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空の子  作者: そうじ
19/74

泉谷の里

 泉谷いずたにの里は北山の奥地に近い。過去にはやみの出現が頻繁で、北麓ではいちばん人口が少ない。

 泉谷は田畑を作る敷地も狭く、細長い階段のような段々畑が何か所か存在する。そこはかろうじて陽あたりがよく、イモやみかんなどが植えられている。その場所を除けば陽あたりの悪い林間ばかりであり、フキ、ワラビ、セリ、ネギなど腹の足しにならないものが多く、里芋が栽培できるぐらいである。いずれにしても泉谷の土地に稲は適さない。

 しかし、泉谷の奥にある山では石が取れた。古くは石を加工して装飾物を作り、それで生計を立てていた。そこに加工職人が集まるようになり、貝殻、珊瑚、木、布などの加工物も作られるようになった。

 ただ、加工品は主食の稲と交換するだけで精いっぱいであり、羽犬を持つまでに至らない。そのため能力者がいても祓い師になるものがいない。中央の学び場まで北麓ではいちばん遠い位置にあり、羽犬もいない状態では簡単に通えないのである。

 巫女ヨウは、空の国にあるすべての里に頻繁に赴き祓い師を養成した。ヨウの母ライはモトン族を大事にしたが、各村のいわゆる「報われない里」まで面倒を見たわけではなかった。泉谷は祓い師強化計画の里として、ヨウが親身になって面倒を見た里のひとつであった。泉谷の地形のごとく陽のあたらない盲点の場所に、ヨウは空の神の光を投じたのである。

 泉谷の里ではそういう経緯があり、巫女ヨウの人気が高い。ヨウが突然死したときの哀しみは他の里以上であったろう。

 

 ここにノセという長老がいる。

 六十五になる老婆である。小柄で、若いころから華奢なからだつきであったが、老年になってますます肉が削げ落ち、手足は絞った手羽先のようにきつく骨を締め上げている。が、動きは精力的であった。しかも高い声で独り言とも指示ともつかぬ声を上げながら、せかせかと走りまわる。そのように落ち着きのないノセがときどき首をかしげながら眉をしかめて、ひょっと立ち止まるときがある。するとまわりにいる下役たちも、ぎょっとして動きが止まる。なにか考えているときのノセの特徴なのである。

 そのノセが今日もときどき立ち止まる。が、顔はふふっとほほ笑んでいる。それを見た下役たちも動きを止め、いったんノセを見てふふっとほほ笑む。

 (コウさまがおいでになる)

 ノセがコウに会うのは久しぶりであった。非常時だというのに心が沸き立ち、自然と笑みがこぼれてくる。もちろん巫女に対する気持ちは空人全員に共通する。しかし泉谷の人々、とりわけノセにとってはいまのコウと会うことに別の意味があった。

 (コウさまは御年十二歳。あのころのヨウさまと同じだ)

 コウを迎える準備を進めながら、ノセは昔のことを次々に思い出していた。


 ノセは泉谷では貴重な祓い師であり、二十歳という若さで里長になった。里の祓い師が少ないため、ならざるを得なかった。

 若いノセにはひとつの目標があった。この里の祓い師を二十人にすることであった。泉谷の里の人口は当時二百五十人程度で、祓い師を二十人にしたところで一割にも満たないが、まずはそこから始めるしかない。なぜなら現在の祓い師は五人。ノセ一族だけである。ノセの父、ノセ、ノセの弟。それから叔父、従弟。五人が村役も兼任し、一同ぼろきれのようになって働いた。能力者の家系はノセの家系を含めて三家族。もともとの出自が同じで、ノセの家系が本家で残りの二つは分家である。

 (ひとつの家系に六、七人の祓い師を出せばよい)

 ところがなかなか中央まで学びに行く暇も財力もない。羽犬も調達できず村学でほそぼそと学んでいる程度であった。その間、呑み込みの被害も止められず、ノセの悩みはつきなかった。

