中央避難二日目
中央避難がはじまって丸一日が経過した。
夜のうちに行方不明になる者が多数いた。やみは出現していない。あきらかにクニ抜けであった。その人数は南麓村の者が多かった。ガクウが行方不明になったことがいちばんの理由であると、ガンザンは考えた。ガクウはナツイの葬儀の日、その夜に研究棟に入ったきり消えた。誰もその姿を見なかった。研究棟の近くにいた者が、かすかなやみの気配を感じたと報告したことから、ガクウはチャルラに呑まれたのだ、と噂になっていた。
「あるいはクニ抜けではないか」
と、はっきりとことばには出さず、陰ではそう噂する者もいた。が、南麓村の者たちは、そんなはずはないと否定した。なぜならクニ抜けがいかに無意味かということを常に説いていたのはガクウだったから。
いずれにしても、ガクウの蒸発は人々に多大な影響を与えた。南麓村の長であり、医術の権威であるガクウの存在はおおきかった
クニ抜けをしたのは南麓村の人々だけではなかった。北麓村の人々も、これまでいちばんクニ抜けが少なかった西麓村からもクニ抜けする者がいた。途中で見張りに捉えられた者もいたが、逃げおおせて中央から出たものもいた。中央から出てしまえば、村役も里役も追ってくることはなかった。
東浜村ではもっと露骨にクニ抜けをする者もいた。昨夜のうちに中央に到着するはずだった者たち十数人が、翌朝になっても到着しなかった。中央に到着した東浜の者たちが、浜に向かって歩いていく者たちを見たという。
ギンカはこのことをおそれ、何人かの監視役を置くことをコウに上申していたが、コウはうんといわなかった。確かに監視役など置く余裕はない。この豪雨の中、クニ抜けをするなど自殺行為である。
もはやクニ抜けなのか、クニ抜けをしようとして行き倒れているのか、中央に向かう途中で迷子になっているのか、確認することはできない。
激しく鳴り響いていた雷は夜明けとともに勢いをなくしていった。しかし、曙の空に太陽はなかった。ときどき思い出したように、雷光が重たい雲を照らす。
雨は止まない。
何人かの村人が空を見つめている。コウの戻りを待っている者たちであった。その中にはミノがいた。しかし、少しようすが異なった。ミノは懐に大きな袋をしっかと抱き、青い顔をして暗い空を見つめていた。
曙を過ぎたころ、コウが戻ってきた。コウはミノの懐にある袋を見つけると、少し眉を寄せた。
「コウさま!」
皆がわれ先にと、雨の降りしきる庭へ駆け寄る。コウに報告せねばならぬ者、指示を仰がねばならぬ者がもちろんいた。が、それ以前にただ、なにかにとりすがるようにして、コウのそばに寄りたいという気持ちが先走った。ミノも他の者につられるようにしてコウのそばに駆け寄ろうとすると、コウはいきなりミノを目で制した。
(はっ)
ミノはぴたりと立ち止まり、微動だにできない。コウはミノをそのままにして、他の者たちに笑顔を見せた。ねぎらいのことばをかけ、指示を出す。ミノはじっと動けないまま、目でコウの姿を追っていた。
コウは指示を終えると、さかさかとミノに歩みより、ふうっと息を吐いてミノの肩に手を置き、
「ミノ、それを持って私の部屋へ」
とささやいた。ミノのからだの縛りが解けた。
「は・・・」
「急げ」
「はいっ」
ミノは追い立てられるようにしてコウの部屋に入れられた。コウはミノの後に部屋に入ると、
「ばかものっ。それを濡らしてどうする。わからなかったか。おまえらしくもない」
と改めてミノを叱った。ミノは泣きそうな顔をして
「も、申しわけありません、あの・・・」
といいよどんだ。
「不相応なものを持つからだ」
「はっ。仰せのとおりで・・・」
「気がとられるぞ。早くからだから放せ」
ミノは袋をそうっと畳の上に置こうとしたが、手がなかなか離れない。時間をかけてやっとのことで手放すと、ずりずりと後ろに下がり、ほうっと息をついた。同時にコウもほうっとため息をついた。ミノの顔に少しずつ赤みが戻ってきている。
「なにがあった」
「はい。それが・・・」
ミノが部屋の外を窺うようなそぶりを見せた。
「心配するな。しばらく休むので近寄らないよう伝えておいた」
ミノは平服した。本来ならそれはミノの仕事であった。ミノは懐のもので頭がいっぱいになりすぎて、自らの仕事が手につかなかった。
