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われても末に  作者: 乃梨
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1 ちぃちゃん

 うちは家族みんなの名前に数字が入ってるんだよ。


 ふとそんなことを口にしたのは、妹、千尋ちひろの小学校入学を間近に控えたある日のことだった。

 両親が学用品の一つひとつに書く名前がすべてひらがなで、それはもちろん正しいことなのだけれど、なんだか物足りない気がしたのだ。うちの場合、名前は漢字で書いてこそ意味がある。


「にぃには一、お父さんは三、お母さんは八、ちぃちゃんは千」


 実際にはどの名前も訓読みだから同じ響きではない。そこで漢字には数種類の読み方があることを、それぞれの名前を順に書いて教えていった。


いちはにぃにの『かず』の他に、『ひとつ』って読んだり、『はじめ』って読んだり……」


 つたない説明にじっと耳を傾ける千尋。ところが自分の名前の順番になると、きょとんと首を傾げて尋ねる。


「千ってなあに?」

「千ていうのはつまり……」


 困ったなあ。千なんてデカい数字、六歳児にどう教えたらいいんだ。百が十個? 十が百個? そもそも百の概念だってまだわかってないだろ。

 言葉に詰まっていたら父親が助け船を出してくれた。


「ちぃちゃん、千ていうのはね、たくさんっていう意味だよ」

「たくさん?」

「そう。いっぱい。たくさん」

「にぃには一つで、ちぃちゃんはたくさんなの? じゃあにぃによりおやついっぱい食べていいよね?」


 面白い悪戯を思いついたかのような顔。まったくこの子は変なところで知恵が回るんだから。そんな道理が通るわけないじゃないか。

 ところが母親はあっさり「いいわよ」と答えた。


「ちょ、母さん!」

「今日のおやつはピーマンね」


 そう来たか!


「ちぃちゃん、俺の分もあげる!」

「やだやだやだ! にぃにより少なくていいから、おやつピーマンにしないでっ!」


 妹の慌てぶりを笑っていたら不意に母親がこちらを向いた。狙いを定めたような目の動きに思わず身構える。


「ではカズくんに問題です。千と一を足すと何になるでしょう」


 ほらやっぱり来た! こうやって変幻自在に仕掛けてくるから油断ができないのだ。えー、何だろう、1000+1=? ……なぞなぞは苦手なんだ!

 答えが出てこずに頭を抱えていたら父親にからかわれた。


「父さんはわかったぞ。お前、中学生のくせに頭固いなあ」

「にぃに、頑張って!」


 妹に応援までされてちょっとミジメになったところで、ようやく母親が「漢字一文字よ」とヒントを出す。


「漢字……? わかった! 『手』だ!」

「正解!」


 漢字の「千」と「一」を組み合わせると「手」の文字になる。紙に書いてそのことを説明してやると、千尋はぱあっと顔を輝かせて鉛筆を持った手を掴んだ。


「にぃにとちぃちゃんがくっついたら手になった!」

「ちぃちゃん、それちょっと違う……」


 家族四人の笑い声が居間に響く。穏やかな春の風が開け放した窓から入り込み、どこからか沈丁花の香りを家の中に運んでいた。



         ***


 

 ……またあの頃の夢を見ているのか。

 途中でそのことに気づいて、伊原一希いはらかずきの意識は少年の姿をした己自身から抜け出していった。

 いったいこれで何度目だろう。あまりにも繰り返し見たものだから、夢だとわかってしまうことがちょっと切ない。

 自分がいて、妹がいて、両親がいる。一希の三十年の人生でたぶん一番幸せだった頃だ。セピア色の記憶になっていてもおかしくないのに、今でも色鮮やかなままこうして夢の中で再現される。


 とりわけ千尋は生き生きとして、その愛らしい仕草や表情から目が離せない。登校時に門まで出て見送ってくれたり、一緒に寝ると言って布団に潜り込んできたり。

 そしてツインテールの頭に白いレースの布を被ってくるりと一回転してみたり。


『見て見て。花嫁さんみたい?』

『そうだね、きれいだね』

『ちぃちゃん、大きくなったらにぃにのお嫁さんになるんだもん』

『そうかあ。にぃに、嬉しいな』


 八つ下の可愛い妹。夢だとわかっていても、つい呼びかけたくなる。


「ちぃちゃん……」

「誰、ちぃちゃんって」


 突然乱入した声にぎょっとして一気に夢から醒めた。

 照明を抑えた見慣れない部屋。馴染みのないシーツの感触。なんでこんなところで寝てるんだ。しかも素っ裸で――あ、そうか。

 今日は夕方に会社を出て愛香あいかと三週間ぶりにデート(仕事で忙しかった)、いい雰囲気に持ち込めたので(ありがとう、クリスマスイルミネーション!)、初めてホテルに誘い(シティホテルだ!)、一勝負したら(久々だったので燃えた……)、眠くなったところまで覚えていた。


 愛香はホテル備え付けの浴衣を着て、スマホを手にベッドヘッドに寄りかかっていた。記念すべき最初のエッチの直後としては情緒に欠ける姿だが、こっちが眠ってしまったのでヒマだったと言われれば文句は言えない。


「いま何時?」

「十一時半」


 三十分くらいならうたた寝の範囲内だよな。セーフセーフ。

 自己基準だがそう判断すると、愛香にぴったり寄り添うように身を起こした。ようやくエッチまでこぎつけたカノジョ、せっかくホテルに来たんだし、もっと楽しまなきゃ損というものだ。まずは風呂に誘ってあんなことやこんなこと、その後またベッドに戻ってあれとかこれとか!

