白泉
一度、近くまで来たことがある。
「この山を越えると奥に白泉がありますよ」
見回りの途中、村人が教えてくれた。コウがテテを連れて白泉の水を汲んできてくれた。いつか羽犬たちと来るはずだった。
いま、羽犬たちは深手をおっているか、疲れ果てているか、それとも死に絶えたか。動ける羽犬たちは人間とともに後処理に忙しい。いずれにしても白泉で水浴びなどという余裕はない。それなのに、怪我もなく疲れもないオレが白泉に向かっているとは皮肉なものだ。
中央の惨劇は、ほかでもない、このオレの責任だというのに。
オレは中央を離れるべきではなかったのだ。実際、コウのところに行ったからといってなにもできなかったじゃないか。
コウ。眠っている。目覚めるのだろうか、と思うほど。こいつはいつもそうだ。力を使いきって死んだように眠るんだ。
コウは「チャルラに操られた」といった。が、本当にそうだろうか。なにかに操られている。チャルラに? ・・・違う。オレを操っているのは。
(はっ)
ゲンはびくりとして辺りを見回した。誰かが見ている気がした。が、誰もいるはずがなかった。
ゲンはふうっと息をついて、山の奥に入っていった。
奥山のそのまた奥にぽっかりと浮かんでいるような美しい淵。
深淵。
湧き出でる泉は静かに揺れていた。地下から金粉を伴って水が湧いている、とゲンは思った。それは金粉ではなく、小さい砂たちであった。砂たちは湧水に浄められ、朝の太陽の光を受けてきらきらと舞っていた。
ほとりに降り立って、ゲンはコウを寝かせた。
(さて、どうしたものか)
白泉に行けといわれてきてはみたものの、なにをすればよいのかわからない。眠っているコウを起こすこともはばかられた。
(それにしても、なんと清らかな)
空気自体が美しかった。清浄な粒子に包まれた霧に覆われ、ひんやりとした気がゲンを包んだ。ゲンのからだから淡い光が発せられ、霧と同化した。ゲンの光が霧に濡れ、しとしとと露を落とし、その露でコウはぐっしょりと濡れた。
(どことなく、巫女の墓場に似ているな・・・)
ゲンはそのようすをただ眺めていたが、いつのまにか眠ってしまっていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
コウが目覚めると、陽が西の山に沈んでいた。
からだのまわりをゲンのからだがぐるりと取り囲んでいる。ゲンはぐっすりと眠っていた。
コウがゆっくりとからだを起こすと、ころんと転がったモノがあった。竹の皮の包み。
(だれが)
コウはそれを懐に入れて、ゲンの毛に触らないようにしてゲンのからだの外に這い出した。
泉のそばで竹の皮を包みをほどくと、ぷうんと海苔の香りがした。とたんに腹がぐうっと鳴った。コウは海苔に包まれた握り飯を両手につかみ、がぶりと喰いつき、う、う、と獣のようなうなりを上げた。涙が流れた。ぐず、ぐすっと鼻をすすりながら、それでも口はがつがつと握り飯を食い破った。
なんのために食うのか。食うことでまた生を得、再び闘うためである。しかし、今のコウはそんなことは考えなかった。ただ、飢えていた。飢えを満たすために、からだの求めるままに食うだけであった。
コウは、ふたつの握り飯を一気に食べ終えると、這いつくばって泉に口をつけ、ごっ、ごっと喉を鳴らして飲み、そのままごろんと仰向けになった。
こく、こく、と泉の湧く音が聞こえ続けた。
コウは笑った。
やっと「食う」という行動の意味を認識した。一度大きく伸びをして着物を脱ぎ棄てた。まだ幼いからだが露わになった。コウは泉にどぶんと飛び込んだ。
コウはしばらく泉に浮かんで仰向けで漂っていた。
暗くなり始めている空に赤い雲が漂っていたが、ゆっくりと雲が赤黒くなっていき、そのうち夜空に消えていった。
コウは泉から上がり、ゲンの寝顔を確認した。
「ばかなやつ」
そういい捨てて、握り飯の残りをゲンの懐近くにそっと置いた。
コウはてくてくと歩いた。どこまで歩くのか、いつまで歩くのか、考えなかった。足が行先を知っているような気がした。
泉がざわと揺れ、ゲンはその音で目覚めた。
(いかん。ずいぶん眠っていたような気がする)
辺りは暗くなっていた。
「コウ?」
コウがいない。慌てて探そうとして、獣の臭いに気付いた。
(羽犬が、いる)
ゲンは身構えた。
淵の向こう側にいるらしいが、霧に隠されて輪郭がよく見えない。確かに、羽犬がいないとは限らない。中央にいる犬がここに来たことも考えられるし、中央に避難するときにはぐれた犬もいるだろう。あるいは山奥に棲んでいる野生の羽犬というのもいるのかもしれない。いずれにしても油断はできない。
(しかし、この臭い。いや、まさか)
霧の中から、次第に相手の姿が見えてきた。
白い毛。上品ないでたち。
(あっ)
ゲンの鼻はすでに察知していたにもかかわらず、ゲンはとびあがるほど驚いた。
「ロウロウ・・・!」
ロウロウの存在にも驚いたが、不気味だったのはその目がしっかりと生きていたことであった。