「お察しだとは思いますが、ユウキがそれをいきなり私に押し付けまして。大事なものだから誰にもいわずにコウに直接渡せと」
(完成していたか)
護符。神の力を帯びているのである。たとえコウのお付きであろうと、巫女が気を籠める前に手にすることなど許されない。それぐらいのことはユウキもミノもわかっているはずだ。その代償は受け入れた肉体に現れる。祓い師で頑強な体力を持つミノだったからこうして話をしていられるが、そうでなければ卒倒していたかもしれない。
ユウキは突拍子もないことをすることがある。いや、突拍子もないことばかりする。彼自身に深い考えはなかったが、後から振り返るとそれが理にかなっていることが多かった。コウは、ユウキの意外な行動を空の神の啓示として捉えることが多かった。
(だとすれば)
コウの視線は護符の入った袋に注がれた。
「それで、ユウキは」
「はい、あの、ユウキは、ここには戻らないと、そうコウに伝えてほしいといって・・・」
「ここ? 中央に?」
「中央に、ということなのか、それとも・・・」
「それとも?」
ミノは頭を下げたまま、ぶんぶんと激しく振った。
「いえっ、ただそういうと羽犬に乗って・・・」
「泉谷の者たちの救援だろう。今日、午の刻には泉谷の者たちが中央に着く。そうしたら」
「コウさま」
ミノは悲痛な声でコウのことばをさえぎった。
「ふた時ほど前、ユウキの羽犬が、中央に帰ってきました」
コウは黙った。
沈黙が流れた。
ミノは、ユウキの羽犬が戻ってきた理由をすでに結論づけていた。が、本当にそれが結論か、ほかの可能性はないか、頭の中をぐるぐるとかき回している。
ユウキが途中で命を落とした、もしくはやみに呑まれた場合、たとえユウキが羽犬に逃げるよう指示をしたとしても、あの羽犬がユウキを置いて逃げることはないだろう。羽犬が主から離れるとき、それは主が空の国から離れるとき。
ミノはコウの前ではどうしてもその考えを口にすることができなかった。わざわざ口にしなくてもコウがその考えに至っていることは確かだった。しかし、コウは黙ったままである。沈黙を埋めるためにミノは別のことばを続けるしかなかった。
「あの、父から申しつかっていることがありまして、その、昨夜、十数人が中央からいなくなっております。何名かは羽犬に乗って出て行ったと考えられますが、その羽犬たちも戻ってきておりまして・・・。それで、ユウキもその者たちと共に、う、海に」
ことばが尽きた、とミノが観念したとき、コウがゆっくりと目を開け、つぶやいた。
「クニ抜け、か」
ミノは「ひゃっ」と悲鳴をあげそうになった。そのことばをコウみずから口にしたのをはじめて聞いたからであった。ミノはごくりとつばを呑み、
「はい。父が、そう申しまして、詳しい人数はまだはっきりしていませんが、取り急ぎそのことだけはコウさまに伝えておけ、と。後でヨクさまから詳細をお聞きになるとは思いますが・・・」
といっておずおずとコウを見た。
コウはあぐらをかいたまま、肘をみずからの膝にたてかけ、頬杖をついている。
重たい沈黙が訪れたが、今度はミノはその沈黙に逆らわなかった。張り詰めるような空気の中で、ただ息を殺していた。コウの周りの気を寸分も乱すことは許されない。
コウは思い出したようにミノに向き直った。
「ミノ、ユウキのことは気にするな。あれはもう、ここでの役割を終えたのだ」
「は?」
「役割を終えた者は、次の役割を担うことがある」
「はあ」
「そのために、クニ抜けという行為が必要なこともある」
「えっ」
「だから、クニ抜けをした者たちを、誰も責めることはできぬのだ」
「な、なぜでございますか。クニ抜けは禁じられております。昔からの掟ではございませんか!」
「だから、そう責めるなといっている」
「ですがっ」
「おまえは正しい。私はそんな空人がたくさんいることを知っている。それは私の誇りだ。だがな、おまえたちが正しいのはここにいるべき存在だからだ。ここで役割を果たす存在。もしくは、そういう存在であろうと努力している存在。しかし、役割を終えた者たちはここに存在できなくなるのだ。だとしたら、『掟』がどうであろうがその者たちには意味がなくなる」
