11 似た者親子
謙三の衝撃的な「家を売る」宣言から数日後、一希は野上モータースを訪ねた。
あれから自分なりに考え、気持ちはだいぶ整理されてきたが、納得できないことは依然としてある。それを拓馬に聞いてもらい率直に意見してほしかった。
差し入れの飲み物が入った袋を提げて、まずは店舗に足を向ける。今日は客としても用事があるのだ。
馴染みの従業員を見つけて要望を伝えていると、奥から社長である拓馬の父親が出てきた。
「よう、カズちゃん」
「こんにちは。ちょっと拓馬借りますね」
「ああ、ゆっくりしてきな」
強面の顔には柔和さが加わって、かつての〝おっかない親父さん〟の面影はずいぶんと薄くなっている。
この人も変わったよなあ。司が生まれてからかな。
年を取ると丸くなると言うが、では謙三は何なのだろう。一人暮らしをしたいだの、自由気ままに生きていくだの、親の束縛から解放されたい子供かとツッコみたくなる。友人の父親ながらこの人のほうがよっぽどわかりやすい。
「そうだカズちゃん、それ一部持ってってよ」
彼が指した「それ」は応接セットのテーブルの上に積まれていた。近づいて見てみれば片桐知彦後援会の会報誌である。
「おじさん、こんなものまで配ってんの?」
「兄貴が置いてったんだよ。会員向けのじゃなくて臨時で出してるやつ。年に一、二回、ここに置いてくれって頼まれるんだ。さばけないと俺も困るからさ。頼むよ」
会員を募るツールとして一般有権者に配布しているものだ。一希は熱烈な支持者ではないので興味はないが、もらって迷惑になるものでもない。承知して一部を手に取り、じゃあ頼むね、と従業員に言って、さっき拓馬の父親が出てきた奥の扉を開けた。
店舗と棟続きの工場とは事務所を間に挟んで行き来ができるようになっている。勝手知ったる何とやらで通路を通り抜け、四基のリフトを擁する広い作業場に足を踏み入れた。
FMラジオから流れる音楽をBGMに、作業着姿の男たちが数台の車の整備にあたっている。拓馬はどこかと目を凝らすと、壁に取り付けられたPCモニターの前で同僚整備士と何やら話していた。OBD(自己診断機能)の解析データを読んでいるらしい。
近年は自動車の電子制御化が進み、整備士は作業が楽になる一方で高度な知識を求められる。拓馬もまた先端技術の勉強に余念がないが、最も得意な仕事は板金塗装修理だというのだから結構笑える。
実際、腕前は芸術的と言ってもよく、小さなキズから大きなへこみまで何もなかったかのようにきれいに直してしまう。評判を聞いてディーラーではなくここに車を持ち込む客も多い。
「拓馬」
呼びかけに反応して振り向いた友人は、「先に行ってて」とジェスチャーで答えると、再び同僚とモニターを覗き込んだ。持参した飲み物の袋から二本のペットボトルを取り出し、残りを整備士たちに差し入れていつもの喫煙所に向かう。
ふらりと立ち寄ったときなどは作業によっては待たされることもあるが、今日はあらかじめ来訪を伝えてあったからだろう、拓馬は後からすぐにやってきた。無糖コーヒーを「サンキュ」と受け取ってごくごく喉に流し込むと、単刀直入に切り出す。
「で、何があったの?」
慣れたものですでに話を聞く態勢になっている。一希は軽く苦笑して謙三との間に起きた出来事を語り、どうしても納得できないと思うことを訴えた。
父親が家の売却を一人で決めてしまったことにはわだかまりがまだ残っている。しかし過去にケリをつけて第二の人生を始めたいと言うのなら、それはそれで仕方ないだろう。
でもなぜ別居なのか。
「俺さ、このままずっと一緒に暮らしていくんだと思ってたんだよ。そりゃ親父はまだまだ元気だけど、いつかは俺が面倒見るんだし、このまま二人でいて何が問題? 別々に暮らすメリットって何?」
「――もしかしておじさん、好きな人がいるとか」
予期せぬ方向からの不意打ちにしばし言葉を失った。
「……それは考えたことなかったな」
長年二人だけで生活してきたからか、謙三が新たなパートナーを見つけるという発想はなかった。一希自身の結婚をイメージできない以上に。
「もしそうだったら賛成する?」
「そりゃあまあ……いい人なら。でも、だったらちゃんと言うだろ」
「言い出せないのかもよ。カズより年齢が若いとかさ」
「そんなの普通に考えてカネ目当てじゃん」
もしそうならとんでもないと眉をひそめると、拓馬は我が意を得たりとばかりにニヤリと笑った。
「へえ、カズがそれ言うんだ?」
ぐっと詰まって、なんとか負け惜しみだけは言い返す。
「いいんだよ俺は。わかってて付き合ってたんだから」
「理由にも何もなってないけどね。でもこれで心配する人の気持ちわかった?」
認めるのは癪なので黙って煙草に火をつける。拓馬はそれをフッと笑うと、一本ちょうだい、と言って箱から抜き取り一緒に吸い始めた。
「――カズさ、初めてじゃない? おじさんと喧嘩するの」
「え? 喧嘩?」
「昔から羨ましかったんだよね。俺の親父と違って、おじさんはカズのこと怒鳴ったり頭ごなしに叱りつけたりしない。ちゃんと言い分を聞いて、何が悪かったのかを自分で考えさせてくれる。――覚えてる? 補導された時のこと」