(チャルラかっ)
ゲンは重心を低くした。が、チャルラの気配を感じない。もしもチャルラだったら、もっと早く気配を感じていたはず。
いや、たとえロウロウ本人だったとしても、だからこそ油断はできない。あのとき確かにゲンは見た。ロウロウはチャルラの渦の中に自分から飛び込んだのだ。
しばらくゲンは相手を見極めるためにじっと動かなかった。目だけはロウロウを追った。ロウロウもゲンを見つめながらゆっくりと近づいてきた。
「おまえ、ロウロウか」
「さようでございます」
「コウを連れていったのはおまえか」
(あるいはサクか)
「コウが誰かに誘拐された、とでも?」
「違うのか」
「コウを普通の子どもだとお思いなのですね。なんていじらしい御方でございましょう」
ロウロウは微笑んだ。それは高尚で親密な微笑であった。ゲンは、まるで母親であるかのようなロウロウの言動を忌々しく思ったが、自分が動揺していたことに気づいた。
確かにそうだ。コウは普通の子どもではない。コウが簡単に誘拐されるなどありえない。だとしたら、あいつはいったいどこに行ったのか。なんのためにここからいなくなったのか。
「コウのことはもうよろしいではありませんか。彼女には彼女の事情があるのでしょう。それよりもゲンどの」
ロウロウは視線を流した。妖しい眼光であった。ゲンは一瞬ひるんだ。
「あなたのお姿に私は感動しているのです。なんと、お美しい!」
「おまえ、目が見えるのか?・・・そうか、チャルラだな。あれはいま、おまえの中にいるのか」
「ええ。目を貸していただきました。からだを使役しているのは私ですが」
「あれがよく承知したな」
「チャルラさんの意思は問題ではございません。肉体など、力の強いほうが仕切るもの。それに、本来このからだは私のための器」
「だったら、なぜチャルラが中にいるのだ」
「私が許したからです」
「許した?」
「ええ。一時的にではございますが。ゲンどのもそうでございましょう?」
「ああ、確かに。オレもいまは許されてここにいる」
(えっ)
ゲンは自分の答えに驚いた。
ゲンの動揺とは反対にロウロウは冷静だった。ゲンは動揺しながら次々と吐露した。
「この国に降りる前、目的を果たすためにと、一時的にこのからだに入った」
「さようでございましたか」
「そのとき、からだの主が自分から心を開いて」
ゲンの心の中は驚きの連続であったが、表面的にはなんの変哲もない会話が続いていた。
「だが、その主は渋い顔をしていた。本当はオレをからだに入れたくなかったらしい」
「よくわかります」
「オレだって入りたくなかった。好んでこんなからだに入るものか。からだの主もかわいそうなもんさ。逆らえなかったんだ。うしろであいつが・・・」
(はっ、そうだ。操っているのは)
ゲンは背後に存在する大きな光を感じた。いつもそこにいながら普段気がつかなかった。しかし、こうして焦点をあててみると、あまりにも当然の、大きな存在。
「逆らえない流れというものはあるものでございます」
そう、決して逆らうことのできない、絶対的存在。なぜなら・・・。
ロウロウの黒い瞳が笑った。
なんと憎々しい。相手が思い通りに動いていることを確認して満悦している証拠だ。オレはロウロウに完全に喰われている。にもかかわらず、オレは抵抗もせずに、それどころか嬉々としてオレが思い出せなかった記憶をさらけだしている。この、とうとうと湧き出る泉のように。これもまた、逆らえない流れだというのか。
ロウロウの術中にはまっていることがわかってはいるが、動き出したゲンの思考は止まらなかった。
(そう、逆らえない。なぜなら・・・)
ロウロウはふふっと笑った。
「で? 目的は果たされたのですか」
「それは、・・・まだだ」
「あら、それは困りましたね。おからだの主さまもさぞやお困りでしょうに」
「そうなんだが、やりたくない」
「なぜでございますか」
「やみの意識体を根絶やしにしろというんだ」
「本望でございましょう」
「本望? 本望だと? 違う! やみの意識体を根絶やしにすることがなにを意味しているのか、白狼犬がなぜここにいるのか、おまえはなにもわかっていない!」
ちくしょう。厄介な思いをしょってここにきたことを、ついに認めなければならない。
白狼犬の肉体が力を使う。そのことがなにを意味しているか。
なんのための白狼犬か。
そうだ。やみの駆逐のためだ。
それは簡単なことではない。積もった埃をはたきで掃うようなわけにはいかないのだ。太古からこの地に根付いているやみの力。空人より、モトン族より、ずっと昔から存在し、太陽、海、木々、草花、岩など同列の、あたりまえの自然。この地に練り込まれている力、この地そのもの。
その中からやみを駆逐する! それは、この地の破壊を意味するのだ。そのための白狼犬なのだ。
白狼犬の真の力は、破壊なのだから。
そして、その究極の目的は・・・。
くそっ!