「おっしゃっている意味が、よくわかりません」
「まあ、そうだろうな。よいか、ミノ。この国での『掟』は、おもに巫女の始祖が作ったものだ」
「存じております」
「始祖はおおかた、『掟』という鎧をつけないとクニを治めることができなかったんだろうよ。なんとも情けないことだ」
「コウさまっ。始祖さまに対してそのようないわれようを! そういうことを口になさっては巫女さまの信用がなくなります!」
「はは。おまえはまったく正しい」
「また私をからかいになって」
「からかってはいない。誇りだといったろう?」
ミノは顔を紅潮させ、ことばを失った。憤りが行き場を失って、気恥ずかしさと喜びの混じった、複雑な表情を見せた。
「しかしね、ミノ。永遠不変に、そして真に、『正しい』ものはないのだ。始祖の『掟』も役割を終えることはある。現に、歴代の巫女によって変えられた『掟』や、新たに作られた『掟』だってあるだろう」
「それは、そうですが」
「常識、道徳、考え方、そういったものが変わっていく。その結果『掟』をも変えざるを得なくなる。そしてこれからも変わり続ける。変わる、と簡単にいうが、いろんな変わり方がある。たとえば、なにかの拍子に突然人々に受け入れられたことが、実はずっと昔から人々から忌み嫌われていた事柄だったりする。また、表面には見えず、こっそりと潜んでいるモノが淡々と存在し続け、力を貯め、徐々に姿を現すこともある」
「それは・・・」
「だから、今後はクニ抜けも正しいこととして推奨されるかもしれないのだ」
「まさか!」
「たとえば、の話をしているんだ」
「コウさまのお話を伺っていると、まるでやみひとによる呑み込みも正しいという時代だって来る、とおっしゃっているように聞こえます」
「察しが早い」
「そんなはずはありません!」
ミノは顔を赤くして憤りをぶつけてきた。
「ははは」
コウは心底ミノをかわいいと思った。ミノの瞳は赤ん坊のように透き通ってきらきらと輝いている。
「うんうん、そうだな。おまえはおまえの正しさを貫けばよい。潔い生き方だ。だがな、おまえの正しさの枠にはまらないものをむやみに責めてしまっては、それは未練というものだ。潔くはないな」
コウは青い瞳をまっすぐにミノに向けていた。
「コウさま・・・」
ミノはコウのいうことを全部は理解できない、理解するわけにはいかないと思った。しかし、コウのことばは美しい瞳光とともにミノの脳に移植されたような気がした。決して忘れてはならないことだと悟った。
にわかに外が騒がしくなった。わあわあと聞き慣れた大声が聞こえた。同時に、廊下をどたどたと走り回る音がする。
コウは微笑んだ。
「松浦が来たか。今日も忙しくなるな」
ミノは急いで立ち上がろうとしたが、めまいがしてよろけてしまった。
「ふむ。すぐに立ち上がれるほど、この護符の力は弱くない。それをおまえは長時間懐に抱いていたのだから、うん、さすがだな」
「お、恐れ入ります」
「早急にこの部屋を出たほうがいい。護符にとりこまれるぞ?」
「えっ」
「はは。ミノ、気を確かに持て。そうだな、ゲンのそばにいけ。治りが早い」
「でも、ゲンさまのおそばにはたくさんの病人やけが人がいて・・・」
「遠慮することはない。おまえも病人だ。なに、心配はいらん。おまえは意識体の力を底上げさえすればすぐに治る。そうそう、首にある札はこの場合の力にはならんぞ」
「はあ・・・」
コウはせかせかと説明を始めた。
「そうだな、いまゲンが放っている光、あれが届く場所に少しの間からだをおけばよいのだ。うーん、そうだなあ。ゲンと目を合わせたほうが早いか」
ミノはおかしさをこらえた。
コウさまは、まれではあるがこんなふうに面倒見のいいお節介おばさんみたいになられる。この御方は本当はこんな御方なのだ。人への愛情があふれてどうしようもなくて・・・。こんなコウさまを知っている者は少ない。私は普段から知っている。しかし、その私もコウさまの大量の愛情を全部受け止めることができない。おっしゃっていることが理解できず、呆気にとられて聞くしかない。
からだが大量の愛情に包まれ、その真の価値を見極めることも実感することもできず、ただただ、いいようのない感動をかみしめることしかできない。すると、その愛情はからだからぽろぽろと零れ落ち、掬うことも拾うこともできずにいると、すっと消えてしまう。神の愛とはそういうものなのだ。
