再戦
辺りは闇に沈み始めた。
コウの足が止まった。
十六夜の月が鈍い輝きを見せている。無数の星がそれぞれの光を主張していた。それらが入れ替わりに輝き、コウに迫ってくる。ちちち、ちちちち、と虫の鳴き声が聞こえ、時折、ほう、ほう、と梟の声が混じる。
コウはぽつりといった。
「美しい夜でございますね」
答えはかえってこない。
「いつまでそうなさっているおつもりですか」
コウは後ろを振り返った。沈痛な闇の中から、女の姿が浮き出てきた。十六夜の光を受けて顔が鈍く光る。
「コウ、内臓がやられているな」
「母上こそ」
「これから、我々は闘うことになっている。どちらか死ぬだろうな」
「そのようです。ですが、生き残った方も長くはございませんでしょう」
「確かにな」
「ご存じだったのですね? 剪定の意味を」
「なんのことだ」
「だから、空の神に抵抗なさった」
「私は、巫女の家系を絶やそうと計画し、私の母をも殺した巫女だ」
「母上が受胎阻止を計画なさったことは存じております」
「失敗してこのざまだ」
「しかし、母上はおばあさまを殺していない。それどころか、助けようとなさったためにご自分の計画である受胎阻止ができなかった。ひいおばあさまがすべてごらんになっていたのです。ヨクがそう申しておりました」
「コウ、だまされたな。それは巫女の保身だ。それとも長老のひいき目か」
「だまそうとなさっているのは母上でしょう」
(なるほど、おばあさまか)
サクは祖母ライのことを思い出し、舌打ちをした。
あのとき、母上の気配には気づいたが、おばあさまがおられたとは。あのかたは、なんにも知らないふりをして全部ご存じだったということか。知っていながら止めもせず、それどころか、いま思えば背中を押すような行動さえあった。
そしてヨク。私にはそのようなことをひと言も伝えなかった。あの老いぼれたぬきめ。なんの、だまされたのはこの私だ。
サクは笑った。
「コウ、おまえがそこまで偽善者であったとはな」
「国を治めるのは偽善者と決まっています」
「ふん、いうわ」
「偽善者は、偽善を通さねばなりません」
「では、私を偽善の英雄にするか」
「その英雄は、みずからに課せられた過酷な運命を知り、それを逆に利用した。空の国とやみの国の両方をつかさどり、双方の犠牲を極力少なくしようとしたのです。そのためには新たに巫女が産まれてはいけない。生まれた巫女は三人目のやみの子となる。そこで受胎阻止をなさろうとした。しかし失敗に終わり、意に反して私が産まれた」
「そしておまえは、やみひとを次々と消し始めた」
「ええ」
「しかも白狼犬まで召喚し、空の国をも破壊しようとしている」
「・・・ええ、そうです。だから母上はやみの国に行かれた。今度は私をやみに取り込むことで、空人とやみひとの犠牲を少なくしようとなされた。だからこそ、呑み込まれた後の肉体を維持するために、ガクウをやみの国に呼んだ。しかし、その計画もチャルラとアデの策略によって壊されてしまった」
「そこまでこじつけるのは、やはり無理があるな」
「そうです。無理があります。母上のなさることはすべてが裏目に出ました。そうなることはご承知だったはず。なぜなら、空の神とやみの神を敵に回しているのですから。なのにどうしてそこまで」
ここでコウは黙った。溢れる感情を抑えるためだった。
受胎阻止を計画なさった、という話を聞いたときは驚いた。なんという小気味いいお人だ、と大笑いした。そしてやみに入って行かれ、この私を呑み込もうなど無茶なことをお考えになり、もう少しでその無茶が現実になるところだった。そうなれば神々の計画は丸つぶれだ。にもかかわらず、神々は、この若い魂を野放しになさった。どこまで抗うかご覧になりたかったのではなかろうか。
「おまえにはできまいな」
サクがぽつりといった。コウの顔がほころんだ。
「思いつきも致しません」
サクは苦笑した。