ゲンはやり場のない憤りを感じた。
ロウロウはもう質問してこなかった。うっとりとした顔をして木々や泉を見渡している。
ゲンはちっ、と舌打ちをして、こっちから質問してやろうと思った。
「おまえ、なぜ、チャルラに加担した」
「さて。特に理由はありません」
「うまくかわすつもりか」
「ゲンどの。理由を究める意味がありましょうか」
「どういう意味だ」
「我々は、神の意思によって存在します。我々の行動は意識しなくても神の意思なのです。その理由を究めたつもりでも、真意を知ることはありえません。たとえ自分自身の行動だとしても、その真意は到底知ることができないのです」
ロウロウは語り続けた。
「命はすべて神の意思によって存在し、この世はこれほどまでに美しい存在で埋め尽くされています。神の力とはほんとう素晴らしい。あなたもそうお思いになるでしょう?」
(いったい、なにをいって・・・?)
ゲンはことばをはさむことができなかった。
「私は目が見えない間、いろいろと考えました。この匂いがする草はこういう形であろうか、このなめらかな肌触りの木はこういう色であろうか、などと。ですが、まったく違いました。想像をはるかにこえた形、色、光! ごらんなさい。すべてが生きておりましょう? 私が描いた形や色には『生』はなく、ゆえに『死』もない。『存在』にはほど遠い、あまりにも稚拙で矮小で、むなしい。神がおつくりになられた『生』を目の当たりにして、我々は一様にこのうえない感動を覚えます。それはなぜか。私は理解しているつもりで、真に理解していなかった」
ロウロウは饒舌であった。ゲンには、ロウロウの姿に後光がさしているように見え、まんじりともせずに魅入ってしまう自分に気がついた。
「つまり『生』とは神の愛なのです。我々は常に無意識に、神を信じていようとなかろうと、敬虔な信者も、無神論者も、神への背徳者さえも、一枚の葉、ひとすじの水にさえ、喜び、震え、涙する。どのような立場の者にも、どのような考えの者にも一様に、神が愛を与えているのです。
私は悟りました。私のような小さな存在が神の愛を具現しようなど愚かなこと。なぜなら、私自身が神の愛の一部だからです。ですから、神によって作られた存在でありながら、個々の行動の理由を真に究めることなどできないことなのです」
(まるで神父様の説教だな)
ロウロウは息を吸って、またなにかいおうとしたが思い直したように口を閉ざした。
「つまり、教えられない、ということか」
「問い自体が無意味だ、と申しているのです」
ロウロウはきらきらと光る瞳をゲンに向けると、天を仰ぐように頭を上げた。
―――これで、よろしいのですね?
―――ええ、さすがですわ。
―――神々のお導きに感謝しております。
―――神々も安心なさったことでしょう。
―――ようやく眠りにつくことができます。
―――ごゆっくり。
ゲンは、ロウロウが誰かと念話をしていることを察した。それが誰なのかもゲンは理解した。
「ゲンどの。どうやら私の仕事は終わったようでございます」
「仕事?」
「あなたがたの願いもかないますように」
ロウロウは静かに目を閉じた。
さあっと風が通った。ざざっと木の葉が揺れる音がした。
(来るっ)
ゲンはさっと身構えた。後ろ足が竹の皮の包みを踏み下した。




