「浄」の札の力
昨夜の被害状況をゲンが知ったのは、その日の夕方であった。
コウシは短くあいさつを済ませたあと、淡々と報告をはじめた。
「西では三人、羽犬はなし。南が四人と羽犬・・・十頭」
「十頭! 蒲生で二頭呑まれたが、そのほかに八頭もか?」
「はい」
「いったいどこで」
「牛飼山で被害に遭っております」
「牛飼山の羽犬たちは各村に手渡したのではなかったか」
「はい。ですが、十数頭が残っておりまして・・・」
「逃げきれなかったのか」
「段取りの通り進めばよかったのですが、なにかもめごとがあったらしく、羽犬を動かすことが遅れて、それで世話をしていたものもふたり、同時に」
「呑まれ方は」
「例の・・・」
(くそっ。やっぱりあいつか)
ゲンはやみを察知することはできるが、ジャクルたちのように距離を置いたところから中身まで察知する能力がない。いくつか感じた小さなやみ、その中のひとつでしか感じられなかった。ゲンのか感覚からすればかなり小さかった。
(だとすればやみの力ではなく、あいつの力が強くなっているということだ)
「ゲンさま、いかがなさいましたか?」
「あ、いや、なんでもない。続けてくれ」
「はい。それから浜で五人、羽犬なし。北では羽犬が三頭ですが、人が九人の被害でございます」
「九人!」
「はい」
「どこだ」
「小河原でございます」
「しかし、被害は三人と三頭だと」
「はい。後でわかったことですが、誘導役の指示に従わずこっそり群れから離れたものがいたらしく・・・」
ゲンはがっくりとうなだれた。
(コウはなにやってんだ。いや、オレだ。オレはいったい、なにやってんだ)
コウシはゲンのようすを窺い、落ち着いた声を出した。
「ゲンさま、もしやご自分の責任だとお考えでしょうか」
「・・・」
「だとしたら、そうではございません。ゲンさまはご存じないと思いますが、昨夜の被害者の数は珍しいことではございません。特に最近のやみの力から考えればよくもこれだけに抑えられたものです。しかも一昨日、あれほどの巨大なやみを目の前にして、北と西でまったく被害がなかったことが奇跡でございます。そして昨日、たくさんの人々がゲンさまに助けられたではありませんか。皆、ゲンさまに感謝いたしております」
「しかし、犬が淵では」
「確かに得体の知れないやみに呑まれましたが、私たちは十数年まえから考えられないやみの出現を嫌というほど体験してきました。それでもサクさまのお智慧とコウさまのお力で被害を最小限に食い止めてまいりました。そして常に希望を持って生きております。さらにゲンさまにおいでいただいてからというもの、私たち自身にも力が授かったように思います。ゲンさまは私たちの希望です。どうかお気を落とさないでくださいませ」
(世間知らずの大人が、子どもからなだめられているようだな)
ゲンはおかしくなった。確かにゲンはこの国では「世間知らず」の部類であった。
コウシのことばに嘘はないだろう。しかし連日のやみの出現で人々は疲れていることをゲンは感じている。巨大なやみ。出現の範囲の広さ。得体の知れない呑み込み。自家を離れての避難生活。昔から蔑んでいるモトン族の指示に従うという、耐えがたい屈辱。
しかし、そういう状況において希望を捨てない者が、たとえひとりであったとしてもここにいる。そうである以上、ゲン自身、悲観ばかりしていられないと悟った。
ゲンはコウシのことばがありがたく、
「コウシ、世話をかけるな」
というと、ゲンのからだから光が出てコウシをつつんだ。ゲン自身もびっくりしたが、コウシはもっと驚いて「あっ」と声を上げたあと、うやうやしく礼をとった。
「ゲンさま、御心遣い痛み入ります」
「あ、いや。そういうわけではないのだが。えーと、そろそろ出るか」
ゲンは照れ隠しにさっと立ち上がった。コウシはくすくすと笑い、思い出したように懐からお札を出した。
「それに、・・・これはゲンさまの力が籠められているとうかがいました」