 結局、ノセの目標は達せられないまま十七年が経った。

 ある日、中央で村役会議が行われた後、ノセは、大巫女タイ、巫女ライ、ヨウが通る廊下で膝をつき頭を垂れていた。すると、ふうわりと温かいものがノセを包んだ。なにかと思い、顔を上げると、ヨウがノセの顔をのぞきこんでいる。ヨウはにっこりとほほ笑んだ。

 青い瞳が透き通っている。白くふっくらとしたまぶたを押し上げるようにして、目じりの長い睫が丸い線を描いていた。ヨウは長い髪をふたつに分け、胸元に垂らしている。その色は栗色で、タイやライよりも髪の量が少ない。おさげ髪が軽そうに揺れた。

 (なんというかわいい巫女さま)

 ノセはヨウの美しさに見とれたがすぐに我に返り、恥ずかしそうに頭を垂れた。すると今度は肩に温かいものを感じた。ヨウがノセの肩に手を置いたのであった。

 「ノセ、顔をおあげなさい」

 ノセが驚いて顔を上げると、

 「これから私は七日にいちどは泉谷の里に参ります。あなたの思いのとおり、一年後には二十人の祓い師を養成します」

 (ああ)

 若干十二歳の、まだ受胎を終えていない巫女さま。柔らかい話し方、太陽のように温かいまなざし。しかし、なんと凛としたいい方をなさるのだろう。そして自信に満ちたお顔。後光がさしておられる。

 ノセはヨウの背後に空の神を見たのであった。

 「ありがとうございます!」

 ノセは平服した。平服しながら涙が出て止まらなかった。

 (お空さま、感謝申し上げます)

 と何度も何度も唱えた。

 ヨウは、泣きながらうち震えるノセの肩を撫でるようにして、

 「いままで放っておいてごめんなさい」

 と、かすかにいった。おそらくはタイとライに聞こえないようにという気遣いであろう。

 「とんでもないことでございます」

 ノセは泣くのをこらえながら、かろうじていい終えた。

 「少々厳しくしますが、そこは勘弁してくださいね」

 そういってヨウは陽だまりのような笑顔を見せた。


 ヨウの指導は「少々厳しい」どころではなかった。

 泉谷の里に指導に来た第一日目。

 里の村学に入って挨拶もそこそこに、ヨウはにっこりとほほ笑み、穏やかな声で、

 「これからひと月の間、一日、三百回、型の練習をしてください。記録もしてくださいね」

 といった。

 「ええっ」

 どよめく場内の真意が、どうやらヨウには伝わらなかったらしく、

 「どうしました?」

 と首をかしげて瞳を向けた。その瞳は青く透き通り、白目の部分がつるんとしている。弾力のある肌が光を放っているように白く、胸元に垂らしたふたつのおさげ髪がふわっと揺れた。

 (か、かわいい)

 皆、ぼうっとしてしまった。

 「あ、帳面ですね」

 ヨウはいそいそと帳面を取り出した。

 (かわいいが、さ、さすがに巫女さまだ。普通の感覚ではない・・・)

 人々は呆気にとられてなにもいえなかった。

 そこで大胆にも質問する子どもがいた。コタイという九歳になるノセ一族の分家の子である。

 「ヨウさまー、おれ、そんなにできねえよ」

 ヨウは手を止めて動かなかった。人々は冷や汗を流しながらヨウとコタイを見守った。ヨウはくるりと振り返った。眉をしかめている。

 「コタイ」

 コタイは口をとがらせて大きな丸い目をヨウに向けている。

 (いよいよ、あのヨウさまがお怒りになるぞ)

