儀式
天上の満月は、焦点を合わせたようにくっきりと見えながら、光がとろとろとしたたってくるかのように潤っている。
(月は、下界の生を憐れんでいるのだ)
ゲンはそんなことを思った。
どうしていま、そんなことを思うのか。それはまさに、いまのオレたちの生が憐れむべき存在だからなのか。いや、そう思ったのは果たしてオレなのか。それとも、あいつなのか。
コウとゲンは南山の頂で対峙していた。南山は雷雨の影響が少なく、木々も岩肌も生きていた。
コウは顔をうつむかせ、ゲンを見ない。
「いいか、ゲン。よく聞け。いまからおまえと闘わねばならない」
「わかっている。迷いの廊下で何回かやった」
「あれとは比べ物にならん」
「だろうな」
「あのときは、私のやみの意識体しかいなかった。今度は、空の国にいるやみと、そのまわりに存在するやみをすべて呼ぶ」
「しかし、そんなことしたら、おまえの」
「ああ。私の光はもうほとんどない。ゲン、おまえが消すのだ」
「空の神に下ろしてもらえばいい」
「空の神の光はいまから別のところに降りる」
「ヨクの杖、か」
「そうだ。私はその力を助けなければならない。ここにやみひとをすべて集め、ここでやみを消さねばならぬのだ。ゲン、もうわかっているのだろう。私の力と、そして、おまえの力が必要だ。おまえは目覚めねばならぬ」
ゲンは口を閉じた。
「私のそれは大したことはないのだよ、ゲン。問題はおまえなのだ。おまえの力が目覚めれば、この国がどう変化するか、予想がつかない。本来は、前世でやる予定だった」
「ああ。わかっている。すべて思い出したよ。オレもおまえも嫌がった。だから」
なんのための白狼犬か。それは、やみの駆逐、そして究極の目的は、コウの命を絶やすこと。
「ゲン、おまえはとにかく、私を殺せばいい」
ゲンは全身がすくんだ。
(殺せ、だと? コウを殺せ、だと?)
「嫌だ」
「成長しないやつだ。前回もそういってごねたな」
「わかっている。でも嫌なもんは嫌なんだ」
「まったく、ユウキといい、ゲンといい、ばかなヤツばかりだ。救いようがないな」
「ばかでもなんでも、おまえを殺しはしない」
「ゲン、おまえは、私のいいなりになるしかないのだ」
「勘違いするな。オレは羽犬ではない。おまえの意思に従う義理はない」
「姑息なことをすると、このやみを消せぬ」
「では、そのやみを生かそう」
「前世の過ちを繰り返すのか。今度は以前とは違う。私は目覚める。この私が巨大なやみの国を作り上げる可能性があるのだ。闘うのがおまえの仕事ではない。やみをすべて消すのがおまえの仕事だ」
「いったはずだ。オレは、コウ、おまえを助けるために来た」
「その私が、私を殺せといっているんだ。それが私を助けることになる」
「違う。オレはオレの意思で動く。おまえはいまから、やみの神、一の子としての力を果たすのだろう。だったら、オレの意思が、空の神の意思となる」
「それは傲りだ。二千年前と同じ道を歩むか」
「無駄な殺し合いをしたくなかっただけだ」
「その結果がこれだ。無駄に二千年を過ごしたのだ」
「違う。二千年分の生命は守れた。空人もやみひとも」
「浅はかな。二千年分の死をもたらしたことはわかっておるか」
コウの表情が徐々に変化してきている。
(そろそろか)
ゲンは、迷いの廊下でのことを思い出した。
しかし、ゲンはコウのようすがおかしいことに気付いた。表情だけではなく声が低く響いている。やみの力に支配されるときは、いずれにしても人が変わったようになるコウではあったが、今回はそれとも違う。
「いずれにしても、うえの計画なのだろう? いったい神々はなにを考えているんだ・・・」
「ゲンよ、やるべきことをやるまえに憶測を重ねるな。おのれごときが神ごとを知ろうとは傲りである」
「そんなことは考えていない」
コウはさげすむような目でゲンを見た。
「逃げ口上が欲しいのであろう?」
「違う」
ゲンは否定はしたが、胸がドキドキした。
コウは、さらに辛辣なことばを浴びせてきた。
「おのれは卑怯者である」
「なんだと!」
「あまつさえ、神の御意志をいい訳に使おうとするか。恥を知れ」
コウは、妖しく強い気を漂わせ、その目に憎しみさえ浮かべながら、厳めしく畳み掛ける。
ゲンは怒りで、かあっと血が頭にのぼってくるのを感じた。しかし、一方で純粋に怒りに委ねられない自分がいた。理由はわからなかった。はじめての感覚であった。激しい怒りをあらかじめ予測して、鎮痛剤でおさえたような、そんな鈍い怒りを味わった。
コウはふんっと鼻で笑った。
「おのれはまことに空の神の遣いであるか」
「そうだ」
「しからば、空の神の遣いよ。仕事を果たしてもらおう。二千年分の仕事である。時がきたのだ。我が力、本来の力を発揮する時が」
コウは手を地面にかざすようにしてゆっくりと広げ、視線を伏せた。
「やみの子らよ。我に従え、我につけ。おまえたちを受け入れる」
ごごごご、と地鳴りがした。
「空の神の遣いよ! いまこそ目覚めよ!」
コウが叫ぶと、ゲンの全身の毛がぞわっと逆立った。
多大な、膨大なやみひと。
ゲンはめまいがした。やみひとの量に、ではない。からだの奥から異様な感覚が噴き出している。
なんだ、これは。
オレのからだの内側から、なにかが来る。
―――ゲン。そこまでだ。
え? なんだって?