コウシの手には「浄」の文字が書かれた真新しいお札があった。コウシは両手でお札を押しいただくように持ち、頭を垂れた。
「国の者たちはみな、ゲンさまから希望をいただいたのです」
ゲンは複雑な気持ちになった。
(やみひとを殺す力。それが人々に希望を与えている)
返事に窮していると、コウシはお札を大事そうに首かけて左手でぎゅっと握りしめた。
「では私も担当の地区に出向きます。ゲンさまのおそばにつくことができないのは誠に残念ですが、ここで失礼いたします」
「そうか。十分に気をつけろよ」
「はい。ありがとうございます」
コウシはさっと立ち上がり、しなやかに向きを変えた。胸板が厚く、胴回りが引き締まり、たくましく肉づいた両腕をあまり動かすことなく、たったったっと力強く歩いていく。
失敗があろうと絶望的な状況だろうと、若者は後ろを振り返らない。なぜ前に進むのか意味もわからないまま、前に進むいいわけさえ考えながら前に進む。進むことしか考えられないのだ。これが生命力というものなのだろう。
(オレが希望なんじゃない。おまえ自身が希望の塊なんだ)
ゲンは、そう声をかけたかった。
今夜は「小者ばかり各所に出る」と誘導役はいう。
ゲンがこの国に来てからやみは空人の動きを読むようになった、とコウをはじめ各村各里の祓い師たちが口々にいう。その理由はわからないが、今夜の誘導役のことばを聞いたとき、ゲンにはうすら恐ろしい感じがした。
(それだけコウの指示に従わず勝手な行動をしているやつが多いということだ)
ゲンの持ちまわりは浜と北。ゲンはまず浜に向かった。
浜の中枢の松浦、瀬戸、六の瀬、そして北の小河原、泉谷、川端、土橋とまわる。
ゲンが松浦に到着すると、ギルとウルクが出迎えた。極端に緊張した気が流れている。数日前の松浦の明るい雰囲気はかげもない。庭に出ている人は少なく、それぞれに首や胸、腰のあたりに真新しいお札をつけていた。今朝作成したあの札。「浄」と彫られた字がまだ真新しくみずみずしい艶を見せていた。
(どれだけの効果があるのか)
ゲンには予想もつかない。
その夜はコウもゲンも、そして各村役、里役、誘導役とも息もつけぬほど忙しく駆け回った。
誘導役は声を枯らして抵抗する人々をまとめ、安全な場所に誘導する。が、隊から抜ける者が後を絶たなかった。
祓い師たちはやみを感知し、祓っては移動し、移動しては祓う。怖がる人々を励まし、勝手な行動をしている人々を叱咤し、他の祓い師との連携もままならない。
出現したやみは確かに小者ばかりだった。にもかかわらず、いや、だからこそ人々はパニックに陥った。
助かる者も多数いた。が、呑まれる者も多数に及んだ。
喜怒哀楽が激しく入り乱れ、それはまるでお祭り騒ぎでもしているかのような一種の興奮状態であった。
明暗どちらに転ぶか、カギは「浄」と刻印された札であった。
東浜村の松浦から瀬戸への海岸線に沿って、二里ほど連なる見事な松原がある。
人工である。ここは「サイの松原」と呼ばれていた。
二百年ほど前、当時の巫女「サイ」が植林を計画した。東浜村のわずかな農地と人々の住まいを潮風や飛散する砂から守るためでもあったが、主な目的はやみの出現を抑えるためであった。
海底は山奥と同様にやみひとの棲みかである。海から出現するやみの被害はまず東浜村の人々が受けることとなる。常に風が強く吹く時期、時間であればやみの出現も少なかった。風が不浄な気を祓ってくれる。しかし授かり岩のように風は常に吹き続けるわけではない。東浜村は海に面しているという地理的に不利な条件で、常にやみひとの存在におびえながらの生活を余儀なくされていた。
やみは人工の林や畑では出現が少ない。そこで巫女サイが人工の松林を造ることを決めたのであった。サイの松原ができてからというもの、東浜の人々の呑み込みは確実に減っていった。
しかしすべての家が松原の内側に位置するわけではない。松原の外側、つまり海に面した浜辺近くに住む人々も少なくない。その者たちはほとんどが貧しかった。