 ある意味、人々は期待した。ヨウの怒った顔をまだ見たことがなかったのである。ところがヨウは、

 「もしかして、おまえは三百まで数えることができないのですか」

 といった。期待外れも甚だしく、人々は戸惑った。コタイだけが戸惑うことなく会話を続けている。

 「ばかにすんなよー。数えることぐらいできるさー」

 コタイの母親が慌てて叱った。

 「こら! コタイ! 巫女さまになんて口きくんだい」

 ヨウはほっとしたように微笑んだ。

 「いいのですよ。コタイ、失礼なこといってごめんなさいね。数えることができるのならきっとできます」

 「えー。できねえよ」

 「コタイ、あなたはいままでに型の練習を一日に三百回したことがありますか」

 「ううん。やるわけないじゃん」

 「ではなぜできないと決めつけるのですか」

 「だってさー、できそうにないもん」

 「そういうときはとにかくやるのです。やってみないとわからないでしょう」

 厳しいことばを発しているとは思えないほど、ヨウの微笑みはかわいくまぶしかった。全員がこの美少女の暗示にかかったようにこくりとうなずいた。

 しかしコタイだけは不服そうな顔である。ヨウはコタイのそばによって肩に手をかけた。事情を知らないものが見たら姉弟に見えるだろう。

 「コタイは祓い師になりたいのですか」

 「うん!」

 「どうして?」

 「父ちゃんのかたきを討つんだ」

 横にいたコタイの母親がとっさに目元をおさえた。場内が一瞬固まった。

 「そう。では絶対にならなくてはね」

 「うん! 絶対になる!」

 「どうやって?」

 「えーと、それは」

 「そのためにはたくさんのことが必要なのです」

 「なになに?」

 「まずは、一日に三百回の型の練習です」

 「なんだよー。またそれか」

 「ええ。それが祓い師になる方法の第一段階です」

 「そのあとは? まだあるの?」

 「第十二段階まであります」

 「えー。そんなに?」

 そう思ったのコタイだけではなかった。まわりの人々もうんざりした。

 「ひと月に一段階ずつやればよいのです。ですから、あなたがいますることは一日に三百回の型の練習だけです」

 「そうだけどさー」

 「私のいう通りにすれば一年後に祓い師になれます」

 「ほんと? 一年後? ほんとに祓い師になれる?」

 「ええ。本当ですとも」

 「じゃ、やるよ」

 「約束ですよ」

 「うん! 約束!」

 ノセは感服した。

 コタイとのやりとりは、もしかするとヨウの計画のうちではなかったか。

 何者になりたいのかという目標を明確にし、なぜなりたいのかと動機を思い出させ、どうやったらなれるのかという方法を提示した。さらに我々大人たちの目のまえで、いちばん年少であるコタイに約束させることで、大人が「できない」などというわけにいかなくなった。

 ヨウは巫女として優れた力と指導力を持っていたが、愛すべき「天然ぼけ」だった。


 コウはヨウとは性格も顔つきも違うが、ヨウとよく似た天然ぼけっぷりであった。ときに畏怖を覚える存在でありながら、コウのことを天然ぼけなどといえるのは泉谷の里だけだろう。それだけ泉谷の人々はコウに対して近しい存在であり、コウも心を許していた。その基盤には敬虔な信仰があり、ヨウが作った信頼関係があった。

 泉谷の者たちは貧しい暮らしであったが、どこかのんびりとした温かい雰囲気があった。ヨウの精神を受け継いだ里ともいえる。

 ヨウが亡くなり、悲嘆にくれた里を救ったのはコウの存在であった。コウは五歳を過ぎたころから泉谷によく顔を見せるようになり、必ず、

 「おばあさまの夢を見た」

 といい、ヨウがどのような姿をしてなんといっていたかをこと細かに話した。ヨウの夢は一年ほどのちにぱったりと止まったらしいが、その後もコウは泉谷の里に頻繁に顔を出した。

 コウが泉谷の里に顔を出すのに表向きの理由はあった。この里には祓い具、つまり、お札や数珠、護符を作る職人がいたからであった。

 本来、職人が巫女の家に赴き、巫女から直接出向くことはない。しかしコウだけは違った。指示が細かいのである。使う材料やつくりかた方も丁寧に観察した。職人たちにとってはあまり歓迎されることではなく、血の気の多い若い職人はコウに対しても面と向かって抗議することもあった。