「神がなにをしようが構うものか。私はやみの国の支配者だ。やみひとに空人を呑み込ませ、やみの国の繁栄を望んだ。しかし、おまえたちと闘うごとにやみひとは根こそぎいなくなった。そんな状況でも一縷の望みはあった。コウ、おまえだ。やみの神、一の子であるおまえが目覚めれば、やみの力は強大なものとなる。もっと遠い地、もっと深い地にはびこるやみひとを、おまえは瞬時に呼び込むだろう。それは、おまえが生き延びるための唯一の方法でもあったのだ。そのためにわざわざゲンから離してやったというのに」
コウはなにかいおうとしたが、サクはさえぎって話を続けた。
「だが、おまえはそれを拒み、神々の生贄となることを選んだわけだ。だから、せめて私の手でおまえを殺そうと思った。これが私の偽善だ」
サクはみずからの手をじっと見た。
「私は自分の力を試したい。このからだに宿る力を。大いなる力を直接受け継ぐおまえの息の根を止めたい。これが私の真実だ」
「母上、あなたというひとは」
コウは、母の欺瞞と純真を受けとめた。
母上の心の奥から沸き出る使命は、欲という笠をかぶって走り出した。母上の欲は若く強く、そして純粋だった。ふつふつと湧き出る新緑のようにみずみずしく、美しい。ゆえに神をも感動させたのだ。神は母上を自由に動かしてみたいとお思いになったに違いない。そして母上は、空の国で生きることを全否定なさった。しかし、あなたが否定すればするほど、あなたは敬虔な空の子だと証明している。そのことに気づいていながらそうせざるを得ない、悲しいひと。
「コウよ。いまさら闘う意味を問うてどうする。答えを得ても得なくても、我々はお互いが死ぬまで闘わねばならぬ。そして、おまえと闘うのはこのうえなく楽しい。それでよいではないか」
「いいえ。私は、答えを得たからこそ幸せを見出しました」
「ほう」
「私も母上と闘うことで喜びを感じます。しかし、それがうえの計画だとはっきりわかったときは至上の幸福を得ました。これほどの幸せがありましょうか」
サクは目を瞑った。
ああ、私はこの瞬間のために生きていたのだ。
誰にも見せることができない、生まれ持った異能。やり場のないあふれる力。やみの国の支配者となり、同時に空の国を治め、為政者として力を使うことで自分をごまかしてきた。それが天命と信じようとしたが、そうではないことはわかっていた。空虚な達成感ほど忌々しいものはない。
コウよ。おまえは徐々に異能を発揮しはじめた。私の力を超えていた。おまえに対して常に感じたとてつもない畏怖。おまえの存在だけが私の力を認めた。おまえはまさしく空の神、一の子だった。その子をこの腕に抱き、おまえの目、肌、声、息吹、髪、爪に至るまで私の懐にあるだけで、どんなに心震えたことか。
私の命は、はじめて生きた。
コウ、おまえのいう通りだ。
私は空の神に挑んで負け、わが母を死に追いやった。そしていまは命をかけてわが子と闘う。おまえが先か、私が先か、どちらかが死ぬまで。それがすべて天命だとはっきり理解できたとき、呪われた力は解放された。これほどの喜びがあろうか。これが真の「幸せ」というものだ。
「コウ、おまえを産んでよかったと思うぞ」
「私も母上の子として生まれて光栄でございます」
サクが揺れた。とたんにコウの足元がぐらつく。コウはぐぐっと両足を踏みとどまらせたが、そこからやみひとがわき出した。
コウの胸の奥がずきずきと痛む。
(やみたちが騒ぐ)
憤りを抑えながら、コウは両手を広げて、
「ふうううっ!」
と叫んで両手をさっと下げ、やみを祓った。
サクのからだの背後からやみが湧き出て、それは大きく膨らみ始めた。サクの顔から汗が流れている。 コウはそのサクの顔を見逃さなかった。
(母上には余裕がない。あの繭は二度と作れない)
しかしコウとて余裕はない。コウをやみひとが追う。「祓い」を繰り出しながら、後ろに飛んでかわしていく。
―――浄化が怖いか。
サクの声がはっきりと聞こえた。
(念話?)
コウの中のやみたちは徐々に興奮し、胸が痛む。外から来るやみたちを浄化しようとすれば、コウのからだの中に取り込まねばならない。それがどうしてもできなかった。しかし、祓いだけではサクには勝てない。
いま浄化すればどうなるか。昨日の闘いでためこんだやみひとたち。
母上のことばを思い出す。
どれほどのやみをため込んだ?