夜の松原は、はたから見れば恐ろしいほどまっ黒で、その中に入っていくなどよほどの事情がなければ思い立たない。そこにいま、まさに入ろうとする者たちがいた。小さな子どもがふたりである。
ふたりはぶつぶつと呪文のようなものを唱えながら、暗闇を探るようにして入っていった。それでも松林の中に入ってみると、空の星や、ずいぶん薄くなった月の光に透かされて、一本一本の見事な枝ぶりがうっすらと見えてくる。
潮の音が、ざざあ、ざざあ、と聞こえ続けている。時折、ほう、ほほう、とフクロウの声が上から降ってくる。そのたびごとにふたりは、びくつきながら上のほうを見上げるがもとより姿は見えない。
二人は幼い姉弟であった。姉はキイナ、十歳。弟はタクル、九歳。ふたりぽっちで瀬戸の浜辺にある粗末な小屋に住んでいた。父はもとからいなかった。いつも笑っていた母は、三年前にやみに呑まれた。
母がいなくなってから、姉弟は漁師がとりこぼす魚を拾って逃げるという、猫のような生活をしていた。姉弟はモトン族の血が濃く、特に弟のタクはやみの察知能力が優れていたため、いままでかろうじて生き延びてきた。
ふたりは瀬戸の避難所を抜け出して、自分たちの小屋に帰ろうとしていたのであった。
ずんずんと歩く姉の袖をひきずるようにして、弟は不安げな瞳を見せた。
「ねえちゃん、やっぱり戻ろうよ」
「なに怖がってるのよ」
「だって」
「やみの気配はしないんでしょ?」
「そうだけど」
「大丈夫よ。今日習った呪文、覚えたから。あんたは?」
「ううん、まだ」
「じゃ、後で教える」
「ぼく、覚えられるかな」
「覚えられるよ」
「う、うん」
「モモのためじゃん」
モモとは、ふたりが一緒に暮らしている白猫の名前である。「飼っている」のではなかった。漁師が取りこぼす魚をいかにすばやく拾っていかに巧みに逃げるかを教えてくれた、いわば師匠であった。
四日前の夕方、里役たちがひったくるようにしてふたりを捕まえて避難所に連れて行き、翌朝になるとふたりは放り出されるようにして小屋に返された。今日まで同じような生活が続いた。瀬戸の里には祓い師や里役が多く、キイナたちのような危険な浜に住んでいる貧しい者たちを避難所へ連れてくる、といった丁寧な仕事ができた。
だが今夜からは少々事情が変わった。瀬戸の祓い師を五名ばかり、六の瀬の里に派遣することが決まったからである。
東浜村の四つの里のうち、日出浦はもとよりモトン族の里なので祓い師はいない。その他三つの里のうち松浦、瀬戸については昔は祓い師が少なかったが、サイの松原がつくられて以降、巫女サイに対する信頼感が生まれた。その信頼は空の神への信仰とつながり、熱心に祓いを学ぶようになり、多くの祓い師を養成することに力を注ぎはじめた。だがもう一つの里、六の瀬にはサイの松原は及ばず、松浦と瀬戸に芽生えたような巫女サイに対する信頼もとうぜんなく、空の神への信仰心も薄いままである。したがって祓い師も少なく、配給される祓い具さえも身に着ける者は多くない。そういう事情があって、六の瀬には瀬戸や松浦から祓い師や里役が応援に行くことがしばしばであった。
ともあれ、今夜からキイナとタクルを松原の浜に連れ帰る里役が留守なので、ふたりはしばらく避難所に住むことになった。貧しく危険な浜辺暮らしから解放され、安全でただ飯が食える避難所にいてもいいのだから、ふたりにとって夢のような生活だった。魚を拾って逃げる必要もなく、ただじっとしていればおいしいご飯が食べられた。あまりに汚い恰好をしているのでまわりから疎まれ、部屋に入れてもらえず廊下で寝る毎日だったが、それでも雨や風が入ってこない大きな家の中でゆっくりと眠ることができた。
しかし、キイナとタクルには困った問題がひとつあった。浜辺の小屋に大切な家族が残されているのである。猫のモモは避難所に入れてもらえなかった。避難所に入れるのは人間と羽犬だけ。ふたりはモモにも安全な場所でおいしいご飯を食べさせてあげたかった。一昨日、キイナがこっそり懐にモモを隠していたが、里役にばれてしまい、モモだけ小屋に置いていかねばならなかった。
