10 小さな手を離した日
家族四人の幸せな日々はなぜずっと続かなかったのか。
その理由を一言でまとめるとすれば、仕事と家庭の両立がうまくいかなかった、ということになるのだろう。ある人は八重子がわがままだったと言い、ある人は謙三が協力的でなかったと言う。
でも離婚に踏み出すきっかけを作ったのは、間違いなく自分だったと一希は思う。
千尋の成長にともなって、八重子は少しずつフリーライターの仕事を増やしていた。物書きとしてわずかでも業界に関わっていたいという彼女の希望は理解できるものだったし、実際、謙三はできる限りの協力もしていた。
ただしそこには家庭を優先するという不文律が常にあって、八重子は意識してこれを守っていたと思う。かつて一希に語ったように、謙三との再婚に至る背景でもあり出発点でもあったからだ。
それが変わってきたのは千尋が小学校に上がって最初の夏が始まった頃である。
「泊まりがけの取材に行きたい」
その要望自体は頻繁ではなかったが初めてというわけでもなく、家族は別段驚きもせず八重子を送り出した。帰宅予定日になってから「もう一日延長したい」と連絡があったが、取材がうまい具合に進まなかったのだろうと快く受け入れた。
ところが二週間ほどして再び現地に行くと言う。今回は依頼ではなく個人的な興味によるもので、前回の取材の過程で偶然出くわした案件だと言うのだ。そのアウトラインを知るために一日延長したということだった。
週に二日、早朝に出発して深夜に帰宅。やがてそれは三日になったり、宿泊を伴ったりするようになり、そのうえ依頼の仕事も入るため、伊原家では母親不在の時間が次第に増えていった。
一希は高校受験を控えた身であり、できることには限りがある。夏休み中はまだしも二学期が始まれば千尋の面倒ばかり見ていられない。
この状況に謙三は当然ながら苦言を呈した。
「子供たちが寂しい思いをしているよ。家の中も荒れているし、依頼でもない取材をいつまで続けるつもりなんだ」
「ごめんなさい。なかなか信用してもらえなくて、話を聞くために何度も出向く必要があったの。でもこれからは気をつけるから」
詳しい内容は明かさなかったが、半年前、校内で起きた盗難の犯人と疑われ、自殺した中学生の事件を調べているということだった。当時の担任の言動について学校側が隠蔽していたフシがあるのだという。
八重子を駆り立てていたのはおそらく、フリーライターの仕事だけでは満たされない、ジャーナリストとしての使命感のようなものだったのだろう。
再婚によって一時は眠っていたそれが再び目を覚ました。そしていったん火がついたら消し去ることはできず、どんなに「気をつけ」ていても、取材に熱が入っては家族が後回しにされる事態が繰り返された。
これによって最もとばっちりを受けたのは千尋だった。
「ねえお母さん、運動会見にこないの?」
「行くけどお昼までね。駆けっこと玉入れは見られるから」
「でもダンスは午後だよ。ちぃちゃん一番前で踊るのに」
「ごめんね、ちぃちゃん。大事なお仕事なの。わかってね」
七歳の子供に仕事の意義なんか理解できるわけがない。ただ母親のためにじっと我慢するだけだ。〝受験生〟の意味はよくわからなくても兄に気を遣うのと同じように。
「にぃに、お勉強するんだよね」
「うん、テストがあるんだ。ちぃちゃん、一人で平気?」
「平気。ちぃちゃん静かにしてるから。いい子にしてるからね」
謙三は幾度となく妻と話し合いをしたようだったが、その内容が一希に知らされることはなかった。表面的な平和が保たれていたのは、受験勉強に差し障りがあってはならないという配慮からだろう。
でも気になって一度だけ尋ねてみたことがある。
「父さん……離婚なんてしないよね……?」
「父さんも母さんもそんなことは考えていないよ。一希だってちぃちゃんと家族でいたいだろう?」
「うん」
