やみとの闘い
そのとき。
ゲンは、首の後ろからぞぞっと強い悪寒が差し込むのを感じた。
悪寒は足の先までいっきに通りぬけ、ゲンの毛がすべて逆立つ。思わず四つ足でつま先だち、とっさに悪寒のきた方向を見る。庭の方向から気配が襲ってくる。
「来たか!」
サクもコウも飛び跳ねるように同時に同方向を振り返ったかと思うと、ふたりは身を躍らせるようにして走りだした。
「やみが来た」ということか。
ゲンもすぐにふたりの後を追った。庭の向こうに鬱蒼とした竹林がある。
それは異様な光景だった。
これが「やみ」か。
暗く、忌まわしい、巨大な「やみ」であった。
「やみ」はゆっくりと、しかし、確実に近づいてくる。
「やみ」といっても真っ暗ではない。さながら水の中に入っているようである。全体に黒い靄がたちこめ、靄の微粒子が口々に低く、低くうなっている。
お、・・・お、・・・お、・・・お、お、お、お。
ひどく長い周波なのだろう。音として成り立っておらず、おぞけるような気が首の後ろからぞくぞくと襲ってくる。
そこにあるモノも人も、同じ形をして同じ位置にいるにも関わらず、まったくの異界に入り込んでいるのである。
凄まじい殺気を秘めた粒子。殺気はうなりとなって広がる。
おおお、おおお、おおおお、おおおお。
うなりがからだに触れ、心臓の奥から恐怖が全身にめぐり、毛穴からあふれる感覚。
そして・・・。
「やみ」の奥から形のない「なにか」がこちらをじっとうかがっている。この世のものでない、なにか。
明らかに異質の、なにか。
これが「やみひと」か。
襲われる。すぐにでも。
底知れない恐怖。
ひとたび身をすくめようものなら、たぶんいっきに来る。
これは普通の人間は耐えられるものではないだろう。仙人であるゲンでさえひどく緊張している。気力を集中させ、全身を気迫で満たし、相手を威嚇し続けなければならない。
ヤツらの気に呑まれるか、みずからの内なる力で追い祓うか。
真の生命力が試される。
サクは、左手に着けた数珠をまえに投げるようにして祈りを唱えた。
じゃら
と音がする。
「我らを創り給ひし主、空の御名において、我に力を与え給へ」
ふっ
と、息を強く吹きながら、「やみ」に飛び込んでいく。
「やみ」はひるむがまた出てくる。
お、お、おお、おお。
また祓う。
根気よく繰り返す。
コウは・・・、コウは数珠をつけていない。
右手のひとさし指を高くかかげ、祈るように天をあおいだ。
「我は空の子コウである。空の神よ。我に力を与えよ!」
一喝。
すると、コウの指先から天に光が放たれた。
いや、空から一筋の光がコウのひとさし指にむかって降りてきたのだ。それから、
ひゅううっ
と息を吐いて右手をするりとおろした。
その息は轟音とも風の音ともつかない激しい音になって、竜巻のように舞いあがり、「やみ」をまわりから消していった。
ゲンはただその威力に驚くばかりであった。力の差は歴然としていた。
コウの力は強い。比べものにならなかった。
あたり一帯の気が清浄になった。
明らかに違う。いままで夢でもみていたかのようにぱんっと音をたてて目覚める、といったようすだ。 ゲンの悪寒も嘘のように消えた。
コウは息も切らさずその場にたち、サクの行く方向を見ている。
「やみ」の気配はすでにないが、コウもサクも緊張を解かない。
「母上、どうしても行かれるのですか」
コウの問いかけに足をとめ、サクは、軽く首を後ろにひねったまま、左手から数珠を外し、ぽとりと落とした。
「コウ、あとは任せる」
その目は怖いほど強く、ゲンは少しとまどった。
さきほどの弱々しいサクとはまるで別人であった。コウの顔は、ゲンからは見えない。いったいどんな顔をしているのか。
サクは林道の奥にゆっくりと歩いていく。竹林は停々としてサクを吸い込んだ。
なにがあるというのか。ゲンにはさっぱりわからなかった。
少し距離をおいてコウも歩き出した。ゲンもコウの後ろにぴたりとつく。
「ゲン、ここからだ」
「なにが」
「場を清めればやみは近づけない。本来はな」
「それで」
「ところが最近は清浄の気において、やみが力を得たように動く」
「ほう」
コウはサクが落とした数珠に目をとめ、ゆっくりと身をかがませ、
「これから」
といって数珠をにぎりしめた。
「これから?」
コウはすっくと立ってきっぱりといった。
「激しく動く」
「なぜわかる」
「おまえが来たからだ」
コウはゲンをちらとねめつける。
(おまえが呼んだんだろうが)
ゲンはそういおうとして、突然さっきの悪寒に襲われた。
ぞわぞわっ
と毛が逆立つ。
「来るっ」
コウはぐっと足をとめる。藤色の袴がふわと前になびく。
サクは林道の奥に入り、その姿はすでに見えない。コウとサクの間で打ち合わせでも済ませていたのか。
ふたりの間には暗黙の了解が存在しているのか。
コウの瞳が林道の奥をじっとにらむ。
その奥の奥からかすかな地響きが確実な恐怖の音をなしてきた。
「ゲン、手を出すな。私の闘いだ」
コウはまえを向いて集中したまま短くいい放つ。
お、お。おお、おお。
おおお、おおお、おおおお、おおおお。
膨大な量の霧粒子のうなり声。
ずずずず、ずずずずず
と音が続き、近づく、近づく、近づく。
ぐおおん
と、衝撃が響いてきた。