「私はしばらくここに残る。半時ほど人払いをしてくれ」
「はい」
ミノはくらくらする頭を押さえながら、よつんばいになって部屋を出ていった。
ミノがいなくなった部屋で、コウはどっかとあぐらをかいた。
「これを使うときがきた、ということか」
コウは護符の入った袋にそっと手を当てた。
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激しい雷雨が続いて二日。
雷山や小河原より低地である川端は、くしくも川の堤を修復したばかりであり、豪雨にもかかわらず、どうにか氾濫を防いでいる。
川端の里長エフムは、昨日、コウから伝令が来たことを思い出していた。
伝令役の表情は悲壮であった。強い雨に打たれながら、巫女のことばだけを守って飛んできた。どうしようもなく震えるからだは、雨のせいか、目に見えない重い荷物のせいか。
エフムの屋敷に飛び込んできた伝令役は、その声だけが凛と輝いていた。
「申し上げます!」
伝令役からこのことばが発せられると、その場にいる者たちはさっと膝をつく。それは巫女に対する正式な礼である。伝令のことばはあくまでも巫女のことばであり、伝令役が格下の者であろうと、伝令がなされている時は巫女と同等の力を持つ。
「ひとり残らず、ただちに中央へ移動。中央にて祓い師は、すべてガンザンの指示に、医師はガクウの指示に従って動け。ただし、土橋と川端は、里役、誘導役、医師班を小河原に派遣。以上!」
そういいきった後、伝令役のからだがよろよろと崩れた。慌ててエフムがそのからだを支えた。コウからの伝令はそこまでだった。
(小河原は、思った以上の惨状か)
川端からの中央への移動は通常なら難しくない。川端の里は北麓村の管轄だが、隣の里は西麓村の田野池である。田野池の隣の里が稲塚であり、田畑が広がり、地形の起伏が少ない。が、今日は違う。
泉谷川は田野池の里と川端の里の境をどうどうと流れている。泉谷川の氾濫をなんとか防いでいる川端ではあるが、田畑は豪雨に叩きつけられ、さながら海の浅瀬のようである。家々はすでに床下まで浸水しているところも多い。
(いま、泉谷川が氾濫したら)
エフムは気が焦っていた。
そして、里役、誘導役、医師班を小河原に派遣させねばならない。
誘導役の行動は早かった。エフムがコウの伝令を伝えると飛び出すようにして小河原に向かっていった。
医師班はその機能に独立性が認められており、独自の情報伝達手段がある。すでに小河原の医師班から連絡が入っていて何人かは現地に向かっていたし、残りの医師たちも出かける準備が整っていた。
問題は里役を小河原に派遣することであった。愛犬とともに危険な地に赴かせるのである。死の危険もある。快諾するものは少ない。里役は全員が祓い師であり、その役目はやみひとから空人を救うことだという自負もある。
『聞けば、小河原には今日はやみひとの出現はないというではないか。だったら我々の仕事ではない』
というのが大半のいいわけであった。
エフムには十八歳の息子がいる。息子の名前はイサムといい、祓いの力もあり、長補佐をしている。イサムは与えられた仕事を確実にこなし、信頼のおける存在であったが、どこか影が薄い。常にエフムの後ろにいてめったに発言もしない。いずれは長となって川端の里を統率してほしいと思っているがどうも物足りない。
そんなイサムに里役たちの説得が難しいことは容易にわかる。そこでエフムは中央移動の引率をイサムに担当させ、里役の説得はエフム自身が担当した。
なんとか二名の川端派遣が決まったが、あと三名はほしい。エフムはあきらめずに里役を説得して回ったがあきらかに拒む者さえいた。なんとか正午までには里役を派遣せねばならないが事が進まない。
川端の長老セグルが難しい顔をして、エフムのところにやってきた。
「セグルさま、中央で臨時責任者ではなかったのですか」
「おう、イサムが到着したのでな。まかせてきたわい」
「え、それは」
「エフム、わしが小河原にいく」
