15 衝撃
とっさに避けたい相手の一人や二人、誰にでもいるものだ。一希だってもし休日に畠山を見かけたら即座に回れ右をするだろうし、実際に先日は八重子に顔を見られるのを恐れてあの場から立ち去った。
だから千尋がこそこそ逃げ出しても、発進した車が横を通り過ぎる時に顔を背けても、「苦手な人物に偶然出くわした」とみなす程度で、それほど深刻に捉えることはなかっただろう。
相手があんな見た目でなかったら。
酔っ払った中年男、和風美人、セクシーボディに続き、四番目に現れたのは老人だった。
七十は超えているだろうか、堂々とした体躯に傲然とした佇まい。威圧感たっぷりの厳しい顔つきは、裏社会に生きる人のそれを彷彿とさせる。カジュアルジャケットとストールの洒落た組み合わせが印象を和らげてはいたが、あの黒塗りの外車の持ち主を四人のなかから選ぶとすれば彼しかいないだろう。
オープンルームの日に受けていた電話もワケありの様子だった。やはり何らかのトラブルに巻き込まれているのではないか。
テールランプが見えなくなってから単刀直入に切り出した。
「どういう人なの?」
「……以前ちょっとトラブルになったことがあって……できれば顔を合わせたくないというか……」
「どんなトラブル?」
千尋は言いにくそうに言葉を濁した。
「……その……車を……」
「車? あの外車? もしかしてぶつけたとか?」
「そんなんじゃないです! ……軽く擦った程度」
「それで揉めた?」
伏し目がちにこくんと頷く。
そういうことなら避けようとするのも納得できる。ただでさえ高級外車だ、キズをつけただけでも青くなるのに、ヤクザと五十歩百歩みたいな雰囲気の老人が相手とあっては……
「怖かっただろうね」
「……怖かったです。これから私、どうなっちゃうんだろうって。……リヴィータの内定取り消されちゃうのかなって……」
その時のことを思い出したのか、不安と心細さが声と表情に表れる。
でも内定取り消しはいくらなんでも大げさだろう。擦った程度では運転免許の減点対象にもならないはずだ。
「そこまでの事故じゃないだろ」
「……そうですね。たぶんパニックだったんだと思います」
面目なさそうなぎこちない笑い。ネタとして消化するにはまだ生々しい記憶なのだろう。どれほど脅しつければそんなに怖がらせることができるのかと怒りが湧いてくる。
とにかく終わった話であるのならまあよい。ただそうなると、オープンルームの日の電話はまた別件ということになる。
「他に困ってることはない?」
「はい?」
「誰かとトラブルになってるとか、そういう。もしあるんだったら言って。力になるから」
「……ありがとうございます。でも特にそういうことはないです」
案外ただの鬱陶しい人間関係というだけで、気にするようなものではなかったのだろうか。それならいいのだが。
月之庄の指定駐車場に着いてハッチバックセダンを見つけると、手が自然とポケットをまさぐった。が、キーがない。
「あれ、俺、鍵……」
「あ、私が持ってます」
そういえば車を停めにいってもらったまま受け取っていなかった。
「なんだったら帰りも運転する?」
ちょっと意地悪に言ってみたら思いもよらない反応が返ってきた。
「今は助手席がいいです」
恥ずかしそうに視線を逸らし、自らロックを解除して助手席に乗り込む。
……何、今の。
少しうろたえなから後に続くと、はい、と甘い声で鍵を渡され、ますます心が波立った。
「……家どこ」
「東区ですけど……先に伊原さんの車、取りに戻らないんですか?」
「それだと中里が帰るの遅くなるから」
「遅くなってもいいです。実を言うとあのクーペ、乗ってみたいなって」
意外な驚きで一希は目を丸くした。
「俺のだって知ってたの?」
「うちのチーフと現場に行った時に駐車場で見かけて、伊原さんのだって教えてもらいました。カッコいいですよね」
愛車を褒められると弱い。しかも乗ってみたいとまで言われたら、断る理由はどこをひっくり返して探してもなかった。
乗せます、乗せましょう、乗せないでどうする!