―――おまえの仕事は終わった。
ゲンがもういちど聞き返そうとしたとたん、一瞬ぐらっと頭が揺れた。ゲンは、しゅるしゅると風船がしぼむようにして小さくなった、と思った。
小さくなったのは、ゲンの意識であった。白狼犬は倒れることはなかった。それどころか、力が横溢し、瞳は赤く変化し、ぎらぎらと輝いている。
白狼犬のからだがひとまわり大きくなったように思えた。それは変化したのではなく、からだにまとっている光の量が増したのであった。
そのからだは、ぶるぶると震え、うなり声をあげている。
うおおおお・・・おおおお
その声に呼応するかのように、コウは喜びの声を上げた。
「来たか!」
コウの頬がぐぐっとあがった。顔全体がひきつり、肌が裂けてしまうかと思うほど、コウは笑っていた。
白狼犬のうなり声が終わった。白狼犬はしゅう、しゅうと呼吸をしている。
そうして、赤く光る目でコウを見据えた。
「我は白。大いなる御方、空の神の遣いである。空の神より命を受け、二千年に及ぶ眠りより目覚めたる神獣。・・・おまえが更か」
天から降りてくる罰のような声であった。
(ハク・・・。ああ、そうだ。ちくしょう、きやがった・・・。このからだの、白狼犬の、主だ)
ゲンはからだの隅にうずくまっていた。膝をかかえ、ただ茫然とその声を聞いていた。
コウは嬉しそうに答えた。
「おお。よくぞ来た。空の神の遣い、白よ。いかにも、我こそやみの神、一の子、更である。大いなる御方、やみの神より力を受け継ぎし者。二千年まえに命を受けながら、永い眠りにつき、いま目覚めを果たした」
「いまこそ、命を果たさん」
「いざ」
「いざ」
コウのからだがやみにおしあげられ、空に昇っていく。
「やみの神の御意志により、皆の者に告げる。我は更である! すべてのやみの子、我のもとに来たれ」
地なり、いや、コウの声であった。地中からぼこぼこと音がして、やみひとが集まってくる。
空気をやみひとが支配する。
地鳴りのようなコウの声とやみのうなりが呼応し続ける。
うおおおお・・・ん
悲しい叫び。
大空に哀しみを訴えるが如く、おぞましく。
わあああああああ・・・・・ん。
力が満ち、まさに溢れ、脹れつづける。
ハクはそのようすをただ、じっと見ているだけである。
やみひとの値踏みでもしているように。
わああああああ・・・
ようやくハクの咆哮が始まった。
うおおおおお!
声が竜巻を巻き起こす。
ふたりの力は均衡し、お互いの声がそれぞれの世界をつくりあげる。
その声に南山が動いた。
ず、ず、
山のふもとに、頂上に、中腹に、亀裂が起こる。
ぴし、
ぴし。
きり、
きり。
コウの手が大きく動いた。
「行け! 我が子! その命、ハクに委ねよ」
どどどどどーん!