エフムは、責任感が強く人情に弱いこの長老が小河原に行くといってくるだろうと予測はしていた。しかし、伝令は「中央で祓い師はガンザンの指示に従え」とのコウさまの指示を伝えている。これは中央でやみの出現の可能性があるということだ。
「セグルさま、それはいけません。中央ではセグルさまの力が必要です」
「あいつらが小河原に行きたくない理由は、小河原にはやみが出現しないからなんじゃろう? そんなら、あいつらには中央で働いてもらおうじゃないか」
エフムは口を閉ざした。
技術以前の問題だ。セグルさまの胆力あってこそ川端の祓いの力が発揮できる。セグルさまがいなくてどうして満足に働けようか。イサムにあと少し力があれば・・・。
セグルはエフムの肩を一つ叩いた。
「大丈夫じゃ。イサムはやれる。わしにはわかる」
「しかし」
「信じることじゃ。もう時間がない。わしゃ、すぐに小河原にいく」
「・・・わかりました。必ず里役を派遣します。そのときはセグルさま、中央に移動して下さいますね」
「おう、そんときゃ、ばしーっと飛んでいくわい」
セグルは両手をぐるぐるとまわしながら足早に去って行った。
必ず里役を派遣する、とはいったものの、エフムはどうしたものかと頭を抱えていた。最低二人は必要である。
「おい、エフム」
背後から甲高い声がした。ウルクであった。
「ウルク、来てくれたか」
エフムはほっとして嘆願するような声になり、少し後悔した。
「なにもおまえのためにきたんじゃないさ」
ウルクはにやにやしながらエフムの肩に手を置き、からだを預けた。
(こいつ、相変わらず動じないやつだな)
エフムはウルクが好きだった。
エフムは三十五歳。ウルクの一つ年上である。
川端の里長になって十年。十一歳のころから中央学で学び、川端の里長となるべく教育され、祓い師としては同年のギルに次いで実力があった。川端では祓いの教育に力を尽くしていたため、まじめで向学心のあるエフムは長老たちのお気に入りであった。
エフムが十六歳を過ぎたころ、土橋の里でウルクは既に村役として活躍していた。ウルクは祓いの力も村役としての実績もあり、次の村長候補であったが、なにしろその生意気な性格で、各里、各村の長老たちに嫌われていたため、エフムを土橋に呼んで北麓村の村長にしようとする動きがあった。
しかし、川端の里としても将来の有力な里長候補を簡単に譲るわけにはいかず、村と里の長老たちが互いをけん制しながら睨みあっていた。そうこうしているうちに数年経ち、大長老のテルイがウルクを推したので村長はあっさりとウルクに決まり、エフムは村長に就任することはなかった。
エフムには十分に村長としての力はあった。が、俺は北麓村全体を統率する器ではない、とエフム自身が思っていた。そう思わせる存在が近くにいたからであろう。その存在とは当然ウルクのことである。
(俺には俺のやり方があり、そのことに自負はある。だけどあいつは「器」が違うんだ)
エフムには、テルイがウルクを村長として推す理由がわかっていた。北麓村をただ自尊心が強い職人村としてではなく、おおらかな存在として導きたかったのだ。エフムは「頼れる存在」にとどまり、「おおらかな存在」とまではいえない。そのことはエフム自身がいちばん自覚していた。
ウルクにとってエフムは兄のような存在で、精神的にはウルクのほうがエフムに甘えていた。ウルクのような生意気な男には自分をさらけ出せる年上の存在が必要なのかもしれない。
ウルクがエフムの肩に手をおいてにやけた顔を見せると、エフムもつられて一緒ににやけてしまう。しかし、実はつられてにやけるのではなく、ウルクが近くにいるという事実が嬉しいのであった。
ウルクは長老たちに人気はなかったが同年代には人気があった。誰もがウルクの近くにいることを好み、ことばを交わせば元気になる。ウルクは、自身のその力を意識しているわけではなかったが、誰にでも公平に声をかける。ウルクは口が悪いが特定の人物を嫌うことをしなかった。いや、人に限らなかった。羽犬も牛も馬も鳥も、草も花も虫も、命ある存在すべてを「かわいい」と思っているふしがあった。そういうわけで女難も多かったが、男たちも常にウルクの近くにいたがった。
実はウルクは体力がない。そのくせ虚勢を張っていることが多い。そんなとき、癖のふりをして人の肩によりかかって休んでいるというわけだ。