やみをため込むことは心の傷。ああ、母上も同じことを感じているからこそのことば。その情があなたを突き動かすのか。
確かに浄化は怖い。ここで目覚めてはいけない。私の役割は果たせない。目覚めずにこの場をのりきるには、あの繭を。いまは「祓う」しかない。
サクのまわりのやみは大きく深く紡がれていく。
―――無理もない。おまえは受胎前の小さい子どもだ。
コウは地から湧き出るやみを祓いで飛ばしながら、ととんっと飛び上がって木の枝につかまり、ひゅうっとからだを回転させて枝の上によじ登った。
サクは数回、大きな息をついた。
(息が荒い)
おそらくあの大きなやみの繭は、母上の最後のやみとなろう。そのことがわかっていても、コウ自身も浄化できるのはあと一回できるかどうか。
心の中のやみひとたちを抑えるために、コウは握りこぶしを胸に押し当てた。
と、こぶしの指の間をぬって光が出ていることに気付いた。
(あっ)
コウは無意識に首にかけていた「浄」の御護りを握りしめていた。ゲンの力が籠められている木札。やみひとを即死させるゲンの光。
コウは笑った。
さすがは白狼犬の光だ。純粋な空の神の遣い。やみの子である我々の思いなど、無に等しいのだ。それは時代遅れのただの感傷にすぎない。
「行こう」
コウは御護りに声をかけ、木の枝からするりと降りた。そして、すうっと息を吸い込むと、サクをめがけて一気に駆けた。
サクは目をみはった。
光がまっしぐらに自分に向かってくる。
コウの姿が見えたのではなかった。コウの胸のあたりから、それは清らかな、まるで希望のような光が見えたのだった。
その光の尊いこと。
(なんと美しい)
サクは不意をつかれて戸惑ったのでもなく、からだが消耗して動けなかったのでもない。
ただただ、コウの胸から光る「浄」札の光が清らかで純粋で、みつめることしかできない光であっただけなのだ。
それは空の神の光。美しい。
やみひとたちはその札をまともに見て屈したのだろう。それもそのはずだ。ここまで純粋な素朴な、壮絶な光を真っ向から見せつけられたら動けるはずがない。我々は屈服するしかないのだ。そしてそれがわが身の最期を飾るにふさわしい、見事に残酷な無垢な光なのだ。神に愛された証。勝者の輝き。
(おまえの勝ちだ。卑怯者)
「空の神よ! 我に浄化の力を与えたまえ!」
コウは叫んだ。
天から大量の光が降りてきた。
そしてすべての光がサクに向けられた。
サクが紡いでいた巨大な繭は、外側から少しずつ溶かされるように剥がれ落ちた。際限なく注がれる浄化の光は、サクのまわりを固めていたやみひとたちをあっさりと清め、サクのからだの中に入っていった。
「ぎゃあああああっ!」
激しい悲鳴を上げたのは、コウだった。コウは胸を押さえ、ごろんごろんとのたうち回った。
サクは声をあげることなく、ごぼっと重苦しい音を立てて、大量の血を吐いた。
そして静かに倒れ、それっきり動かなかった。
コウもしばらく動けなかったが、ぼんやりとした眼でサクの姿を探した。
「母上・・」
コウは下半身を引きずるようにして母に近寄り、母の手をとった。
コウは懐に縫い付けられた布をはぎ取ろうとして手が震えた。うまくからだが動かない。しかし、力を振り絞って布をはぎ取った。そこから出てきたのは母の数珠であった。それを取り出し、母の左手にかけた。
「・・・コウ、女々しくするな。・・・おまえらしくもない」
サクは、のどから血が噴き出て咳き込んだ。
「いいえ、母上。これが私です」
「・・・頑固な」
サクはコウを見て、満足そうな顔をした。コウは母の手をぐっと握りしめた。
「手を・・・放せ。おまえの情で私を汚すな」
「母上・・・」
コウは、母の手をその胸に置き、みずからの手を母の手から放した。
「それで・・・よい。コウ、強くあれ」
コウの嗚咽が聞こえた。しかし、サクにはもうコウの顔は見えなかった。
暗闇しかない。闇の中に吸い込まれていく。だが、これでよい。私はこうなることを望んだ。しかし、このいいようのない不安はなんであろう。落ちてはいけないところに落ちてしまうような感覚。自ら望んだ道のはずが、道に取り込まれて不安とともに息絶えていく。
ふん、よかろう。あつらえたような最期だ。
そこに、空からひとすじの光が差し込んだ。光はサクを包み込み、光の粉がきらきらと舞った。
(白い・・・蝶?)
そう思ったとき、無意識に声を出した。
「コウ、紋白蝶だ」
吐息のような声であった。
とたんにコウの目から涙があふれた。コウは「ああ・・・」と崩れるような声を上げた。紋白蝶はいなかった。が、しっかりと答えた。
「はい、母上。紋白蝶です」
(だから、コウ、泣くな)
サクのことばはもう音にならない。サクは目を閉じた。そこには無数の紋白蝶がいて、ひらひらと舞っている。サクはからだがふっと軽くなるのを感じた。
(蝶が私を持ち上げた?)
サクは蝶とともに空に上がっていく。
(私は空に昇っている? 最期まで、私は空の子であったというのか)
サクは白い蝶と同化し、きらきらと輝いた。
(いや違う。死んだあとも、私は空の子なのだ。大いなる御方さま、空の神よ)
コウはサクの魂を見た。夢のなかにいるようであった。母の幸せそうな顔を見た。あのときと同じ顔。穏やかに笑っていたあの母の顔。白い光の粉となって母が空に昇っていく。母の姿が消えてしまうまで、コウはずっと見上げていた。




