企画がまっさらな段階から携わることはあまりないため、逆に発想が自由すぎてしまうのだろう。


「ねえ、あたしと組んでやらない?」


 すがるように苑子は言った。


「あたし、イメージデザイン描くからさ。ね?」

「んー、まあいいけど……」


 コンペの参加は複数での共同企画でも可となっている。一希もラフスケッチ程度なら描けるが、本職にやってもらえば完成度の高い資料が出せるだろう。


「やった! ありがとう伊原くん」

「あー、野上ちゃん、逃げたな」

「私も営業さんと組ませてもらおうかなあ」


 話を聞いていたらしい同僚たちが次々と羨ましそうな声を上げた。この様子では手こずっているのは苑子だけではないようだ。

 実際、建築・設計部門の社員には企画書など書いたこともない技術屋もいるし、総務や経理を担当する部門や、現場の施工業務管理部門などは言わずもがなだろう。

 全社員にコンペ参加とは、水島もなかなかに酷なことをする。たぶん本人は全員で盛り上がれるイベントみたいなものをやりたいだけで、完璧な企画書など求めていないと思うが。


 ふと、ひとり千尋だけが異なる表情をしているのに気づいた。苑子が安易な方向に逃げたのが納得できないのか、不愉快そうに眉をひそめている。何事も真面目に取り組む彼女ならそんなふうに思ってしまうのかもしれない。

 しかし苑子は他人の企画に乗っかって安心しただけでは終わらせなかった。


「ねえ、今から物件見に行かない?」

「え? まだ見てなかったの?」

「見たけど、今回は具体的なイメージ膨らませるためだもん。向こうで概要聞かせて」


 こうと決まったら彼女の行動は早い。四年前、拓馬に猛アタックした時のことを思い出したら断るのは諦めるしかなかった。一九時のアポまでは適当に時間を潰すつもりだったし、現場の細部をもう一度確認しておくのも悪くない。

 さっそく机の上を片付け始めると、須賀が自分も同行したいと言い出した。


「タイミングが悪くていつも誰かが鍵持って出てたんですよ。外回りの途中に外観は見たんですけど」

「コンペどころじゃなかったしな」

「それもあります」


 先日、須賀は初めて契約を取った。例のポスティングチラシを持ってオープンルームにやってきた若い夫婦だ。

 一希もフォローはしたが、何しろ新人のため契約締結の手続きには慣れていない。彼がその案件にかかりきりになってしまったのは致し方ないことだった。

 だがコンペは全社員対象で、そこにはもちろん新入社員も含まれる。営業職としても物件の内見を要求するのは当然と言えるだろう。


「何にするかはもう決めたの?」

「はい。でもありきたりというか……他にもいいのがあれば」

「お化け屋敷を作って経営」

「あっ、そっちのほうが面白そう」


 真に受けんな、と笑って応じた時だった。


「中里さんも一緒においでよ」


 誘うというより命じるといった強い口調の苑子の声。驚いて振り向くと千尋が顔を強張らせていて、周囲の同僚たちも目を丸くして二人を見つめていた。

 何があったんだろう。


「苑ちゃん?」

「あの、私はもう物件見てますけど……」

「いいじゃない。また違うインスピレーションが生まれるかもしれないし。現場百回って言うでしょ」


 いやそれ使い方間違ってるんじゃ……とツッコむどころではなかった。


「新人がどんな企画を出すのか楽しみだわあ。きっとあたしなんかには思いもつかない、新鮮なアイデアなんでしょうね」


 誰が聞いても嫌味としか取れない言葉だった。これではまるで後輩へのイビリではないか。

 ……いや、実際にそうなのか? さっきの千尋の非難がましい目つきを苑子も見ていたとしたら――

 だめだ。ちぃちゃんをいじめるのは俺が許さない!


「苑ちゃん、中里がもう見たからいいって言うならそれでいいんじゃない? 新人の心配はいいからさ、俺たちだけで作戦会議しよ? 苑ちゃんとならマジでコンペに勝てそうな気がするんだよね」


 苑子のプライドをくすぐる、我ながら絶妙な台詞だったと思う。……それなのに。


「私やっぱり行きます。連れて行ってください」


 なんでだよ!


 千尋は自ら挑みかかるように同行を承知した。そこには怖い先輩に怯える新人の姿はない。対する苑子はというと、まるで「この時を待っていた」というように口元に(邪悪な?)笑みを浮かべた。

 ……何なんだ、この二人。

 仲が悪いという話は聞いたことがなかったけれど、男の一希には想像もできないような確執が女同士にはあるのだろうか。

 

「お待たせしました」


 手早く外出の支度をした千尋を加えて四人はオフィスを出る。好奇心の視線が集中したが、気にしているのは一希だけのようだった。須賀に至ってはこの状況をはっきりと楽しんでいた。


「面白い展開になりましたね」

「どこが面白いんだよ」


 数メートル先を歩く二人の女。その不穏な背中を見つめながら、さっき見た千尋の姿を思い出す。「連れて行ってください」と挑むように言ったあの眼差しの強さ。

 ああいう負けん気の強いところはまさにちぃちゃんなんだけどなぁ。

 未練がましい思いをこっそり吐き出し、一希はハッチバックセダンにキーを向けて解錠する。青空の映る水たまりを左右に避けて車に近づくと、四人はそれぞれの席へと乗り込んだ。


 

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