 そういう経緯もあり、ノセは、

 「指示を伝達役に伝えさせるか、もしくは遣いをやって職人を御所に呼び出すか、そのような従来の方法をなさってはいかがでしょうか」

 と助言したがコウはうんといわない。自分の目で現場を見たかった。また、職人の手を止めさせたくないという気持ちもあった。

 コウは泉谷が好きだった。コウに対して遠慮がなく、いいたいことはずけずけという性格のものが多い。あのコタイが現在の泉谷の里長であることも一つの理由であろう。彼はコウに対しても大長老や長老に対してものおじせず、聞きたいことは聞き、いいたことはいう。いずれにしてもそうなると話が早いし、コウも気持ちよく指導ができる。

 しかしコウは祓いの指導だけはできなかった。コウの祓いが特殊であったためである。

 従来の巫女は自分の型を持ってはいたが、はじめから持っていたわけではなく、代々の巫女の型を学びながら自分の型をつくり上げていく。ヨウやサクもそのようにして自分の型をつくっていたので、代々の巫女の型は頭の中に入っていたし村人への指導も細かい。

 コウは違った。代々の巫女の型を学ぶ必要がなかった。もともとの力が強く、一歳の頃からすでに空の神の光を受けてやみを祓うことができた。これはコウの曾祖母ライも同じであった。したがって人に教えることができない。自身の祓いを教えても誰も習得できない域にあった。

 そのコウが、ヨウやサクを真似て泉谷の里人に祓いを教えようとしたことが一度だけある。が、誰一人理解できない。ぽかんとした場の中心にコウがたたずみ、

 「時間の無駄だ」

 とつぶやいてこの上なく機嫌の悪い顔をした。頬がぷっくりとふくれ、その顔がやたらとかわいくて、皆、笑いをこらえるのに苦労した。


 ノセが思い出しながら、くすっと笑うと背後から声がかかった。

 「ばばさま。なにを笑ってるんですか」

 里長のコタイであった。しかしコタイもにやついている。

 「おまえと同じ理由じゃ」

 ふたりは微笑みあった。

 (コウさまがおいでになる)


 亥の下刻。

 空から白いものが降りてきた。コウである。

 テテのからだが月の光に照らされて白く見えていたのであるが、それより白く見えたのはコウの顔であった。テテは勢いよくばさっと羽音を立てて降りてきた。コウはすとんと地に降り立ち、たったっと急ぎ足で歩いてきた。

 居合わせた里役たちが嬉しそうにコウに近寄ろうとすると、コタイがさっと手で制した。里役たちはそのコタイのしぐさですべてを察した。

 (コウさま。厳しいお顔をされている)

 コタイはコウのそばに進み寄り、膝をついて礼をとった。これは巫女に対する正式な礼である。普段、コウが来るとき、泉谷の人々は正式な礼をとらないことが多い。しかしコタイはコウの目つきを見て、尋常な事態ではないことを悟った。里役たちもコタイにならって正式な礼をとった。

 「コタイ、指示通りの準備はできたか」

 「はっ」

 「川端のものたちは」

 「配置についております」

 「誘導役はなんと」

 「半時ほど後に、と」

 「よし。長居ができぬ。手早く終わらせるぞ」

 「はっ」

 コタイは振り向き厳しい顔で里役に目配せをした。役たちは素早く動いた。

 コウは再びテテに乗って屋根の上に降り立った。屋敷の表でノセはコウから見えるところに位置し、コウから目を離さない。そのノセの姿を六人の祓い師がしっかりと見ている。屋敷の裏ではコタイが位置し、コウの後姿をしっかりと見張っている。ここにも六人の祓い師がいてコタイの姿を見張る。

 コタイはコウの姿を見止めながら、裏手にある段々畑を気にしていた。そこは風通しの良い場所で、いまも強い風が吹き抜けているはずである。昼間であれば陽あたりもよく泉谷では貴重な畑である。そこに、里の者たちを四つの班に分けて四つの場所に避難させている。ひと班に一人の誘導役、一人ないし二人の祓い師がついている。

