13 月之庄にて
市内中心部の大通りを裏に一本入った閑静な住宅街。それらしい看板はなく、注意していなければ見過ごしてしまいそうな細い路地が月之庄への入り口だった。
神保たちを降ろすと、到着の連絡を受けてここで待っていた畠山との間で初対面の挨拶が始まった。千尋には車を駐車場に停めに行くよう指示して、先に店に入ってるから、と付け加える。
石畳の路地はそのまま建物へのアプローチとなっていた。点々と置かれた路地行灯に灯る明かりが、暗がりにぼうっと浮かんで幻想的な雰囲気を醸し出している。
やがて現れたのは古い竹垣と簡素な屋根付きの冠木門、そして一般住宅にしか見えない一軒家。もし門に暖簾が掛かっていなければ誰も飲食店とは思わないだろう。
白い生地に染め抜かれた店の名前に神保は「えっ」と声を上げた。
「月之庄……ここが?」
「名前はご存知でしたか?」
「そりゃあ、予約が取れない店で有名だから。……でも見た目は普通の家だな」
「古い民家を改装したそうです」
暖簾をくぐって先に進むと、新しく手を入れたと見られる箇所が次々と現れた。
竹垣に沿ったアプローチに敷き詰められた敷石。照明を当てた坪庭。玄関ポーチに設えられたベンチ。ドアの向こうは風除室のような空間になっていて、ハンガーラックや傘立てが置かれている。もともとは三和土だったところだろう。
そして内側の扉を開けると中はすっかり料理店の様相だった。
「いらっしゃいませー」
威勢のいい声が響く室内の中央には、どっしりした一枚板のL字型カウンター。奥の壁は大きく窓をとり、ライトアップされた日本庭園を席から眺められるようになっている。柱や梁はそのまま利用したのだろう、風合いがあって、新旧の建材や家具が調和した和モダンな内装だ。
「神保部長はカウンターのほうがお好みかもしれませんが、すみません、今日は個室で」
「いやいや、連れてきていただいただけでありがたいことですよ」
今夜一希たちに用意されたのは二階に二つだけある個室の一つだった。階段を上がってすぐの手前の部屋で、こちらも和モダンな作りだ。
靴を脱いで上がるフローリングの床に、掘りごたつ式のテーブルとシンプルな座椅子。座った目線の高さに合わせた横長の地窓はさっきの庭に面していて、光を当てて暗がりに浮かび上がる木々を、切り取られた額のように美しく映し出している。
奥から神保と安川、その対面に畠山、一希と腰を下ろし、それぞれが部屋のあちこちに目を動かしては感嘆の声を上げた。
「古そうな家なのに変われば変わるもんですなあ。これもリノベーションですか」
「そうですね。残念ながらこちらのお店に弊社は関わっていませんが」
「さっき見せていただいたマンションも、元は中古だったとは思えませんな。新しく一階に作ったロビーと宅配ボックス、あれはいい。自転車置き場を中に作って出入り口を別にしたのもよかった。ロードバイクの置き場所に困ってるという人は結構いますからね」
「共有部分を思い切って変えられるのが一棟まるごとリノベの良さなんですよ。時代が変われば求められるものも変わってきますから」
神保と畠山が話をしている間に千尋が現れ、次いで接客係が飲み物の注文を取りにやってきた。
「神保部長はお酒を召し上がらないと聞きましたが、どうなさいますか? ノンアルコールビールとか」
「いや、一滴も飲めないわけじゃないんだ。最初の一杯ぐらいは付き合わせてもらうよ」
「そうですか。じゃあとりあえずビールにしますか、チーフ。安川さんも?」
「ああ、いいですよ、それで」
サクサクと決まって、ビール五つ、と接客係に告げた。すると隣から「すみません!」と千尋の慌てた声。
「私は烏龍茶で。運転しなきゃいけないので」
危うくプッと吹き出すところだった。これ以上どこまで走るつもりだ。
「帰りは俺が運転するから、中里は飲んでいいよ」
「えっ……」
「どっちみち家まで帰るのに運転するんだしな」
「でも伊原さん、ビール飲むんですよね」
「一杯ぐらい平気だよ。コース食べ終わる頃にはアルコール抜けてる」
実を言うと、ビール一杯だけというのはあらかじめ畠山と相談して決めていたことだった。神保以外の全員が飲んでしまっては主賓を蔑ろにするようだし、かと言って安川だけに飲ませて他はノンアルコールというのも味気ない。
そこで二対二なら互いに受け入れやすいだろうということで、畠山が飲む役、一希は飲まない役とした。帰りの運転まで千尋にやってもらっては、飲まない理由がなくなってむしろ困るのである。
「よかったじゃん、中里さん。先輩がそう言ってんだから飲んじゃえ飲んじゃえ」
安川の煽りに付き合って軽く笑った千尋は、ビール五つでよいかという接客係の確認に小さく頷いた。
淡い黄金色に満たされたグラスで乾杯し、喉を潤して一息つく。神保の反応を見るかぎり、リノベマンションでのプレゼンは成功したようだし、ここまではまずまず順調と言ってよいだろう。この調子で接待もうまくいってほしい。
「失礼します」
「おっ、来た来た」
先付けを持って入ってきた接客係に皆がわくわくした目を向けた。空きっ腹に加えてあの月之庄が出す料理なのだ、いやがうえにも期待が高まる。