強い風が吹き荒れ、木々がしなる。
同時に狂ったような「やみ」が四方八方からうねりながら、コウに向かって飛び込んできた。
さきほどの「やみ」とは比べものにならないほどの威力である。形のないなにかどころではない。完全に人をかたどった「やみひと」が背後に無数に、いる。
コウは今度は両手を合わせ、両の指先を額にあてた。天をあおぎ、目をつむり、祈りを唱える。さきほどとは格が違う。
「我は光なり! 空の神よ! 我に浄化の力を与えよ!」
天から、ごうと音を立てて大量の光の筋が流れ落ちてくる。こちらもさきほどとは比べものにならない。
コウは天にむけた両の掌で光をぐんっと受けとめ、
「はああああああっ」
という叫び声とともに、叩き落とすように手をおろした。
襲ってきた「やみ」は一瞬一撃で消滅した。が、息をつくまもなく、また膨大な「やみ」の襲撃がくる。「やみ」はまるで解き放たれた猛獣のように、嬉々としてコウに襲いかかる。
互いに怒濤のような攻防である。
コウは「やみ」の襲撃を避けて、後ろに飛び下がりながら両手を額にあて、祈る。天から降りてきた光の筋たちが両の掌の上で、
ぐるん
とあふれた。勢いそのまま地上に叩き落とす。
しかし、みずからの力の勢いが激しく、コウの小さなからだは踏みとどまることができずにうしろにふっとんだ。
ゲンはとっさにかけて背中でコウのからだを受けとめた。
ぎゃっ
という悲鳴が聞こえる。
コウが地面にころがった。脳しんとうをおこしたのか起き上がらない。
都合、「やみ」の襲撃にゲンが対峙した。
四方から来る、うねるような「やみ」。
ゲンは突如激しい怒りを覚えた。
(心臓が高鳴りすぎて気を失いそうだ)
からだの奥からぶるぶると震えがこみあげる。極度の緊張がへその奥からからだを貫いた。
ごおおおおおおうううう
と怒号のような吠え声となり、天に昇った。抑制されていた感情が爆発し、理性が吹き飛んだ。
ゲンはその瞬間、たまらない感動を覚えた。
祓うとか祓わないとか、そういうのはわからないが、この膨大な「やみ」に負ける気がしない。
(こいつらはオレの獲物だ)
からだじゅうの毛という毛が逆立ち、白い光が出た。いや、出たのではなく空からどかんと受けたという感覚だった。
ぱぱぱぱあーん
と音がしてそこらじゅうに光が放たれ、一面真っ白な閃光が広がる。
(なんて哀しい光だろう)
直後、一瞬気を失った。
はっと気づくと、「やみ」が一散し、光の粉が降っていた。あたりは清浄に戻り、
(光の粒子が美しい)
とぼんやりと思った。
(これがオレのしたことか。これが、このからだの力)
「ゲン、まだだ! 下!」
突然、コウの叫ぶ声がして我に返った。
カ、カカカ、カリカリカリカリ・・・。
足に底知れない未知の振動が伝わる。見ると林道の奥からものすごいはやさで、まるで地割れを起こしたように「やみ」が襲ってくる。
ところが「やみ」はゲンを避けながら進み、コウを狙っている。
(オレのからだから出ている光が嫌なのか?)
ゲンはからだをひるがえしてコウの前にたちはだかり、コウを尻尾で包んで背中に乗せた。
コウはからだの均衡を崩したらしく、必死でゲンの毛をつかみ、蛙のようにぶらさがり、苦しそうな声をあげた。
「ゲン、飛べ」
「飛べ?」
「そうだ」
「飛び方を知らん」
「飛ぼうと思えば飛べる」
「なんだと」
「なんでもいいから飛べ!」
「ええいっ。オレのからだ、飛べい!」
そう自分に強く命令しておもいっきり飛び上がった。
びゅうううっ
と空に引き上げられ、とんでもなく上に飛んだ。
「わあああっ」
コウがぶらさがったまま目をまわしている。
「うわっ。いかん」
今度は思い切って動きをとめると、コウが空中にぽーんっと放り出された。
「うああっ」
コウは叫びながら弧を描いて地に落ちていく。ゲンは全速力でコウを追いかける。
地上から「やみ」がコウを狙ってくる。
コウは落ちながらも器用にいくつかの「やみ」を祓っていた。
ゲンはすばやくコウの下に入り込みコウをすくいあげて空中に浮遊した。「やみ」はゲンの光をよけながらコウを狙ってくる。
おおお、おおお、おおおお、おおおお。
「ゲン、上へ、早く! やみは空には近づけない」
「だめだ。サクがまだ林の奥にいる」
「いいんだ。母上は、わかっておられる」
「いかん! サクを助けないと」
「いいから上だ! この高さではやみに呑まれる!」
コウを狙って「やみ」がうねってくる。オレは、再び怒りを覚えた。
「こんちくしょうが!」
そういったつもりだったがただの吠え声であった。すると空から
どどおんっ
と光が落ちてくる。
「ぐおっ」
極度の興奮で気が遠くなる。怒りを全開し、そこにとてつもない哀しみが入り乱れる。うしろ足で「やみ」を蹴りあげ、前足を大きく泳がせ、尻尾を激しく振って高く飛び上がった。
どおん
光が強く放たれ、「やみ」は消滅した。
ゲンはコウを背中に乗せ、高く上がったまましばらく浮遊していた。
下の景色をやっと落ち着いて見ることができる。サクとコウの家はすでに「やみ」に呑まれたあとであった。
「どうする。やみを追うか」
「いや、行くところがある」
コウはぶつぶつと祈りらしきことばを口にし、ふうっとひとつ息をつく。
しばらくして乾いた声をだした。
「誘導する」