三段活用するほど張り切って運転し会社に戻ると、建物はすべての明かりが消えてひっそりしていた。駐車場には同じ車種の社有車がずらっと並び、唯一形の違うパールホワイトの車体が暗がりにぼうっと輝く。
「やっぱりカッコいい」
自分が褒められたみたいに顔がにやけた。数カ月ぶりに助手席に座る女の子、しかもすごく可愛いってだけでもテンションが上がるのに、それが他でもないちぃちゃんなのだ。
「どんなふうに走るんだろ、ドキドキしちゃう」
「乗り心地はあまり期待しないで。街乗りだと結構振動がくるんだ。……さ、どうぞ」
恭しくドアを開けると千尋は少し照れながら乗り込んだ。
暗い車内に計器類やカーナビがパッと浮かび上がり、エンジンが低く唸って始動する。それだけで小さな拍手をする彼女に吹き出しつつ、ギアをバックに入れて発進。軽快な動きで前輪を出口に向けると、クーペはあっという間に駐車場を横切り夜の街へ飛び出していった。
千尋は少しはしゃぎながら初乗りの体感を次々と言葉にしていった。
「うわあ、いい音。これぞスポーツカーですね」
「だよねー」
「いつもと風景が全然違う」
「車高が低いからね」
「地面をすばしっこく這って移動してる感じ。トカゲみたい」
「トカゲ!?」
運転中にもかかわらず一希は大笑いした。スポーツカーのイメージに合う動物と言ったら、チーターとかサラブレッドなどが出てきそうなものだが、トカゲとは! 真面目に褒めているところが余計に笑える。
「トカゲ、じゃない、クルマ、好きなんだね」
「はい。メカのことはよくわからないけど、空間としてのクルマが好きです」
「空間?」
「世の中から隔絶された、私一人だけの自由空間って言ったらいいのかな。そこでは中里千尋でも誰でもなくなって、思うがままに行動できる。〝動く孤島〟なんです」
気兼ねなく自由を満喫できる場所ってことか。
そう受け取って終わればよかったのだが、つい深読みをしてしまった。
……しがらみから解放されたい、とか。
もしかして窮屈な家庭なんだろうか。これまでに聞いた言葉の端々から義理の家族とはうまくいっていると思っていたが。
確かめたいような、そうでないような。
もし家庭内に葛藤があると知ったら、さっき一歩踏み込んだばかりの関係にもっと欲が出てきそうな気がする。今さら兄に戻れるはずもないし、これ以上何を望むのかとも思うけれど。
そのまま会話は途切れ、音量を抑えたラジオから流れる古い洋楽の音だけが車内を満たした。千尋もむりに話をするつもりはないのか、夜の街に目を向けたまま無言でいた。
が、それも長く続くとちょっと不安になってくる。
「どうした? 具合悪い?」
「え? アルコールはもう完全に抜けてますけど」
「いや、この車レスポンスがよすぎるからつい急ブレーキ急発進になっちゃって、助手席は酔うことがあるんだ。一応気をつけては運転してるけど」
乗り慣れない彼女への気遣いはなぜか仇になって返ってきた。
「酔わせたことがあるんですね。女の人?」
思いもかけないツッコミ。しかも心なしかトゲを含んでいる。
「ま、まあ……そうだけど」
「どんな人ですか」
「え? ああ……えーと」
「飲み会の席ではっちゃけたり、『酔っ払っちゃったー』ってしなだれかかったり、そんな人?」
……まるで浮気を責められてるみたいだ。しかも酒を絡めるところにすごい鬱屈を感じる。
地雷を踏まない返事は何だと考えているとくぐもったバイブ音が聞こえた。千尋の鞄からだ。取り出された携帯画面が放つ光で車内がそこだけ明るくなる。
「上の妹です。『接待どうだった? 無理やりお酒飲まされてない? 大丈夫?』だって」
「心配してくれてたんだ。仲いいんだね」
