14 俺には話して
「ど、どうしたの? 具合悪いの?」
千尋は熱に浮かされたようなぼうっとした目をこちらに向けた。改めて訊くまでもない、身体に変調をきたしているのは明らかだ。さっきまで普通にしていたのにいったい何があったのか。
おろおろする一希にそれらしい答えを示してくれたのは神保だった。
「もしかして食物アレルギーじゃないの? 気づかないで食べちゃったとか」
言われてみれば顔から首は赤く斑模様になっているし、痒いのかやたらと掌を掻いていて、確かにアレルギー症状っぽい。だとしたら……!
「きゅ、救急車呼びます!」
一刻も早く手当を受けさせなければ。ひどい場合はショック死することだってあるのだ。
不安と焦りに追い立てられるように携帯を取り出し、ロック画面の緊急通報に指を伸ばす。と、その腕に千尋が肩で大きく息をしながら手を掛けた。
「待ってください……!」
「だめだよ、すぐに病院行かないと」
「アレルギーじゃないんです。……いえ、もしかしたらアレルギーなのかもしれないけど、食べ物じゃなくて……」
つらそうに言葉を止めたその後を、神保が確認するように引き取る。
「アルコールアレルギー?」
「はい……」
「そうか、それでゆっくりビール飲んでたんだね。様子見ながら」
「私も……一杯ぐらいならなんとか飲めると思ったんですけど……」
「その日の体調もあるからね、それは仕方ない」
二人のやり取りを聞いているうちに一希にも事情が飲み込めてきた。
「つまり中里はもともと酒が飲めないってこと?」
「あ……は、はい……」
「だったら最初に言えよ!」
つい荒げてしまった声に千尋がびくっと震え、しまった、と思った。心配しすぎた反動とはいえ、これでは弱っている人間に鞭打つようなものではないか。
自分でも最低の失言と思うそれに神保もまた不快感を示した。
「伊原さん、飲めない人はね、場が白けると思ってなかなか言い出せないの。新入社員ならなおさらだよ。それより、前もってそんなことも確認しないで接待に連れてきた自分のほうを責めなさいね」
まさに〝飲めない人〟からの痛烈なカウンター。彼女を同席させた目的が目的なだけに返す言葉がない。
「伊原、とにかく水と氷をもらってこい」
気まずくなった場を取りなそうとする畠山の指示に従い、弾かれたように立ち上がって部屋を飛び出す。上司のフォローをありがたく思ったのも、その存在を心強く思ったのも、これが初めてだった。
結局そのあと千尋は吐き気を訴え、一希が付き添って階下のトイレに行った。が、「一人で大丈夫だから戻ってほしい」と閉め出され、といって放っておくわけにもいかず、何もできないもどかしさでじりじりしながらドアの前で待っていた。
やがて青白い顔で出てきた彼女を「少し外の風に当たろう」と誘い、玄関ポーチのベンチに並んで腰を下ろす。会食の場に戻る前にさっき怒鳴ったことを謝っておきたかった。
「あのさ、」
話しかけると同時に千尋の目から涙がこぼれてぎょっとなった。
「どうしよう……私……接待メチャクチャにしちゃった……」
もはや謝るどころではない。慰めの言葉を探して脳内細胞をフル活動だ。これがカノジョ相手なら常套手段が使えるのに。
接待に関しては、そんなことはないと否定してやりたかったが、正直微妙なところだろう。もてなす側が酔って気分が悪くなるなんて失礼にもほどがある。加えて一希の対応もまずかった。たぶん畠山がリカバリーに励んでいるとは思うが。
そもそもの話、いくら上司命令とはいえ、自分が酒に弱いと知っていながらなぜ千尋は出席を承知したのか。なんとか切り抜けられると考えたのか。
ふと思い浮かんだのは数時間前に目にした彼女の姿。
「もしかして……運転したいって言い出したの、酒を飲まなくて済むと思ったから?」
「……大学時代、飲み会はいつも運転手役を自分から買って出てたんです。そうしたら飲まなくてもいいし、『つまらないヤツ』とか『空気読め』とか言われなくて済むから……」
肯定の返事は昏い告白だった。そうか。そうやって自分を守ってきたのか。