あれは高校一年の夏休み。ゲームセンターで他校のワルに因縁をつけられ、言い争いから殴り合いの喧嘩に発展したことがあった。店側の通報で駆けつけた警官に署まで連れて行かれ、連絡を受けたそれぞれの親が迎えに来るという、特に素行が悪くもない普通の高校生にとってはなかなかしがたい経験だった。
「うちの親父、俺の顔見るなり平手打ち。人様に迷惑かけやがって、バシーン! だもん。俺が悪いんじゃないって言っても全然聞いてくれなかった。で、その後におじさんが来てさ――」
謙三は事情を一希自身の口から語らせると、一緒に店に謝りに行くことを承知させた。そしてもしまた同じことが起きたらどう対処すべきかを、警官を交えて話し合ったのだった。
「カズんとこと比べて俺は全然信用されてない。そう思ったらすごい悔しくてさ、しばらく親父が信じられなくなったし嫌いになった」
「……お前、そんなこと一度も言ったことねーじゃん」
「まあ今は何となくあの時の親父の気持ちもわかるんだけどね。――でさ、俺に限らず男ってさ、思春期の頃に父親に嫌悪感を持ったりするんだよ、大なり小なり。でもカズにはそういうのなかったよね?」
なかったような気がする。嫌悪感どころか、反発や不満を感じたことも。
「たぶんそういう感情は全部お母さんのほうに向いてて、おじさんとは連帯意識が強かったんだろうね。おじさんもおじさんで申し訳ないって思ってたんなら、喧嘩になりようがなかったのかも。……こうして考えてみるといいことだったのかどうかわからないね」
言われてみれば思い当たることはいくつかある。
あの頃は両親の離婚や千尋との別れが尾を引いて、何をやっても楽しくなかった。一希なりに〝荒れて〟いた。サッカー部はたった二ヶ月で辞めたし、試験のたびに成績は乱高下。ゲームセンターでの一件もその延長だろう。
でも謙三がそれを否定的に捉えたことはなかった。
『部活は強制じゃない。お前には辞める権利がある。他のことで頑張ればいいさ』
『トータルで見れば平均点じゃないか。父さんが報告書作成でいつも使ってる手だ。次でまた数字を上げればいい』
極めつけは大学中退だ。偏差値だけで選んだ関西の有名大学を辞めたくなって相談したとき、つまらないとか土地が合わないとかの言い訳にも怒ったり呆れたりしなかった。
『それなら仕方ないな。じゃあやりたいことが見つかるまで家のことやってくれ』
いくつかのバイトを経験したあと、不動産会社に就職を決めたと報告すると、
『そうか。まあ頑張れよ』
あれは喧嘩をしなかったのではなく、できなかった? 一希がもがく姿をずっと見守りながら、謙三も苦しんでいたから?
「カズもおじさんも似た者親子だよ。お互いのこと一番大事に考えてる。傷つけないように、触れたらいけないことには触れないようにして生きてる。おじさんが別居したいなんて言い出したのも、きっと自分のためなんかじゃないよ」
「俺のためだって言うの? ……意味わかんねえ」
父親の真意について考えれば考えるほどまるで迷路に入り込んだみたいになる。本人の望みどおりに家を売ってしまって本当によいのだろうか。
「……俺、あの家売ることなんかできるのかな」
「思い出がいっぱい詰まってるからね。難しいね。……そういえば例の千尋ちゃんとはどう?」
思わず笑みがこぼれ――正確に描写するなら、顔がにやけた。
「ちぃちゃんだよ。間違いない」
「ほんとに? で、どうすんの?」
「向こうが思い出さないかぎりこのままでいようと思ってる。会社の先輩として見守っていてやりたい」
「いいのそれで」
拓馬は納得できないような表情で尋ねた。一希のシスコンぶりを長年間近で見てきただけに、それで治まるとは思えないのだろう。
いいんだよ。ちぃちゃんにはもう〝にぃに〟は必要ないんだから。これから先の未来が、ちぃちゃんの思い描くようになってくれればそれで。それだけで。
思いを口にするといきなり肩を抱かれて引き寄せられた。
「わっ、ちょ、何!」
「ほんと、おじさんにそっくり。……優しいのはいいけどさ、いざってときに使い方間違えたらだめだよ」
愛情がたくさん詰まった台詞は耳元で聞くと、言葉以上に破壊的で面映ゆかった。
「……覚えとく。こんなとこ苑ちゃんが見たらヤキモチ焼くぞ」
半分照れ隠しで答え、吸い終わった煙草をバケツに投げ入れて立ち上がる。
「会社に戻るわ。もう終わってるよな?」
うん、という返事と同時に一希の携帯が通知音を鳴らした。『どこをほっつき歩いてやがる』という上司からの麗しいメッセージ。このあと大事な接待が控えているからイライラしているのだろう。ウザいのですかさず『洗車中です』と返してやった。
「相変わらずだね、カズは」
「いや、ホントのことだし」
接待で車を使うため洗車を頼んでおいたのである。まあ、畠山はコイン洗車場かどこかだと思っているだろうが。
ぐるりと建物を回るとハッチバックセダンはピカピカになって待っていた。車内も綺麗に清掃されていて爽やかな香りが漂う。これなら先方にも失礼にはならないだろう。
手に持っていた会報をダッシュボードのボックスに入れて車を発進させる。この後の段取りに頭を切り替える直前、さっき拓馬から言われた言葉を思い出して小さな笑いを漏らした。
――優しさの使い方か。でも「いざってとき」ってどんなときだよ。