「はい。でも二人ともすごく生意気なんです」
妹たちへの愛情が伝わってくるような優しい声。やはり家族とはうまくいっているのだろう。さっきのは思い過ごしか。
「あと十分くらいで着くって送りました。……あ、次で左です」
幹線道路を離れた後は千尋の指示に従って進んだ。一般住宅が立ち並ぶ道を何度か曲がり、「あの家です」と指した一戸建ての前で止まる。
建売住宅っぽい一般的な外観。まだ築浅だろう。七、八年といったところか。
こんなときまで職業病を発症させる己に呆れながら、お疲れさま、と言葉をかけた。
「お疲れさまでした。あの、今日は本当にご迷惑をおかけしました」
「もういいって」
「それとあの……嬉しかったです。困ったときには相談しろって言ってもらえて」
「うん。約束したからな。忘れんなよ」
またふんわりした笑顔が現れて「はい」と答える。なんとなく離れがたくてじっと見つめると、彼女も笑みを消して見つめ返した。
何か言いたげな、切なそうに動く瞳が一希の心を揺らす。ひょっとして俺のことを思い出したんじゃないか、そんな思いがふと頭をよぎり、もし気づかないふりをしているならその理由は何だ、とまで考えた、そのとき。
玄関の扉が勢いよく開いて人が飛び出してきた。
「お姉ちゃん?」
現れたのは中高生っぽい二人の少女。これが妹たちなのだろう、外灯を頼りに車の内部を覗こうと首を伸ばす。千尋はそれを見るや急ぎドアを開けて外に出た。
「ただいま」
「ああ、よかったー、ずっと心配してたんだから!」
「お母さーん、お姉ちゃん帰ってきたー」
それぞれ家の外と内に向かって呼びかけると先を争うように近づいてくる。
「それ誰の車? カッコいいー」
「送ってもらったの? お姉ちゃんやるう」
「ゆうちゃん、りっちゃん! 夜なんだからもっと静かに!」
賑やか姉妹としっかり者の大きいお姉さんか。甘えん坊だったちぃちゃんも年長の立場になれば変わるんだ。
笑みを漏らしながら一希も車を降りた。こうなると挨拶せずに立ち去るわけにもいかない。
「こんばんは」
「あっ、こ、こんばんは!」
「妹の優香と律花です。こちらは会社の先輩の伊原さん」
「お姉ちゃんがいつもお世話になってます!」
「『姉』でしょ」
なかなか手に負えない妹たちのようで、言葉遣いを直されてもどこ吹く風と聞き流している。それよりも一希への興味のほうが先に立っているらしく、優香と呼ばれたほうはこちらをチラチラ見ながら、我慢しきれないといった様子で姉を肘でつついた。
「ねえ、この人?」
「えっ?」
「ほらこの間、おしゃれして行った時の」
千尋はあからさまにぎょっとして、それを見た優香はにやにや笑いながら納得したように頷いた。
「やっぱりね。絶対そうだと思ったんだー」
「ち、ちがっ、あれはっ」
さっきまでのお姉さんぶりが嘘かと思うほどのうろたえっぷりである。
――俺が関わる話? まるで思い当たらないけど……何のことだろう。
「あなたたち、外で何やってるの?」
不意に玄関の奥から女性の声が聞こえてきてはっとなった。
――八重子か?
一瞬、身体が逃げ出しかけた。直接対面する心の準備ができていなかったし、せっかく千尋とよい関係を築きつつあるのにぶち壊しにされたくなかった。
その反面、自分本位の仄暗い期待が頭をよぎる。
これで一希の素性が知れる。もう一度兄に戻れるかもしれない。
足音が近づいてサンダルのような履物をつっかける気配がした。どっちにしろもう逃げ出せない。
「千尋ちゃん? 帰ってきたんでしょ? どうだった?」
こんな声だったかな、と薄れた記憶をたどりながら、一希は覚悟を決め、かつての母親が出てくるのを待ち構えた。
ところが――――
現れたその人は八重子ではなかった。