 一方、屋敷の中には祓い師が四人配置されている。また、羽犬二十五頭とその飼い主など合わせて二十五人が中にいた。

 泉谷には羽犬は四十五頭しかいない。残りの二十頭は屋敷まわりで待機している二十人の祓い師とともにいる。屋敷のなかの羽犬は飼い主たちとともに、四つの部屋に閉じ込めるようにして入れられ、犬たちにとっては狭い空間である。羽を伸ばすこともできず、動くこともままならず、ときどき

 「くうん」

 と苦しそうに鳴く声がせつなく聞こえる。飼い主たちは撫でさすりながら寄り添っている。

 この者たちは囮である。

 この屋敷の中に生命の感じさせる必要があり、やみひとが一番にここを狙うように誘導するが、コウがいる限りこの者たちが呑まれることはない。勝負は二度目のやみの出現である。

 二日前、ゲンがこの国に来てからのやみひとは、空人の動向を見越した出現の仕方をする傾向にある。屋敷で収穫がないと判断したやみひとたちは方向性を変更する可能性がある。そうなると、一度目の出現時は屋敷まわりが一番危険であるが、二度目は人々が避難している山中に気づいて方向を変えるであろう。

 本来はコウがいれば全員が屋敷内にいれば事が済むはずであった。しかし今夜は同時刻に小河原にもやみが出現するという。コウが素早く泉谷から出立できるように、人々を裏の山中に避難させる道を選んだ。コウは一度目のやみを祓った後すぐさま小河原に向かう予定で、二度目に出現したやみは里の祓い師で処理する計画であった。

 そこで二十五頭の羽犬とその飼い主を囮として屋敷に残した。

 羽犬はその飼い主がどのような暴君であろうと、主を慕い、主の命に従って生きる。主が存命であれば勝手に単身で逃げることはしない。

 空人がやみに呑み込まれそうになったとき、羽犬を所有していれば最終手段として羽犬で空高く飛びあがるように巫女から指導されている。しかし、やみの力が強ければ飛びあがる前に呑まれてしまう。たとえ祓い師だとしてもみずからの力量とやみの大きさを正しく測れない場合、逃げる時機を外してしまい、羽犬ともども呑まれる。

 やみに呑まれるとき、愛犬に「私を置いて逃げよ」と命令する主もいる。それでも羽犬のほうが主を慕って動こうとしないこともある。すると主も憐れんで羽犬を抱くようにしてやみに呑まれることもある。

 主の遺志により逃げおおせた羽犬は、まず犬が淵のホシナのところに預けられ、次の主を待つのが筋である。が、主の遺志で次に仕える主をすでに決められた犬もいる。その場合、斡旋役に事前に届ける必要がある。斡旋役は里にひとり置かれ、里の羽犬の管理、把握をする。

 (昨夜は羽犬を使うなとの指示であったらしい。しかし今夜は羽犬が使える)

 コタイはほっとした。昨夜はそれだけ巨大なやみだったのであり、今夜は昨夜よりは小さいことになる。そのことは誘導役からすでに聞いていたがにわかには信じられなかった。北麓の人々は日出浦の者たちの力を目の当たりにしてない。コタイは「誘導役を信じてその通りに行動せよ」と皆に指示していながら、自分自身が信用していなかったことを自覚した。

 と、そこに裏山にいるはずの誘導役のハキルが羽犬とともに飛んできた。羽犬は勢いよく飛びすさび、コウのそばに寄る。ハキルが何やら小声でいい、コウがうなずく。ハキルはひとこと伝えるとすぐに裏山に飛んで消えた。

 コウはコタイに目配せをし、コタイはうなずいってぴゅうっとひとつ指笛を鳴らした。

 警鐘番への合図である。

 すぐに鐘が鳴りだした。

 カーン、カーン、カーン、カーン・・・

 高く澄み渡った音がまわりの山々に響きわたり、こだまする。いくつもの鐘が大小重なり合うようにして響きわたり、そのうち不協和音が奏でられ、不穏な空気に包まれた。

 (いよいよか)

