12 華の乱
今日の接待には段取りがあった。
まず一希と千尋が富永電機本社に相手を迎えに行き、リヴィータの手がけた物件に案内する。実績を現地で直に見てもらったあと、料理店にて畠山と合流。会食が終わったらタクシーを配車してもらう。
まとまれば大きな契約となるだけに鬼瓦の鼻息は荒い。場に華を添えるためだけに連れて行かれる千尋さえプレッシャーを感じたようで、「じゃあ行ってこい」と送り出された時には顔が少し強張っていた。
「ちょっと緊張してきました」
「接待初めてだもんな。大丈夫だよ、会話はこっちでするから。中里は何か訊かれたときだけ無難に答えてくれればいい」
先日は「思ってるほど子供じゃない」などと言っていたが、こういうところはやはり年相応の女の子だ。
心配すんな。何かあっても俺が守ってやるから。
兄とは名乗れなくてもそれが自分の役目、と決意を胸に車のロックをピピッと解除する。するとキーを持ったその手に、はい、と彼女の手が差し出された。
「なに?」
「鍵ください。私が運転します」
「――は?」
「私のほうが下っ端ですから。ただついていくだけだったら金魚のフンだし、お人形さんみたいに笑ってるだけじゃ、先方だって変に思いますよね」
自分の役回りは承知していたはずなのに、ここにきての自己主張。しかも「金魚のフン」だの「お人形さん」だのと痛烈だ。いったい何があった?
まあ、言っていることは間違っていないし、運転ぐらいさせてやっても、とは思うのだが……
社有車とはいえすでに第二のマイカーと化しているハッチバックセダン。他人に運転させるとなれば誰であろうと一応心配はする。それが若い女の子だったらなおさらだ。多少偏見のフィルターがかかっているけど。
躊躇しているのを見て取ったのか、千尋は安心させるように「大丈夫ですよ」と言った。
「うちの車もマニュアルだって言いましたよね?」
「普段、何乗ってんの?」
「軽ですけど、たまに父のセダンにも乗るから、ちょっと大きいくらいなんてことないです」
ここまで言われては折れるしかない。じゃあ頼む、とキーを渡して助手席に乗り込み、それでもやはり気になって隣に視線を動かす。
――その結果、目の毒になるものを見てしまった。
お尻から中に入るとか! スカートがずり上がって太ももが見えそうになるとか! 脚を片方ずつ上げて靴を脱ぐとか!
「な、何やってんの!?」
「パンプスだと運転できないから」
「だったら何も無理に、」
「もう遅いです。あ、すみません、これ足元に置いてもらっていいですか」
千尋は靴を通勤バッグに放り込んで渡すと、座席の位置を調節してさっさとエンジンをかけた。ギアをリバースに入れて注意深くバックし、一速に変えてゆるゆると駐車場の出口へ。そして滑らかな動きで車道に乗り入れる。
「靴履かなくても平気なんだ」
「慣れてます。きゃー、この車、加速すごい!」
「そりゃ軽と比べれば。道わかってる?」
「バッチリです。うわあ、ハンドルに揺れがこない! 快適ぃー」
嬉しそうな様子を見ていたら、さっきの不安はいつの間にかどうでもよくなっていた。こんなに喜ぶのなら好きなだけ運転させてやりたい。運転技術も確かなようだし問題はないだろう。
前方を見据える横顔は凛として美しく、つい見とれてしまう。
……助手席に座るとこういう役得があるのか。
ハッとしてすぐさま視線を外した。「見守っていきたい」ってそういうことかよ!
慌てて自分にツッコミを入れたが心は落ち着かない。おかげで千尋から「さっきはすごかったですね」と言われてもすぐには反応できなかった。
「え? なに?」
「接待の場所が月之庄って聞いた時の皆さん」
「ああ。あれはすごかった……と言うよりコワかった」
月之庄とは現在県内で最も予約が取りにくいと言われている飲食店である。個人投資家のオーナーが道楽で始めた創作割烹料理の店で、開店してまだ二年ぐらいなのだが、口コミで評判が広がり二ヶ月先まで予約が埋まっているという。
つまり接待だからといって簡単にはセッティングできないのだ。それがなぜできたかというと、一希がオーナーと知り合いだったから。以前勤めていた会社で自宅の住み替えを担当し、その後も不動産投資を手伝って信頼を得た。彼から紹介してもらった新規顧客も複数おり、上得意の一人なのである。
今回、酒にも女にもゴルフにも興味がない先方の部長の趣味が料理だと聞いて、ダメ元で頼んでみたら快諾してくれた。話題の店での食事はきっと喜んでもらえるだろうと思ったのだ。
しかしまさか同僚たちまでがあんな反応をするとは。
月之庄の名前を聞くと、彼らは口々に自分も接待に行きたいと言い出した。もちろん許されるはずはなく、畠山の「遊びじゃねえんだぞ!」の一喝で引き下がったものの、恨みがましさを口に出すのは抑えられなかったようだ。
例えば須賀は、
「いいなあ千尋ちゃん、俺も可愛い女の子に生まれればよかった」
「フツーに予約して行けよ」
「接待ならタダじゃないですか! 新入社員の薄給でどうやって行けと」