昼間に行き来すると目立つので、今夜のうちにモモを避難所に連れてこよう、という計画を立て、姉弟は実行に及んだ。キイナはやる気満々で元気に歩いていたが、タクルは足取りも重く顔色が冴えない。タクルは嫌な予感がしていた。
「・・・ねえちゃん」
「もー。あんた戻りなさい。私だけで行くから」
「えー、でも・・・」
「行くの? 行かないの? どっち?」
「僕も行くよ。行くけど・・・」
「じゃ、行くよ! ぐじぐじ言わない!」
姉は弟の手をぐっと握ってぐいぐいと引っ張っていく。
「ねえちゃん、だってウイギルさんたちがいってたじゃん。避難所から離れちゃだめだって。コウさまは誘導役の指示に従えって言ってたって」
「そのウイギルさんが『瀬戸の浜辺』にやみが出るっていったのよ。『松原』に出るっていってない」
「でも出ないっていったわけじゃないよ」
キイナは少し黙って考えた。タクルのいっていることは正しい。確かに「出ない」とはいわなかった。しかしキイナは引き返すことは考えられなかった。キイナ問題をすりかえた。
「なんのためにこれをもらったと思う?」
キイナ真新しいお札を胸元から引っ張り出した。今日の夕方、祓い師から配られた「浄」の刻印がなされたお札。キイナはきらきらと目を輝かせた。
「そりゃあ・・・」
「モモを助けるためにもらったのよっ」
タクルは口をとがらせて
「えー、ウソだあ」
とはいったが、そうかもしれないと思った。
爬虫がプンプンと音を立てて顔のまわりをたかる。松林の中を縫うようにしてふたりはこそこそと歩いた。見まわりの祓い師を避けて、松の木の陰に隠れながら遠まわりをして歩いたため、方角がわからなくなってしまった。おまけに重く茂る松林で月が見えない位置にいた。
「おかしいな。お昼だったらすぐに行けるのに」
「ねえちゃん、やっぱリ戻ろうよ」
「もー。またそれ」
そういう会話を何度か繰り返しながら、姉弟は根気よく歩いた。時折鳴くフクロウの声にももう慣れた。さんざん歩いて足の感覚が麻痺してきた。あきらめて避難所に戻ろうにも、もう避難所の方向さえわからない。キイナは当初の元気がなくなってきた。さっきまでぶつぶつと唱えていた呪文さえ口から出なくなっている。
そのときタクルが叫んだ。
「あ! あの松の木、ほら、あの曲がった枝! ねえちゃん、見える?」
「ほんとだ! スンリさんとこの松だ。あそこから浜辺に出るはずよ」
ふたりは曲がった枝に向かって駆け出した。薄い月に照らされた海のきらめきが松の間からすこしずつ目に入る。ふたりは疲れをひきずりながら走った。すると、ぱあっと視界が開けてようやく真っ暗な松林から解放され、見慣れた浜辺に出ると倒れかけた小屋が見えてきた。
「あ、モモ!」
モモは白いからだを躍らせるようにして、姉弟に寄り添った。無性に懐かしくうれしく、いままでの苦労が報われたと思った。タクルはやさしくモモを抱いた。猫はしばらくにゃあにゃあと鳴いて甘えていた。が、突然声を出さなくなり、ぶるぶると震え出した。
「はっ」
タクルはすくっと立った。それからゆっくりと姉の手を握った。キイナはどうしたのかとタクルの顔を見ようとしたとき、タクルは小さく叫んだ。
「ねえちゃん、走るよっ」
「え」
「早く! 裏口から出て松林のほうに走るからっ」
「わかった! モモ、こっちおいで」
キイナはタクルの腕からモモを取りあげ、自分の懐にいれた。モモはぐるんとキイナの胸の内に入った。ふたりはしっかりと手をつないだまま、小屋の裏からすばやく左手に飛び出し、松林に駆け込んだ。
フクロウの声が聞こえない。あれだけまとわりついていた爬虫さえいなかった。松の木たちがざわざわと音を立てた。大きなおばけに見えた。しかし背後からはおばけよりこわい「やみ」が襲ってくる。ふたりはおばけの間を駆け抜け、また駆け抜け、夢中で走り続けた。キイナもタクルも生きた心地がしなかった。背中からびりびりと寒気が襲ってくる。
(来る来る来る来るっ)
いいようのない恐怖が背中に迫ってくる。
ぶうわん!