 皆の顔が引き締まる。

 コタイはぴったりと寄り添うようにして横についている羽犬の背中に手をかけた。

 鐘はこだまし続ける。空は天井だけを丸くあけるようにして顔をのぞかせていた。月はまだ見えない。

 泉谷の里ではいつも鐘がこだまする。が、そのときによって鐘の音の響きが違うことを皆は知っていた。鐘の音でその空気を読む。

 (この怖気はなんだ)

 コタイはからだが震えた。鐘の音であるのにまるでやみの気配のような殺気をもたらす。

 コタイもノセもコウの姿だけを追う。庭に焚かれている火がぼうっとコウの姿が下から照らしているはずが、コウは全身光っているように見えた。

 一心に見ているとそのまま意識を失いそうになるほどくらくらとしてきた。

 ここは泉里なのか、天なのか、地なのか。意識が交錯し、このまま気絶してしまうのではないかと思った。

 そのとき。

 「来る! 各々、備えよ!」

 コウの張った声が心にどすんと響いた。

 「はっ!」

 祓い師はすぐさま羽犬に乗った。

 コウからの指示である。低く飛びながら祓う。

 巨大なやみでないので飛ぶ必要はない。これは羽犬を護るためと早く遠くに移動する可能性があるため。やみは何箇所かに分かれて出現すると誘導役がいっていた。

 ずずずずず

 お、おお、おお

 おぞけるような音が体の芯に響く。股下が縮み上がり、異様な感覚になる。

 風も吹かない。木々もじっと息を凝らしてなにかを待っているかのようだ、

 おおおおおおおおおお

 やみの声が聞こえる。その音に呼応するように、ひゅうーーと風の音がしてきた。

 ぐおうん!

 もりあがるような音がして木々がざあっと風になびいた。

 木々の間を縫うようにして、するするとやみひとが姿を現した。

 (あまり大きくはない。これなら)

 コタイは裏手で六人の祓い師とともに次々に祓う。が、横合いからまたやみが出現し、屋敷に入ろうとしている。

 「屋敷の近くに!」

 コタイは祓い師たちに指示を出すが間に合わない。

 羽犬の上からでは細かい動きができず、コタイは羽犬から降りようとした。

 が、やみが悲鳴をあげて消えた。

 (?)

 と思っていると、光の粉がはらはらと降りてきた。

 (ああ、コウさまだ)

 コウが屋根の上から光をおろしている。まるでやみをなだめるようである。光の粉にやみひとは吸い込まれているようだ。

 (コウさまの力。こんな光? はじめて見る力)

 すると上から声がした。厳しい声であった。

 「コタイ! 羽犬から降りるな!」

 「ははっ!」

 コウの光が地上に行きわたり、辺りは清浄に戻った。

 しかし鐘は鳴り続ける。

 (鐘が、やまない)

 ノセは羽犬にまたがり、少し高く滞空してまわりを見渡した。清浄の気を感じて祓い師たちはどこかほっとした顔つきであった。

 「まだぞ!」

 「は、はい」

 コウの姿をしっかとみとめるとコウはじっとして動かない。が、コウの向きが変わった。さっきまでは屋敷の表を見ていたのでノセからはコウの顔がよく見えた。しかし、コウはいま裏手を見据えている。

 (やはり)

 突然コウがノセを振り返る。

 「ノセ! 上に!」

 「はっ」

 ノセは連れている祓い師を連れてコウのそばにつけた。

 コウはしっかと裏山を見据えていた。

 「よいか、二か所だ。あの杉の木から十間ほど西。もうひとつは十五間ほど東。二手に分かれて飛べ。飛びながら感覚を研ぎ澄まし、やみを感じたら、急ぎその場へ飛び込め」

 「はっ」

 「行け」

 「ははっ」

 六人は二手に分かれ、ひゅうと飛んだ。

 山々に震撼がこだまし、木々は葉をぶるっと揺らした。

 一方、屋敷の表には震えが残るだけであり、ただただ静まりかえっている。屋敷の中の人々は羽犬をしっかと抱いて外の様子を見守っていたが、どうやら静まったようだとほっと胸をなでおろした。