と、音がする。
うおおおおお・・・
天に轟くかと思うほどの、ハクの咆哮。ハクのからだからまぶしいほどの光が放出された。
互いの力が抱きあうようにして交わり、はじけ、ぶつかりあう。
ゲンは、ただぼんやりと見ていた。
(山が・・・壊れていく)
一方、中央。
南の方向から地響きが聞こえてくる。中央の地もどうどうと揺れた。人々は立っていられない。
どごん、どごんっと地中が動いているようであった。
ある者は地面に倒れ、ある者は木にすがり、悲鳴が上がった。
互いに抱きあい、震えおののく中、ひとり、ヨクだけはよろよろと歩き出し、外へ出た。
「ヨクさま! 外へ出てはあぶのうございますぞ!」
ガンザンが必死に声をかけるが、ヨクは応えなかった。ガンザンはヨクの姿を追ったが、人々が互いにぶつかりながら走り、逃げ惑う姿しか見えない。ヨクの小さな姿は人々に紛れるようにしてガンザンの視界から消えようとしていた。
ヨクは、御堂の上にある丘に向かっていた。誰もヨクに気づかない。が、ガンザンだけがヨクを追った。
そのとき、どどんと音がして、中央の地が揺れた。
ヨクはばったりと倒れ、地に伏した。しかし、四つん這いのまま、ぐらぐらと揺れる丘の斜面にしがみついた。登ろうというのか。萎えた右足はだらりとして動かず、左足と二本の手で地をつかんでいる。目から涙を流し、爪がはがれ、血だらけの手が草をつかもうとしてすべる。杖が腰にしっかりと結わえられていた。
ヨクの口からはうめき声と、呪文のような発声が交互になされていた
「お空さま、お空さま、どうかあと少し、あと少しだけ、私の命を御護りください」
ヨクのまわりに盾はいなかった。テルイもいなかった。ソウイもサキイもヨキイもギンカもジャクルもいなかった。
ただ一人、生き残ったのはこのため。皆、子孫を守って死んだ。果たすべき命のために。死とはなんと幸福なことだろうか。
しかし、ここで私が動かなければ、皆の死は無念になる。タイさまの命をうけ、ライさまに導かれた者たち。我らの思いを果たすために、各里で死に絶えたたくさんの者たち。彼らの無念を晴らすために。
私はまだ生きている。
いや、からだは既に死んでいるのかもしれない。しかし、意思が生きている限り、からだを動かせよう。そして、意識がなくなっても、からだが動くであろう。
ここにはタイさまの意思がある。
タイさまの命は、ライさま、ヨウさま、サクさまとつながり、コウさまに渡された。
それぞれの命がここに集結し、この一点につながる。私の命はこの一点にある。このためだけに生まれ、このためだけに生きた。
「お空さま。たとえ私の命が果てようとも、からだを動かして下さいませ」
ヨクははいつくばっていた。息絶える前の蠅のように。はいつくばってはいつくばって、ようやく丘の頂上に来た。そこには、汚いぼろ布が置かれていた。それは遠い昔、旗であった。旗は長い年月、風雨にさらされ、みすぼらしいぼろきれとなっていた。
「おお・・・、ここじゃ」
ヨクは、血と泥にまみれた手で、腰に差した杖をつかんだ。そうして、その杖を撫でさすり、頬ずりして涙を流した。
ゲンは白狼犬のからだの隅で、ぼんやりと、ただぼんやりと、二人の攻防を眺めていた。
破壊と、絶望の音がひしめいていた。
黒い繭のようにかたまったやみが宙に浮いている。壊れつくした地表の隙間から、ずるずるとやみひとが現れ、繭の中に呼びこまれていく。
(あんなに、まだあんなに、やみが)
繭の中心に、おそらくコウが存在するのであろう。
一方で大砲の弾のような白い光が、どごん、どごん、と繭をめがけて飛んでいた。やみひとの悲鳴が辺りに響き渡る。
聞くに堪えない声。
こんなに悲痛な声だったか?
オレが消していたときも?
その声をききながら、ゲンは頭を抱えた。しかし、どうしようもなかった。
そう、これがオレと空の神の契約だった。
――コウの息の根を止めるのだ。
それが今世の仕事。
――おまえは手出しをしてはいけない。
神々の闘いに抗わないこと。
だから、これでいいんだ。これで。
大量の光の弾丸が黒い繭に当てられ、コウの姿が露出した。
コウ・・・。なんだ、そのすがたは。
ゲンはおののいた。コウの全身が黒く変化していた。それはコウの血と、やみひとであった。コウの血肉に、妖のやみひとがたかろうとしている。盾にしているのか・・・。いや、自分の体液を与えることで、妖のやみひとを呼び込み、白狼犬が浴びせる光の餌食にしているのだ。
コウは決してやみひとを守っていない。コウ自身がやみひとを殺している。そしてコウ自身もやみの子。これが前世やり残したこと。ここでオレが手出しをすれば、また契約不履行だ。コウは最期をハクに委ね、オレはからだをハクに譲り渡し、手出しをしない。それが二千年前の契約・・・。
コウが纏っていたやみは、ハクの光によって身ぐるみはがれた。
残ったやみはコウの意識体のみ。
空の国からやみを根絶やしにするのだ。
そうだろう?