と、突風が吹いた。キイナは「きゃっ」と声を上げてしゃがみこみ、タクルはその背中を抱くようにして沈んだ。ふたりは石にでもなったように首さえ動かせない。ゆっくりと振り向き、息を殺し、暗闇に目だけをぎょろつかせた。
風が止まった。
静かに忍び寄る音を感じる。
ず、ず、ず。
息苦しい時がしばらく続く。キイナ懐でモモはぶるぶると震えている。
ず、ず、ず、ず。
お、お、お、お、お
(来た)
ふたりは同時に真新しいお守りをぎゅっと握りしめた。キイナは震えながらいった。
「タ、タクル、・・・お守りの・・・表を向けて」
タクルは声が出ない。ただうなずく。
「私の・・・いう通りに・・・唱えて」
口の中が異様に乾いている。キイナは唾を飲みこみ飲みこみ、必死で言い終えた。タクルはこくり、とうなずく。歯の根があわない。キイナは震える手で真新しいお札の表に書かれた「浄」という文字をぐぐっと前に押し出した。タクルも同じようにお札を差し出した。
キイナが唱える。
「ゲンライクウジョウコウ」
タクルも唱え出した。
「ゲンライクウジョウコウ」
「ゲンライクウジョウコウ」
姉弟は目をぎゅっと瞑ってただ唱え続けた。
次第に声が大きく太くなる。ふたりの声が大きくなったのではなかった。まるで後ろに大人の男性が数十人いて背中から響くようであった。経典でも読んでいるような調子に乗ってふたりは唱え続けた。自分たちの声ではない、大ぜいの声が後ろから聞こえてくる気がしたが、それさえ怖くて振り返ることができない。ただ、背中を押されるようなその声が温かいことが救いだった。
「ゲンライクウジョウコウ!」
「ゲンライクウジョウコウ!」
やみひとがぐっと身を乗り出すようにして小さな姉弟を見据えた。
そのとき、札の表面からひとすじの光がゆるゆると出た。ふたりはその光を驚きの目で見つめたが声はやまなかった。ふたりの口が勝手に唱えているようだった。ゆるゆるとした光に勇気づけられて声が高鳴る。
姉弟は申し合わせたように小さな手を高くあげ、上からのぞいてくるやみひとに向けて高く唱えた。
背中が熱い。
「ゲンライクウジョウコウ!」
声に押し出されるようにして光がすっと飛び出し、やみひとに当たった。
次の瞬間やみひとは消えた。
辺りはろうそくの火をともしたかのようなか弱い光で一瞬照らし出されたが、その後すうっとやみに消え、線香花火のように消えたかと思うとはらはらと光の粉が散った。
姉弟はしばらくぼうっとしていたが、キイナの懐から、にゃあとかぼそい声がしてはっと我に返った。
と、ふたりの背後がにわかに明るくなった。
タクルはさっと後ろを振り返った。しかし大人の男なんてどこにもいなかった。
そこに立っていたのは大きな白い獣であった。
ゲンは奇妙な光景を見た。
遠くからほのかな光が見えた。
小さな子どもがふたり、腰を抜かして座り込んでいた。ふたりの背中がぼんやりと光っていたのであった。子どもたちはお札をしっかりと握りしめ、前方に掲げていた。なにやら叫んでいる。前方にはやみひとがいてふたりを狙っていた。
ゲンは急いで駆け付けようとすると、そのお札からすうっと光が出始めた。初めはゆるゆるとしていたが、子どもの背中の光がするするっと前に飛び出してお札を包んだかと思うと、しゅっとやみひとに命中した。まるで吹き矢のようなその光、ひとすじでやみひとはすっと消えた。
光は小さかったが確実な一撃である。ふたりの子どもは新しいお札を掲げたまま、目を瞑って固まっている。そこにゲンが到着した。
やみの気配はしない。子どもたちは座り込んでいる。ゲンの姿を見てふたりはしばらく声も出ないようすだった。女の子の懐から白い猫が顔を出し、ゲンを見つけると全身の毛を逆立て、ふーっと威嚇した。すると、女の子が気がついたようにわんわんと泣き出し、つられて男の子もわんわんと泣きだした。
ゲンは瀬戸の避難所に降りようとしていた。背中にはふたりの子どもと猫を乗せている。はじめて来た場所である。里長と長老の顔は見知っていたが、その者たちの姿は見えない。
場は騒然としていた。
つかみ合っている男たち、そばで顔を覆って泣いている女たち。古く大きな建物の近くで座り込んで震えている子どもたち。
(混乱しているとは思っていたが、ここまでとは!)