「でも学生の飲み会と同じに考えたらいけなかったんです。伊原さんの大事な契約がかかってるのに……」
「そうだね。ちゃんと言ってほしかったな、俺には」
「本当にすみません! ちょっとでも役に立てたらって、私……でもかえって迷惑かけて……!」
――違うんだ。「俺には」って言ったのは、そういう意味じゃないんだ。
兄と名乗ることは諦めたはずなのに、いまだ自分は彼女にとって特別な存在のつもりでいる。でも実際にはただの会社の先輩で、酒が飲めないことすら打ち明けてもらえないのだ。
これではだめだ。見守ってやることなど到底できはしない。
一希は一つ息を吐くと、明るく口調を変えて言った。
「中里にはしょっちゅうびっくりさせられるよな。アルコールアレルギーだの、草の花粉症だの」
「え……あ、はい」
決まり悪そうに千尋の目が動く。
「他にはもうない?」
「え?」
「もしあるんだったらちゃんと話して。困ってること、面倒なこと、悩んでること。一緒に解決方法考えるから。俺、頼りになるよ? 中里より八年余計に生きてるぶん、近道も抜け道も回り道も知ってるからさ。約束して。俺にはちゃんと話すって」
落ち着いて聞けば、「俺には」の理由も根拠もないことはわかったはずだ。でも千尋はそこをツッコんだりしなかったし、曖昧に笑って受け流しもしなかった。潤んだ瞳で一希をじっと見つめると、顔をくしゃっとさせて大きく「はい!」と頷いた。
感に堪えずに手を頭に乗せる。初めはポンポン、次にナデナデ、それからワシャワシャ。ちょっと図に乗りすぎか。
「い、伊原さん!」
「ごめんごめん。さ、そろそろ戻るか。神保部長に失礼をお詫びしないと」
「私も謝ります!」
「じゃあ一緒に土下座でもするか」
二人の距離が一気に近くなったようで嬉しくてたまらない。失敗を共有した連帯感でもこうなのだから、これから挽回して接待をうまいこと終わらせたらもっと仲良くなれるんじゃないか。
――よっしゃ、やる気出てきた。
しっとりした夜風が吹き始めたポーチから連れ立って中に入る。すると千尋が思い出したように化粧を直したいと言い、頼まれて部屋に鞄を取りに行った。
階段下で待っていた彼女にそれを渡してふと気づく。そういえばまだ大事なことを伝えていない。
「さっきは怒鳴ってごめんな」
「いえ、悪いのは私ですから」
「でも飲めない代わりに運転するっていうのはいい判断だった」
「はい?」
「助かったよ。神保部長との会話に集中できたし、雑談でこなれたおかげでプレゼンもうまくいった。ありがとな」
花が綻ぶように彼女が笑い、思わず見とれそうになって、慌てて「じゃあ先に行ってる」と階段に足をかけた。
――ヤバい。可愛い。構い倒したい。
長年の間満たされたなかった妹愛が溢れるほどに湧いてきて、見ている者がいないのをいいことにだらしないほど顔を緩める。――が、誰もいないと思っていた二階には人がいた。
もう一つの個室の客なのだろう、スーツ姿の中年男性が少々覚束ない足取りですれ違う。だいぶ出来上がっているらしく、一希のにやけた顔を見ても不審には思わなかったようだ。よかった。
と、そのとき奥の個室の引き戸がガラッと開いた。
「先生、大丈夫? トイレでしょ、私も行きます」
現れたのはシックなスーツを着た二十代半ばくらいの女性。切れ長の目が印象的な和風美人だ。接待に来たOLだろうか、ずいぶん手慣れたふうで、こちらに軽く会釈すると男性にすっと寄り添って背中に手を回す。
「だいじょぶだよー。そんなに酔ってないって」
「わかってますよ。私が先生と一緒に行きたいだけです」
……これは手練だわ。
さりげなく〝女〟を使って、酔った男をさらにいい気分にさせる。確信的で計算高い。一希も営業マンとして数多くの接待をこなしてきたが、こういうとき女は得だよなとつい思ってしまう。裏返せばセクハラのリスクが常にあるわけだが。
でもあの彼女、どこかで見たことがあるような気がするんだよな――
曖昧な記憶をたどりたかったが、今は接待の続きのほうが重要である。一希は気持ちを切り替えて個室の戸を引き開けた。