 しかし鐘は鳴り止まない。


 ノセ一行は裏山へ急いでいた。

 裏山では、四つの班のかたまりがそれぞれに避難し、誘導役の指示に従って移動している。ある程度の場所はわかっているが、やみの動きによっては移動している可能性がある。かすかに感じるやみの気配を頼りに急ぎ飛んだ。

 「ギヤム、リンキ、おまえたちは西だ! デイア、わしにつけ!」

 「はい!」

 ノセは気が焦っていた。

 裏山の避難場所にやみが移動するかもしれないと聞いてはいた。

 『裏山に来るか来んかはまだわからん。出所は屋敷の表じゃ。来るとしても山の表面を撫でるぐらいじゃ。奥に逃げれば問題はないのう』

 誘導役ハキルがいったことばを思い出す。皆が誘導に従えば間に合う。誘導に従えば。

 (よりによって)

 ノセは山の中腹に飛び込んだ。ノセが向かったのは四班の場所である。


 一方、四班。

 山中では里の人々が引くような小さな悲鳴を上げながら逃げていた。先頭に誘導役と祓い師がひとり。しんがりに祓い師がひとり。二頭の羽犬はそれぞれ動きの鈍い年寄を背中に乗せていた。列の外側に祓いができるものを配置し、ぞろぞろと不安そうに歩く。

 四班の誘導役は十歳の少年である。誘導役といっても日出浦の里に棲む五十人程度の者たちを分けているだけなので、たいていは家族単位で同じ里に配置される。今回のようにいくつかの班に分かれるとなれば、小さな子どもが一人で七、八十人ほどを誘導することになる。

 少年は名をナザルといった。ナザルは高い声を張りあげていた。

 「違う違う! そっちじゃないよう。こっちだってば」

 しかし、人々は顔を見合わせるだけでナザルの指示する方に進まない。

 鬱蒼と生い茂った、気持ち悪いほど暗い竹藪の奥に入れと、ナザルはいっているのであった。

 「だってねえ、こんなところ」

 闇よりも暗く気が淀んでいる。

 「そうさ。俺だっていけないところぐらいわかるさ」

 「この場所ってノセさまが立ち入ってはいけないって、常日頃からおっしゃっている場所じゃないの」

 「そうだよ、なあ、トツイ」

 先頭に配置された祓い師はトツイという若い女性であった。長身で色白、痩せた体がいつも少し傾いている。トツイはまじめであったがいわゆる堅物で、物事を柔軟に考えることができない質であった。小さい男の子が誘導役なので若く優しい女性の祓い師をつけたほうがいいだろうと、ノセが気を遣ったのである。が、それが仇になった。

 「たしかにそうですね」

 トツイは口に細い指をあてて考えるしぐさをした。

 「ノセさまからこの地の竹藪には入らないように、と」

 人々は同意した。

 「だろ? おい小僧、さっきの場所でいいじゃないか」

 「風通しも良かったしねえ。こんな陰気なところに移動する必要はないわよねえ?」

 ナザルは口を一文字に結んで激しく首を振った。くるくると巻きあがった短い黒髪が弾んで揺れた。小さなこぶしをぎゅっと握り、かわいいふくらはぎをいっぱいに突っ張らせながら仁王立ちしていた。

 「さっきもいったじゃないか。あと四半時もすれば風が止まるんだ。ほら、木がそういってるだろ?」

 人々は顔を見合わせた。

 「木が?」

 「なにいってんのよ。この子」

 皆、気味悪がっている。自分たちとは明らかに違う、別人種の不気味さをどう理解すればいいかわからない。

 「おめえ、いい加減なこというなよ」

 凄んだ声でナザルに声をかけたのは、ガセンという大男である。年は三十過ぎ。無精ひげを生やし、浅黄 色の着物を色落ちした紺の帯で無造作に締め上げている。厚い胸元がはだけ、胸毛が見えている。