 楽しい男の妄想はしかし、肝心の相手によってポッキリ折られた。


「ねえ、誰よ、ちぃちゃんって」


 聞かなかったことにはしてくれないようで、あくまで追及する構えである。

 早いところ機嫌を直してもらわないとイチャイチャできない。そう考えた一希は正直に「妹」と答えたが、これが完全に裏目に出た。


「嘘つかないでよ。一人っ子って言ったじゃない」

「……言ったね、そういえば」

「信っじらんない、サイテー! ひどいと思わないの? 侮辱だよ、こんなの」


 他のオンナの名前と結論づけたのだろう、愛香は烈火の如く怒った。〝妹〟などという最も出来の悪いごまかしが発火の原因になったのは言うまでもない。

 一希にしてみれば別に彼女をごまかそうとか騙そうとかしているつもりはないのだが、その場その場で真実の一部分だけを口にしているからこんな事態になるのである。


 それはわかっているけど。

 今さら全部を話したって信じてもらえるだろうか。十数年も引きずっている妹愛なんてドン引きされるんじゃないだろうか。

 とっさに考えを巡らせた結果、謝るのが得策と出た。そのほうがまだしも傷が小さい。


「ごめんね、愛香ちゃん。こないだ小学校の頃の初恋の女の子に偶然会ったんだけど、すっかりオバサンになっててさ。女もああなったら終わりっていうか、ちょっとショックだったんだよね。それで夢に見ちゃったんだと思う。でも本当にそれだけだから。俺には愛香ちゃんしかいないから」


 一行要約。若くてキレイな君に夢中です。

 だから何々が欲しいと言われれば買ってやるし、どこそこに行きたいと言われれば連れて行く。それで愛香が幸せなら俺も幸せ。時々エッチできればもっと幸せ。お互いにウィンウィンの関係だろ? そうだな、さっき一緒に見た諭吉五枚分のネックレス、クリスマスプレゼントにしてもいいな――


 一希は仲直りしようと滑らかな肌に手を伸ばした。さっきは悪くない反応だったし(演技じゃなければ)、あれこれ言葉を重ねるより手っ取り早い。

 しかしその思惑は見事に外れた。


「出てってよ」

「え?」


 何を言われたのか一瞬理解できなかった。すると鈍い反応に苛々したように愛香は声を荒げた。


「一緒にいたくないの! 帰って!」


 ここ君の家じゃないんですけど? 一泊朝食付きで部屋取ったの俺なんですけど?


「俺、謝ったよね」

「謝れば何でも許されると思ってんの? 最初のエッチだよ? 初恋の相手だか何だか知らないけど、他の女の名前呼ぶなんてサイッテー!」

「悪かったよ。でもさ、夢なんだから仕方ないだろ? 見ようと思って見たわけじゃない」

「寝るのが悪いんだよ! だいたい、終わって速攻で寝るってどういうことよ!」


 とたんに旗色が悪くなって口ごもった。やっぱりそっちも怒っていたのか。


「それは……男の生理現象というか……」

「普通は頭撫でてくれたり、おでこにキスしてくれたり、『可愛かったよ』って言ってくれたり」


 ……それはそれで夢見すぎじゃねえ?


「とにかく終わってからも優しくしてくれるもんでしょ! それが即寝だよ、即寝!」

「……ごめん」


 よほどプライドが傷ついたのか、愛香の怒りは一向に収まる気配がなかった。そうなればこちらもだんだん持て余してくるし、落としどころを探る気も失せていく。


「ただヤりたかっただけなんだよね、よくわかったよ」

「そんなことないよ」

「もういい。あたしと一緒にいてさっさと寝ちゃったり、他の女の夢を見る男なんて信じらんない。早く出て行って」


 あたしと一緒にいて、か。すげえ自信だな、若くて可愛いってだけで。それに釣られた俺も俺だけど。


「……わかった。帰るよ。これで満足?」


 一希はベッドを下り、下着や服を一つ一つ拾って身に着けた。どう見ても惨めったらしい。ウィンウィンの関係なんてこっちが思っていただけで、実際は彼女をチヤホヤしなければ側にいる資格は与えられないのだ。

 ――いい年して何やってんだろ、俺。

 情けなさで溜息が出そうになるのを抑え、「それじゃ」と一言で身を翻す。最後に大人の余裕を見せつけようとしたのだが、背中に飛んできた捨て台詞にはさすがに唖然とした。


「もう支払い済んでるよね? あたしは泊まっていくから。そっちが悪いんだもん、当然よね」


 なるほど、〝被害者〟の権利というわけか。うっかりプライドを傷つけただけでずいぶんと高い慰謝料である。

 おおかた朝食を食べずに帰るのは惜しいと思ったんだろう。「ここのビュッフェ、豪華で有名なのよね、楽しみー」とチェックインの後にはしゃいでいたしな。


「好きにしなよ」


 もうどうでもいいやという気持ちで部屋を出て、ようやく遠慮なしに溜息をついた。

 ――疲れた。家帰って寝よう。

 今から帰れば深夜になるが、幸いにも明日の日曜日は休みを取ってある。それも愛香のためだったのだと思うと、自嘲的な笑いが自然と込み上げてくるのだった。



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