ゲンはやり場のない怒りを覚え、
「おまえら! 落ち着け!」
と叫ぶつもりが、
おおおおうううう
という吠え声となってしまった。おまけに思い切り、
ずしーん
と地響きを鳴らして地に降り立った。
怒号と地響きを一斉に浴びた人々は声もあげることができず、ただ動きを止めたまま、目と口を大きく開けて見入っていた。
いきなり現れた白く大きな獣。しかも鋭い目つきで射殺されそうである。
すると、背中から小さな子どもがふたり、そろそろと怖じけた顔を見せた。ひとりの子どもの胸元から白猫がひょっと顔を覗かせ「にゃあ」と鳴いた。ただでさえ思いがけない景観なのに、ふつりあいな存在の登場で人々はますます状況がわからなくなった。
「誰か。この子らを」
低く穏やかな声が聞こえた。ひとりの女性があわてて近寄り、子どもたちを抱きとり、逃げるようにして屋敷の中に連れていった。ふたりは女性に手を引かれながら振り返り、ゆるゆるとゲンに手を振った。
屋敷の中にいた人々がどやどやと出てゲンを遠巻きにとりまき、口々に「わあ」とか「おお」とかため息交じりの声をあげた。
「ゲンさまだ!」
「助けに来て下さった」
「ああ・・・、良かった」
そこにひとりの青年が走り寄ってきた。
「ゲンさま! 子どもたちをお助けいただき、ありがとうございます。私、里長のカイムと申します」
「挨拶はあとだ。これはどうしたことだ」
ゲンは気が焦っていた。ふたりの子どもに会うまでも、やみの気配を頼りに飛び、やみに襲われそうになっているものを見つけては助けてきた。ほかにも散り散りになっている人々がいるはずである。
「はっ。恐れ入ります。じ、実は・・・」
カイムはときどきどもりながら状況を説明した。浅黒い肌の青年であるが、目の下に隈をつくり、浅黒い肌の上からもはっきりと疲れが見える。
カイムの報告によると、ここ瀬戸の避難所でふた時ほど前に小者ではあるがやみが出現した。出現することは誘導役からあらかじめ聞いていたことであり、祓い師でなくても祓うことができる程度で、ここから逃げ出す必要はなかった。しかし、混乱したものが数人いて避難所を飛び出していった。その行動に端を発し、避難所の統制がとれなくなってしまった。そこで祓い師たちは手分けをして群れから離れた者たちを助けに出た。
それからほどなくして小者のやみひとがまた避難所に現れた。その際、襲われた者の提げていた新しいお札の力が発揮された。だが、人々がお札の力を見てしまったことがいけなかった。お札の力を過信し、誘導役の指示に従わず、多くの者が避難所から出て行ったというのだ。お札の力が人々の勝手な行動に拍車をかけたという皮肉な結果になった。
何人かはここから自家に帰ろうとして、ゲンが出会った姉弟のように途中でやみひとに出遭い、ほうほうのていで避難所に戻ってきたものもいる。また、お札を持っていたが気が動転して教えられたとおりに使うことができず、呑まれそうになったところを祓い師や誘導役に助けられ、戻ってきた者もいた。その者たちの恐怖の表情を見てここにいる者たちはさらに動揺した。混乱した場を落ち着かせようにも、ほとんどの祓い師や里役は逃げ出した者たちを探しまわっていて戻ってこないという。
「外れたものはどのあたりにいるか、見当はつくか」
「はっ。こ、ここから三里ほど六の瀬の方向にいくと『岩内』という小さな集落がございます。海から少し外れて、小川が流れ、狭い田畑が並んでおります。そ、そこの者たちが五名ほど、姿が見当たりません。岩内にやみが出現すると誘導役は申しました。おそらく自家のことが気になって向かっているものと思われます」
「他は」
「そこの小山の裏、海側の人家など、近場でございます。・・・そこは祓い師が向かっておりまして、間に合っているわけではないのですが・・・」
「いちばん遠いのが岩内か。すぐに向かう。カイム、あとを頼む」
「はっ」
カイムはあわてて礼をとった。
ゲンはすぐに飛び立ったが滞空したまま止まった。人々がゲンを見るために集まっている。ゲンはしばらく思案していたが、すうっと息を吸い込み、目を瞑った。そして音にならない声を上げた。
――よいか。皆の者。
声は耳からは聞こえなかった。ぐわん、と頭蓋骨の中で響いているようだった。また、心臓にどきんと響いた者もいれば、背中から聞こえてくるように感じた者もいた。しかし、誰が語りかけているのかははっきりとわかった。空に悠々と滞空している、あの白狼犬である。
白狼犬は、その神々しいからだをぼんやりと光らせたかと思うと、まぶたをゆっくりと開けた。静かな静かな目であった。
声は厳かに響いた。
―――心を落ち着かせよ。コウのことばを思い出せ。