***
「タクシー着きました!」
表の道に出て待機していた千尋が小走りに駆け込んできた。再び行灯の明かりをたどってゆっくり路地を移動していた四人は、それを合図に締めの会話を交わし始めた。
「今日は本当に楽しい思いをさせてもらいました」
「いえ、みっともないところをお見せしてしまったこと、重ね重ね申し訳ありません」
千尋の一件について畠山とともに再び頭を下げる。すると神保は「いやいや」と手を振って、気のいい笑顔をこちらに向けた。
「中里さんが大事に至らなくて本当によかった。うちの娘はもっとひどいアルコールアレルギーだから」
「……そうだったんですか」
「化粧品もアルコールフリーじゃないとだめだし、私の体質を受け継いでしまったんでしょうなあ、なんだか申し訳なくてね」
一希への厳しい言葉にはそういう背景があったのだ。自分一人のことなら「仕方がない」で諦められても、血を分けた子供にまで及んでは簡単に割り切れないのかもしれない。
そういえば謙三も似たようなことを言っていた。「俺は自業自得だからいい、でも一希、お前は」と。世の父親が思うことは案外同じなのだろうか。
……だからってそれがなぜ一人暮らしに繋がるのかは理解できないけど。
ともあれ結果的には悪くない接待だった。社宅の取り扱いに関してこのまま話を進めていくことを確約してもらったのだ。
「ではあらためてこちらからご連絡します、神保部長」
「お互いにいい仕事になるようにしたいですね」
路地の出口で別れの挨拶を済ませると、神保と安川は待っていた二台のタクシーにそれぞれ乗り込んだ。赤いテールランプが遠く小さくなっていくのを見送ってようやく接待終了である。
「一時はどうなることかと思ったけど、やれやれだな」
「終わりよければすべてよしってことで」
「本当にすみませんでした!」
あらためて頭を下げる千尋に、畠山は「もういい」というふうに手をひらひらさせて応えた。彼女をこの場に連れてきた張本人だから強いことが言えないのだろう。
「まあ俺も今回のことではいろいろ学ばせてもらった」
「何をですか」
「例えば、日頃俺が厳しいことを言ってもヘラヘラと受け流すお前が血相を変えるとかな。中里をお前の下につけたらもっと必死になって仕事するんじゃねえか?」
要するにからかいたかったのか。
今日は上司の存在に初めて感謝してしまったが、それはそれ、これはこれ。期待するような反応など意地でも見せてたまるか。
「残念でした。中里が営業を手伝うのはこれが最後です。俺は須賀だけで手一杯なんで」
そうこうするうち息子の運転する車が迎えにきて、畠山は一足先に帰っていった。それを見送ってから、俺たちも帰るか、と千尋に声をかけたが、なぜかつんとしている。
「……どうしたの」
「何でもありません」
「なんか怒ってる?」
「拗ねてるだけです」
……今までの流れのどこにそんな要素が。
首をひねっていたら後ろから車のヘッドライトが近づいてきた。広い道ではないので端に寄ると、通り過ぎずに路地の前で止まる。どうやら月之庄の客を迎えにきた車らしい。
街灯の明かりが映し出したそれは黒塗りの高級外車。もしやその筋の関係者かと警戒心が働き、千尋に移動を促した。
ところが十メートルも行かないうちに背後からガヤガヤと声が聞こえてくる。そっと振り返ると、さっき二階で見かけた男女とさらにもう一人の若い女が路地から出てくるところだった。こっちはタイトなワンピース姿で、世の男がふるいつきたくなるような体つきだ。
「ほら先生、しっかりして」
「大丈夫、大丈夫。まだまだいけるよー」
いやもうイッちゃってるだろ。彼女らと転げ込むようにして後部座席へ乗り込む男にそうツッコんで、若い女二人と中年男という組み合わせに想像を巡らせる。
接待だとしたらずいぶんロコツだよな。華を添えるどころじゃない。いや、もしかしたら……
そこへ路地の暗がりからもう一人出てきた人物がいる。明かりの下にその姿がはっきりと現れるや、千尋は小さく息を呑んだ。