「大丈夫だよ。お前は何も心配しなくていい」
そうは言っても、千尋が健気に我慢する姿を見るたび母親への不満は高まっていった。かつての自分のように一人ぼっちで家族の帰りを待つ妹が不憫でならなかった。
そして十二月に入った頃ついにそれが爆発する。受験校を決定する最後の三者面談に現れなかった八重子に、一希は冷たく怒りをぶつけた。
「別に母さんがいてもいなくても同じだったから。先生も第一志望のとこで大丈夫って言ってくれたし」
「本当にごめんなさい」
「いつもそうやって謝ってるよね。でも何か変わったことある? 謝るぐらいなら仕事なんてしなければいいんじゃないの?」
「……カズくんにはわかってもらえないかもしれないけど、私にはとても大事なことなの」
「俺の三者面談よりもね。だったら無理して俺の母親なんかやろうとしなくていいよ。それよりもっとちぃちゃんのこと見てあげたら? いつも我慢してるの気づいてないの?」
八重子はそれ以上言い返さなかった。ただ傷ついたような表情で力なくその場に立ち尽くしていた。
たぶん謙三や千尋に同じことで責められてもこれほどはこたえなかっただろう。血の繋がらない息子、意識して家族であろうとしてきた相手だったからこそ、母親失格に等しいことを言われ、重く受け止めざるを得なかったのだ。
八重子が離婚を切り出したのが正確にいつなのかはわからないが、この一件の後だったのは間違いないと思う。一希に初めて伝えられたのは卒業式の翌日の夜のことで、両親の間ではすでに結論が出ていた。
「父さん……だって……離婚はしないって……」
「すまない、一希。何度も話し合ったけどこういうことになってしまって」
「お父さんが悪いんじゃないの。全部私のわがままなの。ごめんなさい、カズくん」
家庭と仕事。このままではどちらも中途半端になってしまうからというのが彼女の主張で、その固い意志に謙三は押し切られたようだった。選ばれなかった側の驚きと憤り、そして罪悪感が頭の中を目まぐるしく駆け回る。
なぜゼロか百かでなければいけないのか。誰もそんなことは望んでいないのに。自分はただ、千尋に寂しい思いをさせたくなかっただけなのに。
翌日〝リコン〟について聞かされた妹は、それが父や兄と別れてこの家を出て行くことなのだと知ると強烈な拒否反応を示した。
「なんでよそのおうちに行くの? お父さんとお母さん、もう嫌いになっちゃったの? なんでにぃには一緒に来ないの? やだ、やだ、やだ! ちぃちゃん、どこにも行かない! お父さんとにぃにとこの家にいる!」
泣き喚いて手がつけられなくなり両親はいったん引き下がった。しかし千尋の心に不信感を植え付けるには充分だったようで、それ以来一希と片時も離れようとしない。春休みにはまだ一週間ほどあったが学校にも行かないと言い張った。
自分のせいだろうか。自分が八重子にあんなことを言ったから……だったら何とかしなければ。
「ちぃちゃんはこのままうちの子でいたらいけないの?」
「それは無理だよ、一希」
「なんで? 養子縁組してるんだから父さんだって親でしょ?」
「母さんからちぃちゃんを取り上げるようなことはできないよ。一人ぼっちになってしまう」
「そんなの、母さんは好きで仕事するんでしょ? 可哀想なのはちぃちゃんのほうじゃないか! 俺も父さんもいなくなったら、今よりもっと一人ぼっちの時間が増えるんだよ? なんで大人の都合で子供が犠牲にならなきゃいけないんだよ!」
己の無力さをこの時ほど感じたことはなかった。どんなに泣き叫んでも、憎まれ口を叩いても、結局子供は大人に従うしかない。ただの少年でしかない自分には妹を救ってやることはできないのだ。
初めは頑として拒絶していた千尋も、八重子による連日の説得で次第に諦めていった。父や兄が実の家族ではないことを知らされて困惑しているようだった。