ことばは人々の心の中に響き続けた。屋敷も木々も微動だにせず、庭の中央に焚かれている火さえじっと聞き耳を立てているように見えた。
―――こだわりを捨て、コウに命を預けよ。さすれば必ずおまえたちは救われる。
人々にはゲンのことばが轟くような音を立てて空から放たれているように思えた。そして、はらはらと降り注ぐ光とともにゆっくりと人々のからだに降りてくるようであった。
人々はゲンの姿に見入った。
ゲンは白い光を放ちながら飛び去った。
人々は一斉に術を解かれたように我に返った。庭の焚火は再びぐらっと揺れ、ざざっと木々が揺れた。
ゲンは速度を最大限にあげ、一心に飛んだ。が、一瞬、頭がくらくらして、ぐん、と高度が下がった。
(念話が堪えたか)
欲を出して瀬戸の里全土に存在する人々の心に届くよう、広範囲にわたって呼びかけた。
さきほどの念話は昨日の羽犬相手の念話とは性質が違う。早く確実に結果が出る方法ではあるが、簡単に使うことは許されていない。念話の送り手、受け手ともに体力を消耗し、気を失うものさえいる。また、伝え方を間違うと全体の軌道がずれ、修正するのに時間がかかるという欠点がある。
ゲンは、こんなに早く使うとはと一方で反省もしたが、もう後先考えている暇はなかった。
(事態は思ったよりひどい)
薄い月と無数の星々が狭い畑を照らしていた。
小川のほとりにいびつな形を保ちながら、やせた畑が狭苦しく点在していた。小さな畔を数人の男女が立ち止まり、空を見上げていた。松明の灯だけがゆらゆらと揺れていた。
「おい、いま・・・」
「おまえも聞こえたか」
「あれ、いったい・・・」
「もしかして、お空さま・・・」
「え・・・、そんなはずないだろ」
ごくりと唾を飲んで目を左右に揺らしているものもいれば、真っ青な顔で下を向いているものもいる。皆、自分たちの行動が間違っていたのではないかと思ったが、そのことをいい出すことはできなかった。男性が三人と女性がふたり、不安に駆られて互いの顔を見あっていた。
一番前を歩いていた男が声を上げた。
「とにかく、もうすぐだ。先を急ごう」
「あ、ああ」
ひとりの女性が立ち止まったまま、動かない。
「おい、シマイ、なにやってんだ。行くぞ」
シマイと呼ばれた女性は青い顔をしている。
「あたしは・・・、行かない」
「なにをいまさら」
「そうよ。こんなところで止まっても」
シマイは首を振った。
「だって、さっきお空さまが」
「だから、気のせいだって」
こぶしをわなわなとふるわせてシマイは低い声でいった
「違う! さっきの声はお空さまよ。あたしたちが間違っているって教えてくださったんだ」
そのことばで全員がびくっとした。が、ひとりの青年がその女性をきっと睨んだ。
「俺たちの村が呑まれるかもしれないんだ。大切な家財を持ち出すのが、どうして間違っているんだ。当然のことだろ」
「だってコウさまは、誘導役の指示に従うようにおっしゃった」
「誘導役ってあのうみんとたちじゃないか。あんなやつらに従えるか」
「そ、そうよね・・・。うみんとなんかにいわれなくたって・・・、ねえ?」
「だめよ! コウさまはこだわりを捨てなさいっておっしゃった! いま、お空さまもそうおっしゃったじゃない!」
「なにいってんだ。お空さまのわけないだろ。だいたいお空さまって本当にいるのか? いるんだったら、俺たちこんなに苦しい目に遭ってるのに、なんで助けてくれないんだ」
「そうだよな、おかしいよな・・・」
「そうさ。俺たちはもう自分で自分の身を守らないと、誰も助けてくれないんだ。コウさまだってここの里に来てくださらないじゃないか」
「でも、今日はゲンさまが来てくださるって里長がいってたじゃない」
「ふん。ゲンさま、ゲンさまって、よくいうよ。一度だって助けてくれたかよ」
「そうだな。確かに助けてくれたことはないな」
「そうよね。もしかしたら、みんなおかしくなってるのかもね」
「ああ、そうだよ。みんなどうかしてるんだ」
異議を唱えていたシマイは黙ってしまった。
男たちは歩き出した。
「ほら、行くぞ。おまえだって大事なものがあるっていってただろ」
シマイはやはり動けない。
「だめ! 行っちゃだめよ。あたしたちは間違ってる。このままではみんな呑まれてしまう」
男たちは笑い出した。
「おじけたか。あんなに息巻いてたのにな。やっぱり女は女でしかないな」
「私は女だけどちゃんと行くよっ。おじけてなんかないからねっ」
「わかってるよ。シマイ、おまえも来いよ。大丈夫だって」
「ううん。あたしは行かない。みんな、やめようよ。絶対あぶないって」
「おまえ、家が呑まれてもいいのか」
四人はさくさくと歩いていった。