それが空人の望み。空の国に約束された幸せな未来。コウはそれを望んでいた。オレもそれを望んでいたではないか。あとは、コウのからだを光で貫けばいい。それだけのこと。
オレが手を下しているのではない。やっているのはハク。
オレは、神との契約によって手出しができないんだ。
オレのせいじゃない、オレのせいじゃない。
これは空の神とやみの神の仕業。
やみの神の所有地を、空の神に譲るための儀式。
コウは、生贄だった。
互いの一の子を生贄とすることで、双壁の時代を終わらせることとした。
それだけのこと。
いままさに、生贄の目から鼻から口から耳から、からだじゅうの毛穴から、血が噴き出している。
生贄は残酷にいたぶられるべし。
叫喚。
生贄は無下に死すべからず。
叫喚。
その姿を、ゲンはただぶるぶると震えながら見ていた。驚愕して目を逸らすこともできない。歯の根が合わない。からだの奥から寒くて寒くてしょうがなかった。
すると。
コウの首から、つっと前に、なにかが離れた。それは血塗られた御護りであった。
コウにはもう意識はなかった。が、コウは無意識に手を伸ばし、その御護りをつかもうとした。
(・・・小さな手)
ゲンはがくがくと震えながら、小さな手を行方を追った。
――ゲン・・・。
(えっ)
はかない声がゲンの胸の中をかすめた。温もりが点ったように思えた。
ゲンのからだの震えが止まった。
――コウか? いま、オレを呼んだのはおまえなのか?
ゲンは思わず念話でコウに問いかけた。しかし、答えはなかった。
コウの手は御護りをつかむことはなく、力がつきたように腕が落ちていく。
(コウ・・・!)
ハクはコウにとどめを刺すために、力を蓄えている。
(やめろ・・・)
ハクは心の中から聞こえる声に気付いたが、すぐに前を向いて、コウを狙っている。
(やめろ! ハク!)
ハクは一度手を止めた。
「ゲン。邪魔だては許さぬ。契約を忘れたか」
(わかっている! でも、でも、やめろ! コウを殺すな!)
ゲンはもがいた。が、外に出ることができない。ゲンの意識体は結界で覆われていた。それを手でこじあけようとしたが、手がつるつるとすべるだけであった。
「ふ・・・。おまえごとき微力な仙人が、神獣である我に勝てるものか。この力は空の神そのもの。神にそむくか」
(うるさい! おまえがだれだろうと知るか! オレにからだを渡せ!)
「愚かな。目覚めを果たした神獣のからだに、仙人が入ったところで動くことさえできぬであろう」
(なんでもいいから、早くオレを戻せ!)
「これはなにゆえのことか考えよ。すべて、やみひとを根絶やしにするためであろう。コウはいま我が命を果たそうとしているのだ。コウを憐れと思うのであれば、手出しをするな」
(黙れ! ハク。おまえこそ引っ込んでろ! オレはコウを助ける! 空の神でもやみの神でもない、オレがそう決めたんだ!)
ああ! そうだとも。
あいつはあの時いったんだ。オレの今世の仕事。
――コウの息の根を止めるのだ。
あいつの冷たく乾いた声。
――おまえは手出しをしてはいけない。
なぜ、わざわざ手出しをするなというのか。
わかっていた。本音はオレに手出しをさせたいってことぐらい。感情などどこにもないような表情をしてみせて、心の中をオレにみせやがった。オレだけに。オレを操るために。
わかっていた。オレはあいつに操られているってことぐらい。それでもオレはあいつの役に立ちたかった。操られたかったんだ。
オレはあいつの胸の奥底にある気持ちがよくわかったんだ。胸がずきんと痛んで、あいつの哀しみがわかったから、この仕事を引き受けたんだ。
そして決めたんだ。あいつの鼻を明かしてやる。
やみを根絶やしにする。
でも、コウの命は守る。
あんたの思惑通り、「手出し」をしてやろうじゃないか、と。
そのことはあいつにはいわなかった。でもオレにはわかる。オレがそう考えるだろうということを見越してオレに仕事の依頼をしたんだ。
そしてあいつは、オレが「手出し」をすることを想定している。できなかったとして、うえの計画通り。万が一、コウの命を助ければ、オレの失態。ずるいやつだ。昔っから、あいつはそんなやつだった。
ゲンは結界を破ろうとして、うおおっ、うおおっとうなりながら前に進んだ。
「ははは。ゲンよ。おまえになにができるというのだ。空の神からの罰を受けるがいい」
(ばっかやろう! 罰だかなんだか知らないが、やりたきゃやれよ! だから、いまだけ、いまだけ、オレに力をくれ! おまえ、そこにいるんだろう? シロ!)