注目の集まるなか、一人ひとり丁重に差し出される二種類の器。そこにあるものはどう見ても……
「……抹茶と桜餅?」
いきなりデザートって、何かの間違いじゃないのか。
戸惑いが行き交うテーブルでひとり神保だけがフフッと笑った。
「桜蒸しだね。中身は何?」
「鯛と筍が入っています。抹茶に見立てたものはそら豆のスープです」
桜蒸しとは、桜餅と同じく道明寺粉を使って白身魚などを包み、桜の葉を巻いて蒸したもの――とは接客係による説明である。
「よくご存知ですね、神保部長。ご自宅でも作られるんですか」
「わざわざ家では作らないねえ。これは料亭とかじゃないと美味しくないでしょ。でも先付けで出てくるのは面白いね、しかもお抹茶みたいなスープと。……写真撮ってもいいかな?」
「もちろんです、どうぞ」
楽しそうに携帯を構える神保を見ていると(主賓がこうなのでお預けを食っているのだ)、耳元でヒソヒソと囁く声が聞こえた。
「伊原さん、私も写真撮っていいですか?」
何もそんなに小声で訊かなくても、と思うそばから神保が吹き出し、他の二人もつられて笑う。
「す、すみません、お邪魔しちゃいけないと思って……!」
「女の子一人じゃかしこまっちゃうよね。いいんだよ、私に遠慮なんかしないで好きなだけ写真撮りなさい」
「ありがとうございます!」
スマートな運転手ぶりから一転、こういう場には不慣れであることを晒してしまっても、千尋に注がれる神保の眼差しは温かく、そのうえ心なしか甘い。それもそのはず、彼には同じ年頃の娘がいるのだそうだ。料理を覚えたのは、好き嫌いをやめさせようと妻と一緒に工夫を始めてからだと言う。
「おかげで今ではちょっと食べ過ぎじゃないかってぐらい、食べるようになってね。月之庄でごちそうになったって聞いたら、『お父さん、ずるい!』って言われるだろうなあ。……うん、これも美味い」
娘に見せるつもりなのか、神保は次の品、海老とアボカドの湯葉和えも写真に収めてから口に入れた。仲の良さそうな家族の像が目に浮かんできて、一希の顔も自然と綻ぶ。
「もしかして、そのピンクのワイシャツはお嬢さんのお見立てですか」
「あ、わかる? 自分ではなかなか買えないよねー。プレゼントしてくれた手前、着ないわけにもいかないし、でも着てみたら意外と職場でも好評で」
「お似合いですよ」
「いいですなあ。うちは男ばっかりの三兄弟なんでつまらないもんですわ。……おい、中里、うちに嫁に来んか。どれでも好きなのやるぞ」
いきなり話を振られた千尋は「え? えっ?」と慌てて、皆の笑いを誘った。今夜はイジられ役になりそうな気配だが、当初心配していた方向よりはずっといいだろう。
やがて三品目、蛤と蕗の椀物と前後して一希と神保は烏龍茶、畠山と安川は日本酒を頼んだ。一方、千尋は飲むピッチが遅く、ビールがグラスに半分も残っていた。
「中里さん、ビールあんまり好きじゃないの? もっとフルーティな桃の酒とかもあるよ、頼んでみたら?」
「いえ、大丈夫です、ビールで」
ほんのり赤く色づいた顔で答えると、グラスを取り上げ一口飲んでまた元に戻す。本当は苦手なのだろうと思いつつも、一希は「好きなの頼めよ」と言うに留めた。神保が例の社宅に言及し始めたからだ。
「実を言うとね、あの土地は以前にも売却の話があったんですよ。財務状況が厳しかった頃で、銀行に借り入れせずに自前で資金調達できないかってね」
当時専務だった現社長が、ちょうど条件に合う土地を探している企業があると聞き、それなら話は早いと具体化したらしい。
しかし結局価格が折り合わず、建物の解体費用もかかりすぎるためご破算になった。その後建替えやリフォームの必要性は議論されながらも先送りにしてきた結果、今や入居率が半分を切るようになってしまったということだった。
「売却すべきという意見のほうが多いんですよ、この安川みたいにね。支社では家賃補助制度だし、不平等でしょう? でも私は手放したくなくてね、何とか建替えできないかと頑張ってきたんですがねえ……」
苦笑した顔には無力感が浮かんでいた。どんなに社宅に対して思い入れがあっても、コストカットという現実問題の前ではどうにもならない。
「それでリフォームならどうかと検討を始めたところに、安川がリヴィータさんの話を持ってきたというわけでして」
「そうでしたか」
「さっきのマンションを見てね、今のニーズに合ったものを建替えより安く作れるなら、そのほうがいいなと思いましたよ。もし売却ということになっても、リヴィータさんなら解体しなくてもいいんだしね」
「弊社に任せていただけるんでしたら、どちらにしても大切に作らせていただきます」
畠山の言葉を噛み締めるように神保は頷いた。
確かな手応えを感じて一希の胸が熱くなる。あの古い社宅をどうやって生まれ変わらせようかと、早くもわくわくするのを抑えられない。
しかしその高揚感は安川の上げた一声によって一瞬で静まった。
「中里さん、どうしたの!?」
振り向くと、千尋が真っ赤な顔をして荒い呼吸を繰り返していた。
道明寺は関西風桜餅です。関東は長命寺が一般的です。