ひとり残されたシマイはただ祈るしかなかった。
(ああ、お空さま。あたしたちは間違っていました。ごめんなさい、ごめんなさい。お願いですから、あたしたちをお助け下さい)
小川のほとりが見えてきた。里芋の大きな葉が下弦の薄い月光を受けて揺れている。だが音がしない。不気味な気配を醸し出していることが四人にもわかった。
「ちょ、ちょっと、なんかおかしいわよ」
「あ、ああ。あそこの木、俺んちのだけど、・・・形は変わってないぜ」
「ばかっ。形じゃない! 空気が違うだろうがっ」
「くそっ。やっぱり、ここはもう・・・」
自分たちの集落に戻ることができないことをはっきりと認識した。そしてこのままだと呑まれてしまうことも。
(来てはいけなかったんだ)
四人は心の中で激しく後悔した。しかしもう遅い。しばらく呆然と異界に存在する我が家を見ていた。
静かな、そして不気味な音が四人に近づいてきた。風も吹かないのに松明の火がふっと消え、辺りは確実な闇に沈んだ。
ず、ず、ずず、ず、ず
四人はゆっくりと深淵の中に入っていく。肌がやみの気に触れ、全身の毛穴から放熱が始まり、からだが一気に冷えた。深淵の微粒子が口々に低く、低く唸っている。
お、・・・お、・・・お、・・・お、お、お、お
四人は異界に入り込んだ。すでに自分の領域を取り戻すことさえ忘れている。
おお、おお、おおお、おお
体温がずるずると引き出されていく。心のどこかに、このままではいけない、という気持ちがあるが、首の後ろで止まっているようだ。
「なにか」がじっと四人を窺っているのがわかる。異界のもの。やみひと。
そのとき、ひとりの男がはっと我に返り、
「ひゃあああ!」
とけたたましく叫ぶと、四人は一斉に悲鳴をあげて駆け出した。
「お、お札と、じゅ、呪文だ! 今日もらっただろ!」
男がそう叫んだが、皆、それどころではない。
「そんなこといっても呪文ってどうやるんだよ!」
「し、知らないよ! おまえが聞いてたじゃないか」
男たちもわめきちらしているが、女はもっと錯乱し、ただ狂ったように叫び声をあげて逃げているだけである。
女が転んだ。
「ひっ」
女は腰を抜かして声も出せない。
おお、おお、お、おおお、おお。
やみひとが恐ろしい声をあげながら近寄っている。そして動けない「肉体」を確認すると、その四肢に触れた。
「ひいいいいいっ」
女の、つんざくような声がした。
男たちはどうすることもできなかった。逃げることも、助けることも、目を瞑ることも。そして「肉体」がやみひとに浸食されるさまをはっきりと見た。
(悪夢だ)
そのとき。
かっ
と、閃光が走り、
ごうおおおおおお
という咆哮が激しい風ととも襲ってきた。怒号は西手にある山の斜面にどごんとぶつかり、ぐわんと響いた。
一瞬であった。
目が覚めたように家々が現実に戻ってきた。
振り散る光の粉が我が家を時々照らした。
白い大きな獣がいた。美しかった。
「白狼犬・・・」
ひとりの男が寝言でもいうようにつぶやいた。
「ゲン・・・さま・・・?」
白狼犬の目は恐ろしかった。
四人はお空さまのお叱りを一心に浴びた気がして、白狼犬のもとに近寄ることもできず、その場でひれ伏し、ただ泣いていた。皆が謝罪のことばを口にしているようだが、何をいっているのかわからない。
そこにシマイが駆け寄ってきた。シマイは四人をかばうようにして叫んだ。
「ゲンさま! どうか、どうか、お許しください!」
ゲンは怒っているわけではなかった。
五人の反応は白狼犬を怖がっているように見えたが、実際は自分自身の信仰心による空の神への畏れであろう。だからこそゲンはここで優しくいうわけにはいかなかった。少し厳しめに、
「空の神に謝るんだな」
というと、五人は目を見はった。
(はっ。この声さっきの・・・)
白狼犬は一度空を見あげた後、五人を見下ろした。優しい目だと五人は思った。
「おまえたちだけで瀬戸の避難所に戻れるな?」
五人は慌てて首をたてに振った。
「また勝手な行動をするか」
ぶんぶんと首を横に振った。
「よし。新しい札は持っているか」
ささっと札を出した。
「『浄』と記してある方を前に向けよ」
ぱっと「浄」を前に向けてみせた。
「そのまま歩け」
うんうんとうなずいた。
「呪文は覚えてるか」
ひとりの男が力強くうなずき、他の四人は決まり悪そうな顔をした。
「じゃあ、おまえが教えるんだ。唱えながら行け。札を掲げて呪文を唱えればさきほどのやみひとぐらいなら祓える。しかも、五人一緒に唱えれば効力が増すだろう」
うんうんとうなずいた。
「気をつけろよ」
白狼犬はそういい捨て、空に飛びあがったかと思うとみるみるうちに姿を消した。