(案外、力を吸い取られているのかもな)
そんなことを考えながら、エフムはついにやけてしまった。
「なんだ、エフム。意外に余裕じゃないか」
「余裕なもんか。切り札を使うしかないってとこまで来てるんだ」
「切り札って俺か」
「そのつもりで来たんだろ」
「まあな。・・・それよりも、だ」
ウルクは黙った。エフムははっとしてウルクの顔を見た。
「情報か」
「ああ」
ウルクの目がぐっと迫ってくる気がした。そのあとのウルクのことばを聞いて、エフムはわが耳を疑った。
「ガクウがいなくなった」
「え?」
エフムは眉をひそめた。
「おまえ、いま、なんだって?」
「だからさ、ガクウがいなくなったのさ」
ウルクの声はひときわ高くなった。エフムは、
「ばかっ。声が大きい」
といってウルクの首に腕をまわし、低い声で聞いた。
「まさかクニ抜けじゃあるまい? あいつに限ってそんなことをするわけがない。とすれば、呑まれた・・・」
「呑まれたってことになってる」
「なってる?」
「誰も見てないそうだ」
「じゃ、なんで」
「ガクウは突然いなくなったらしい。場所はあいつの診療所だ。で、祓い師たちがいうには、やみの気配がしたんだと」
「・・・チャルラか」
「その可能性は高いな」
「いつ」
「二日前だとさ」
「南は、誰が指揮をとっている」
「イツキだ」
「イツキで大丈夫なのか」
「問題ないんじゃない?」
ウルクはあっさりいった。
「おまえ、軽くいうなよ。・・・コウさまはご存じなのか」
「サキイさまが、コウさまに報告する必要はないと止めたそうだ」
「なんで知らせないんだ」
「さてね。心配かけまいとでも思ったんだろうさ」
「じゃあ、南のやつら、こぞって隠しているのか」
「そういうことだ。ま、どこの村でもやってることさ。だろ? だが人の口に戸はたてられない。そこで公然の秘密ってことになるわけよ」
エフムはぐっと口を閉じた。
ウルクはふふんと笑ってあごをごしごしと撫でさすった。しかし、目は笑っていない。どこか厳しい視線であった。
ウルクは頭のなかでエフムにはいえないことを考えていた。
報告する必要はない、か。うまいな。つまり、コウさまはすでにご存じだってことさ。コウさまも知らないふりを決めこんで、『医師班はガクウに従え』なんてよくもぬけぬけと伝令を出されたもんだ。長老もコウさまも嘘はついていない。まったくずるいもんだな。いったいどういうつもりなんだ?
ウルクは白々しく続けた。
「俺はガクウが呑まれたとは思っていない」
「え。でも、ガクウは能力者じゃないし、相手がチャルラだったら・・・」
「確かにガクウは能力者じゃない。だが、あいつは俺たちの能力とは別のものを持っている」
「そりゃ、ガクウは医術ではこの国の権威だ」
ウルクは首を振った。
「それとは違うんだ。なんっていうのかなあ。やみの気配だけを感じるという単純なものじゃなく、それ以外の多数の違和感を受け取り、総合的な判断をしているというのかなあ。それはもちろん医術を極めてきたから体得できたのかもしれない。単純じゃないだけに、俺たち能力者より行動が遅れるんだが」
「・・・悪いがよくわからん。が、だとしたら、なぜガクウはいなくなった」
ウルクの目が静かに開いた。
「ガクウは・・・、あいつは、うーん、わからん」
「おまえ、なにか知ってるんだろ」
「いんや」
ウルクは絶対になにか知っている、とエフムは思った。
ウルクとガクウはいまでは互いに村長として国を支える存在であるが、ふたりは幼なじみで、実はイタズラ仲間だった。ガクウはいわばウルク隊長を支える参謀といったところで、ウルクの大胆な発想力とガクウの緻密な計算で大人たちをよく困らせていた。しかし、ガクウは表に出ないので、大人たちはガクウがウルク隊の参謀だとは微塵も思っていない。同年代の子どもたちでさえガクウが仲間だと知っていたものは少なかった。
そういうこともあって、ウルクは子どもの頃からガクウの性格をよく知っている。ガクウの陰湿な影の原因もウルクは知っているのかもしれない。暗くて陰湿で扱いにくい存在のガクウを、ウルクは望んで自分の計画に組み込んだのであった。
エフムはウルクに尋ねてみた。
「中央で変な噂が立っていないだろうな」