「契約取れ! 契約!」
苑子は一希の左腕を抱え込み、正直に答えたら絶対に後がコワい同意を求めてきた。
「なんであたしじゃダメ? まだまだイケるのにぃ。ねえ、伊原くん?」
「ちょ、ちょっと苑ちゃん、乳当たってる、乳!」
「乳の一つや二つ何よ」
「うわ、問題発言」
というちょっとした騒ぎがあったわけだが――
「もしかしてあれを気にして?」
「はい?」
「運転したいって言い出したの」
華としてだけ求められたことへの精一杯の反抗だったのではないか。
千尋の心情をそう推し量って少し可哀想に思ったものの、本人は「そういうんじゃないです」と素っ気ない。それどころか唐突に「野上さんって結婚してるんですよね?」と訊いてきて、一希を戸惑わせた。
「結婚して三年かな。一歳の子供もいる。だからなのかね、ああいう台詞が平然と出てくるの。貫禄だね」
「そうですか」
「……苑ちゃんがどうかした?」
何となくトゲがあるように感じて尋ねると、いえ別に、とこれまた素っ気ない答え。
まさかあの苑子とトラブルなんてないよな。
そっと隣を盗み見たが、運転に集中する横顔からは何も読み取ることができなかった。
***
酒も女もゴルフもやらないなんて、堅物なのかストイックなのか、はたまたちょっと偏屈なのか――
富永電機本社ロビー。初めて対面した先方の神保部長は想像とは違ってオシャレな人だった。髪は染めているのか黒々として、縁なし眼鏡に淡いピンクのワイシャツ。五十代半ばと思われるが、尊大な感じはせずむしろ気さくな印象を受ける。
「すまんですなあ、わざわざ来ていただいて」
「とんでもありません、こちらからお誘いしたのですから」
「部長、騙されちゃだめですよ。伊原さんは下手に出るのは最初だけで後はグイグイくるんだから」
ニヤニヤと余計な注意をしたのは実務担当の安川である。
一希と同じ年代でこちらは普通に酒好き女好きとあって、何度か接待したら(キャバクラ含む)落とすのは難しくなかった。社宅を売却する方向で動いてもらっており、今回、上役の神保に渡りをつけてくれたのも彼だ。
「でもひどいよね、伊原さん。中里さんだっけ? こんなキレイなひと今まで隠してたなんてさ」
「隠してたわけじゃありません。入ったばかりの新人なんです。今日はいろいろ勉強させたいと思って連れてきました」
「へえ、新入社員?」
「はい、本日はどうぞよろしくお願い致します!」
元気よくお辞儀をする千尋に注がれる眼差しは優しげだった。
「若さが眩しくてくらくらしますね、部長。日頃顔を突き合わせているメンツがメンツなだけに」
「そうだなあ」
右も左もわからない新人の女性社員に課せられた役割が何であるのか、たぶん彼らにはもうわかっているだろう。そのうえで若々しい笑顔や仕草を好ましい目で見てくれるのだから、華を添えることの意味は確かにあるのだと思う。おかげで初対面のぎこちなさは多少なりとも和らいだ。
「では参りましょうか」
ここからが本番と一希は気を引き締めた。リヴィータの実績を見てもらいながら魅力的なプレゼンをしなければならないのだ。
そのためには失礼のない応対がまずは求められるが、特に指示もしていないのに、千尋のそれは申し分がなかった。
建物を出るや、玄関脇にある訪問者用の駐車場に停めた車にさっと近寄り、どうぞ、とドアを開ける。どこで覚えたのか、神保が乗り込む際に頭が当たらないよう入り口の上部に手をかざす気配り。ドアを閉める際にも「失礼します」と一声かけ、大きな音を立てない。
運転席に乗り込んだ彼女に、「中里さんが運転するんだ」と安川が意外そうに言えば、にっこり微笑んで答える。
「はい。安全運転で参りますのでどうぞご安心ください」
運転手としては心許ないと思われているのを承知しての言葉だろう。これでひとまずの信頼は得られる。
ずいぶんこなれてるんだな。
一希はひどく感心しながら千尋が車を発進させるのを横目で見ていた。先月まで学生だったことを思えばたいしたものである。
「しっかりした新人さんだ。先輩の教育の賜物かな?」
茶目っ気たっぷりに褒める神保に助手席から顔を向けて答えた。
「恐れ入ります。でも私が教えているのは別の新人で、そっちはまだまだ養成中といったところです」
「うん。新入社員の扱いはなかなか気を遣うよね。数年に一人はこっちがポカーンとするような子が入ってくる」
「そういう子がデキる社員に化けたらたいしたものですね」
「そうそう、何年か前に入ってきた子はね――」
移動中の雑談も繋ぎとして大切で、話題がないと気まずい空気になることがある。でも今日はそういう心配はしなくてよさそうだった。
千尋が運転してくれるおかげで会話に集中できる。遅まきながらそのことに気づき、強引とも言える押しの強さで望んだ彼女に感謝したい気持ちだった。
――華は華でも、ただの華じゃない。
夕方に差し掛かった街は少しずつ西日の色を濃くしていく。四人を乗せたハッチバックセダンは、夜を迎える準備をしている反対側の空を前方に見ながら、目的地に向かって走り続けた。