ハクは恐怖で一瞬ことばを失った。
「そ、その名を簡単に使うなど、ふとどきな!」
(ハク、うるさい! ごちゃごちゃいうな! シロ! 出てこい! 出てこいよ、シロ! 力をくれ! シロ! シロ! 空の神よ!)
「この、愚か者めがっ! うぐ・・・」
ハクは怒りで、ことばを失ったが、ゲンはいっこうに構わず、シロの名を呼び、うなりをあげながらハクの結界にしがみついた。
すると、ゲンの背後から呆れたようななだめるような声がした。
「ふーん。ま、いいか」
(あ、この声・・・。シロ!)
同時に光とも熱ともつかぬ不思議なモノが、ゲンの背中にあてられた。
「ハクー、譲ってやれよ」
「な、なんですと」
「だからさ、もういいっていってんの」
(シロめ! やっぱりそこにいたか)
しかし、ゲンは後ろを見る余裕などない。もがいてしがみついて、前へ。
ハクの目がますます赤くなった。
「なんということを! ここでコウを始末しなければどういうことになるか。やみの神、一の子、更が目覚めを果たしたのですぞ? やみをどれだけでも呼べるのです! やみの国だって再生するやもしれません。やっと、やっとここまできたというのに! この、低能で愚かなゲンのせいで二千年も待ったのです!」
「いいじゃん。やみの神はとっくに手を引いていることだし。それにほら、コウはもう、放っておいたって死んじゃうって。ま、どっちに転んでも、あとのことは俺がなんとでもするから」
「うう! いったいどうなさるおつもりですか!」
「ふん、教えられるか。だいたい、俺の考えを簡単に知ろうなんて甘いよ。俺にできないことはないんだよ。ちゃーんと考えがあるんだ」
「またそんなことをおっしゃって。あなたさまはつじつま合わせばかり・・・」
「ばーか。つじつまが合うこと自体、神業なんだよ。前から思ってたけど、おまえ、神獣のくせになーんもわかってないよな。ほら、早くこっちへ来い。庭に帰ったら極上の鳥、喰わせてやっから」
「えっ。ご、極上の、とは?」
「へへん。金鶏だぜ」
「え、あれを・・・? あれを私に下さるのですか?」
「うんうん。だから、早くゲンにからだを明け渡してやってよ」
「・・・わかりました。あなたさまがそこまでおっしゃるのなら。しかし、この仙人が、神獣のからだに耐えられましょうか」
「そんときゃそんときだ。ほら、ハク、こっちこい、こっちこい。よしよし、いい子だ」
(なんだ、こいつら、なんの話してんだ。でも、ハクの気が弱くなっている。いまだ!)
ゲンが渾身の力を込めて結界から出ようともがくと、するっと結界が消え、ゲンは肩すかしにあったようにまろびでた。
(へ?)
呆気にとられていると、後ろからどんっと背中を押された。
(え)
手足が自由になり、全身に気迫が充満し、からだがぐうーーんと前に飛んだ。ゲンは白狼犬のからだを、毛の先に至るまで支配した、と思うやいなや、ずどんっと全身に負荷をかけられたような気がした。
(ぐ、なんと重い! これが神獣のからだ)
からだから鋭い光がまさに発せられようとしていた。
コウはすうっと仰向けになって、地上に落ちていく。
「コウ! いま、助ける」
うおおおおお!
ゲンはからだから発せられる光を暴発させようとした。が、間に合わなかった。
ごおんっ
と爆発音がしたかと思うと、大量の光の粒子がコウのからだに素早く向かっていく。しかし、光たちはコウを貫くことをしなかった。コウをぐるんと包み、ぐうんと持ち上げた。光の粒子はくすくすと笑ってゲンを見た。まるでゲンを嘲笑っているようであった。
光に包まれたコウは、ゆるゆると地面に落ちた。
(コウはどうなった・・・?)
しかし、ゲンはコウを見ることもできなかった。からだじゅうにひびが入ったように、ぴしぴしと痛み、全身から力が抜けた。高く滞空していることができず、ゲンは地に落ちた。
どおん
と激しく鈍い音がして、ゲンは倒れた。起き上がることも手足を動かすことも、まぶたを動かすことさえできなかった。頭の中だけが、かすかに動いた。
(ハクのいう通りだ)
ゲンは自失した。