「はは。もう噂や憶測だらけさ」
「ガンザンはガクウのこと、どういっている」
「ん? ガンザンか。あいつはなんにもいわない」
「なにか対策を立てるとか」
「ガンザンはもう中央にいる。それだけで十分だ」
ウルクはまたあいまいなことをいったが、これにもエフムは納得した。
ウルクとガクウは子どもの頃、イタズラを遂行するにあたって長老たちや大人たちを恐れることはなかった。巫女でさえ怖れを抱く存在ではなかった。ところがそんなふたりがただひとり、ガンザンだけは恐れた。ガンザンは決してふたりを叱るとか殴るとかそういう行為に及んだことはなかった。それどころか常にふたりをかばい、黙々と尻拭いをしてそのうえでふたりを許した。つまり、ガンザンはケタ外れの器の持ち主で、ふたりはそのことを子どもの頃から感じていたということだ。
ウルクはふんと鼻を鳴らした。
エフムは知っていた。いつも余裕の態度を見せるウルクが、ガンザンの話をするときにこうなる。たぶん、ガンザンを自分より上だと認めざるをえないからだろう。劣等感と敗北感。いや、そういう存在が近くにいることに対する満足感か。
ウルクは頭をガシガシとかいて笑った。
「心配するなって。中央にくればわかる。問題はたくさんあったほうがいいのさ」
「だが、そのせいで信用がなくなり、不安が蔓延する。いくらガンザンでも医術は使えないんだぞ? 皆、この豪雨で遠くから避難してきているんだ。病人や怪我人が多い上に健常者も疲労している。喰うやみひとだって出現するかもしれない。人がたくさん死ぬかもしれないんだぞ」
「さすがはエフム。中央事情をよくご存じだ」
「ばかにしやがって」
「いやいや、そうじゃない。おまえのいう通り問題は満載、絶望的状況だ。ところがな、おかげで結果は早く出た」
ウルクは冷静にいった。
「結果?」
「いま、誰が医師班を統率していると思う?」
「誰って・・・」
「エイリだ」
「え」
「おまえ、昔からエイリがお気に入りだったろ?」
お気に入りということはないが、エフムはエイリのことが常に気になっていた。ガクウの影にかくれ、いつも暗い表情をしている。美しい娘だが彼女は常になにかにおびえているようであった。
エフムには娘がいた。能力者ではなく平凡な結婚をしていまは二児の母となっている。エイリはエフムの娘よりひとつ年下である。エフムの娘とエイリは接点はなかったが、同じ年頃の娘であり、幸せな結婚をした娘と不幸な影を背負っているエイリをどうしても比較してしまう。エフムはエイリのことがどうしても気になるのだった。
彼女が小さい頃は医師としてのガクウ以上の素質を持ちながら、底抜けに明るく(その点は母方の血を引いた)、ガクウとは違った意味で未来の医師班をまとめてくれると期待されていた。ガクウは陰でなにをやっているのか不明瞭のところがある。しかし、エイリが後継になってくれれば空の国の医術を開けたものにしてくれるだろうと皆が期待していた。
ところがその期待は裏切られた。
エイリの母アキが亡くなったことが大きな要因だった。少なくともエフムはそう分析していた。
天真爛漫だったアキ。ガクウ親子はアキがいたからこそ社交性を保っていたといえる。アキがいなくなってからというものガクウはますます陰湿になり、その背後で暗く沈んだ表情のエイリがいた。すでに幼い頃のエイリの面影はなかった。
その中でイツキだけは素直に育っていった。イツキは能力者であり、祓い師として中央に通うことが多く、他村の同年代の少年たちとともに育ったという環境があったから救われたのであろう。
対照的に、研究室にこもりっきりのエイリにとってはガクウの研究という殻に閉じこもり、それはエイリ自身の研究という殻に変わった。自己を認める者は研究対象と結果でしかなかったのであろう。
そしてエイリはとうとう失踪した。その事実を知ったエフムはどこかほっとしたことを覚えている。しかし一年半ほど後、エイリはガクウの手により連れ戻された。そのときのエイリの顔がエフムの脳裏から今も離れない。聞けば、夫がやみに呑まれたという。乳飲み子を抱きかかえたエイリの顔は生きた人間とは思えないほど冷たい表情をしていた。
あれから一年が経つ。エイリは滅多に表に出て来なかった。あのエイリがいったいどんな指示をするというのだ。