別れの日は三人で動物園に行った。パンダもコアラもいないけれど、動物と触れ合ったり餌をやったりできる、千尋のお気に入りの場所だ。
美しく咲き乱れる桜を見上げては三人とも申し合わせたように陽気にはしゃいだ。家族でいられる時間が刻一刻と終わりに近づいていくのも気づかないふりをして、目の前にいる動物たちの生態や行動に歓声を上げた。
しかし。
「そろそろ行こうか」
謙三がそう言ったとたん一斉に声を失ったかのように沈黙が訪れる。八重子との待ち合わせ場所である駐車場まで、次第に虚ろになる心を抱えながら重い足を引きずって歩いた。
一希と千尋はどちらからともなく手を繋いだ。言いたいことすべてをそこに押し込めるように、互いにぎゅっと握って一言も発しない。
『にぃにとちぃちゃんがくっついたら手になった!』
千たす一のなぞなぞで笑い合ったのはたった一年前なのに、今となっては夢のようだ。こうして手を繋ぐのはこれが最後だと思うと、胸が詰まってますます言葉が出てこなかった。
駐車場にはすでに八重子が待っていた。今日彼女は二人分の引越し作業に従事していて、千尋はここから直接新しい住まいに向かうことになっていた。
「全部終わったのか」
「ええ。意外と荷物が多くてびっくりした。五年間でずいぶん増えたのね。……これ」
謙三に家の鍵を差し出すと、まっすぐに背筋を伸ばして別れの言葉を口にする。
「謙さん、今までどうもありがとう。カズくんも。……いろいろ嫌な思いをさせてごめんね」
深く頭を下げる直前、目尻に光ったのは涙だったのだろうか。顔を上げると跡形もなく消えていて、その目は一希と手を繋いだままの千尋に向けられた。
「行こうか、ちぃちゃん」
掌の中でぴくりと震えた小さな手から、自分とまったく同じ感情が伝わってくる。
嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
実際に声に出して叫ぶことができたらどんなに楽だっただろう。でも千尋は口を引き結んで声さえ上げなかったし、そうやって幼い妹が耐えている以上、年上の一希が思いを吐き出してぶち壊しにするわけにはいかなかった。
奥歯を噛み締めてゆっくりと指を広げると、小さな手はそっと離れていった。柔らかい感触と温もりが掌から消えて、代わりに喪失感が襲ってくる。
「元気でね」
謙三の呼びかけに千尋はこくんと頷いた。ところが母親に促されてもそこから動こうとせず、見送るつもりだったこちらのほうが先に出発することになった。
ウインドウを下ろし、ゆるゆると動く車の中から、強張った顔で突っ立ったままの妹を見つめる。視界から逃さないよう首を伸ばし上体をねじって、次第に遠くなる姿を目で追い続けた。
さよなら、ちぃちゃん。
心の中で別れを告げたその瞬間、身じろぎ一つしなかった小さな身体がふいに動いた。
「お父さん! にぃに!」
泣きながらこちらに向かって走り出す。それまでじっと抑えていた感情が、ついに堪えきれなくなって噴き出したかのような激しさだった。
「にぃに! 行っちゃやだ!」
「父さん……」
「可哀想でもこのまま行くしかない」
非情な判断を受け入れはしたものの、妹が突然転んで一希は小さな悲鳴を上げた。
「父さん止めて! ちぃちゃんが!」
「だめだ一希。だめなんだよ!」
再び立ち上がって走り出した千尋。視界が次第にぼやけてきて、どんどん小さくなる姿がさらに見えづらくなっていく。
「にぃに! お父さん!」
ちぃちゃん、ごめん。こんなことになって。何もしてあげられなくて。
本当にごめん――
「にぃに――――っ…………」
車が駐車場から出て千尋の姿は視界から完全に消えた。代わって目に映るのはあちらこちらで咲き誇る桜の残酷なまでに美しい色合い。それも次々と溢れる涙でじきに何だかわからなくなる。
最後に聞いた千尋の呼び声が、いつまでも耳に刺さったまま離れていかなかった。