ウルクはいった。
「エイリは変わったぜ。あいつ、なかなかだ。まるで・・・」
「まるで?」
「アキみたいだぜ」
ウルクはうれしそうに笑った。
(アキ・・・)
エフムは心臓が熱くなった。アキの名を聞いたからか、ウルクのうれしそうな顔を見たからか、よくわからなかった。
ウルクは続けた。
「医師班は生き生きと仕事している。それはエイリの力だ。イツキだってそうだ。イツキの素直な性格が南のやつらを救っている。あいつら姉弟はな、ガクウがいなくなったから強くなったんだ。小河原だって同じだろ? キユウさまがいなくなってルキクは苦労しているが、以前より、あいつ、いい顔してるじゃないか」
確かにそうだとエフムは思った。惨事続きの小河原が全滅しないのはルキクの働きによるものだった。もしも自分がルキクの立場だったらあそこまで動けたかどうか。
「つまりこれから先、たとえ絶望しかないような危機に陥ってもだな、まっすぐに立ち向かってさえいれば必ず希望が生まれるってことさ。いや、どうしようもない絶望に陥ったからこそ、自らの真の力を目覚めさせることができるんだろう」
ウルクは真顔だった。不気味だ、とエフムは思った。
こいつがこんなふうに力説をするということは、これからの生き方を示唆しようとするときだ。こいつはなにかを知っている。いったい、なにをいおうとしているんだ。
エフムがなにを考えているか、ウルクは敏感に感じ取った。しかし、ウルクの口は止まらなかった。こうなるとウルク自身にもとめられないことはよくわかっていた。するするとすべるように発せられることばを客観的に見るしかないのだ。少しひやひやした。すべてを暴露することだけは避けなければならない。
「なあ、エフム。それが決して簡単じゃないことはあいつらの変わりようでよーくわかってるつもりだ。そりゃ、苦しくて苦しくてたまらんのよ。でも、父親が残したとんでもなく重い荷物を抱えて前に進むと決意した。決意すべき人物が自分の意思で決意する。まわりから見ればあたりまえに思えることだけど、本人たちにとってはすさまじい覚悟なんだ。そして地位を自分の手でつかみ取る。それは他の誰かから頂くもんじゃない。もぎとるんだ。心の奥で血を流し、激しい痛みでもだえ苦しんで、その中から生まれる凄絶な決断なんだ。その決断を導くために問題が起こり、問題は多ければ多いほど結果は早く出る。それが、大いなる御方さまのお導きだ」
ウルクは自分でことばを発しているにも関わらず、
(なるほど、そうか。だからコウさまは、知らないふりを決め込んで『ガクウに従え』と指示を出されたのか)
と納得した。
ウルクにはときどきこんなことがあった。誰かに自分の考えを伝えながら、自分が発したことばにみずから感心するのである。
ウルクは歩き出した。
「ま、お互い、子を持つ親としては複雑だがな。おまえのいないとこじゃ、イサムも力を発揮するんだろうなあ」
エフムはぎくっとした。
(こいつ、もしかしてそれをいうために、こんな話をしたのか?)
ウルクはすたすたと早足で歩いた。エフムは一瞬不安になって声をかけた。
「おい、どこにいく」
「どこって決まってるだろ。おまえの従順な部下さんたちのところさ」
「嫌みなやつだ」
「まあ、後ろで黙って見てろ。自分を守ることより、他人を助けることのほうが尊いってことを、部下さんたちに教えてやるからさ」
「偉そうに」
「あれ? 俺って偉いんだよ? 北麓村の村長は俺なんだぜ」
エフムは、理由はわからなかったが嬉しくて泣きそうになった。
「そうだっけ」
エフムの声がうわずった。
「そうだよ。さ、急ぐぞ」
ウルクは走り出した。
「おう」
エフムは後に続いた。
【稲塚書記役による避難名簿より】
中央避難二日目
避難者人数(死者・行方不明者)
【卯の中刻】川端十(一)、松浦五五(十一)、泉谷四(不明)。
【辰下刻】雷山七六(七)、土橋六五(二)、泉谷二(一)。猿沢四一(八)
【午下刻】泉谷五六(十二)、川端三六(二)、瀬戸三三(十一)。
【申中刻】小河原五(十一)、葛原三五(六)、猪野口四三(八)
【酉下刻】六の瀬三五(四)、小河原三(不明)、牛飼山五六(二)、猿沢三一(四)
/【戌中刻】小河原二(不明)