 ガセンが声を発するとまわりの人々が黙り込んだ。気難しいことで有名な石職人の棟梁であった。若いころは明るい気さくな男であったが、妻子が呑み込みにあって以来気難しくなってしまった。人づきあいは滅多にしなくなったが、石職人としての腕は確かなため弟子入りに来るものが多い。里は工房を営む者が多かったが、材料となる石を切り出す職人も多く、ガゼンはその職人たちを束ねていた。職人たちの信頼を得てはいたが、仕事の邪魔をする者がいたら、たとえ相手が年寄り、女、子どもであろうと容赦はしない。

 手に持っている松明がガセンの顔を下から照らし、いかにも見下げたような目つきでナダルを見ている。しかし、この大男を相手にナザルはひるまない。ナザルはどんぐりまなこで下からガセンを睨みつけた。瞳がぎらっと光った。

 「おいらにはわかるんだ。この奥を抜ければもっといい場所に出るんだよ!」

 いいかたはしっかりしていたが、あきらかに気が焦っていて語尾に憤りがにじみ出た。

 「泉谷に来たばっかりで、なんでここの地形がわかる」

 「地形なんか知らね」

 「なんだと? それで誘導しようってのか。ばかか、おめえは」

 ナザルはさすがに、はあっと息をついた。何度いったらわかるんだよ、という顔だった。

 「だからあ、おいらにはわかるんだよ。早くいうこと聞いてくんないと時間なくなっちゃうって。コウさんがいっただろ? おいらたちのいうこと聞けってさ」

 後ろにいた中年男性が顔をしかめていった。

 「ガキがえらそうに」

 「こいつ、『コウさん』なんていいやがったぞ。なれなれしい」

 横にいた女性が同調する。

 「うみんとってみんなそうらしいわよ。ゲンさまにも『ゲンさーん』なんて呼ぶらしいわ」

 「自分たちをなんだと思ってるんだ」

 ナザルは途方にくれた。あまりにも価値観が違う、この集団にどう対処していいのか。頼りになるはずの祓い師はさっきから爪を噛んでいるだけである。

 と、ナザルは両肩に軽いぬくもりを感じた。驚いて振り返ると少し年上と思われる少年がナダルの両肩に手を置いていた。少年は大きな澄んだ目をしてにやっとしてナザルを見ると、あくびのような声を発した。

 「はあーあ、しょーがねえ大人ばっかだなー。こーんなちびをみんなしていじめてよー」

 ナザルはぽかんとしてゆるくうなずいた。

 「さっきから聞いてたらさー、みんな、あったまかてえのな。おい、ガセン。おまえも大したことねえな。がーっかりだよ」

 「なんだと! ユウキ、てめえ」

 ガセンは少年をにらんだ。人々は攻撃の矛先をユウキに変えた。

 「ユウキのやつ、この班にいたのかよ」

 「こいつ、祓い具やってるからって調子にのってねえか」

 「おいやめとけ。ユウキはコウさまの遊び相手だったんだから。告げ口されるぜ」

 「サイナとも仲がいいんでしょ?」

 「そうさ。サイナにも告げ口されてみろ。どんな目に遭うか」

 「まったく面倒なやつが同じ班にいたもんだよ」

 巫女が幼いうちは、空人の中から数名の同年代の子供が遊び相手として選ばれ、側につくことが昔からの決まりであった。ユウキとサイナは十二歳。幼い頃はコウの遊び相手として選ばれて常にコウのそばにいた。またユウキは腕のいい祓い具職人であり、コウとは懇意であった。

 「はん。俺が面倒だって? じゃ、あんたはなんなんだよー」

 ナダルより少し背が高いだけの少年が生意気な口のきき方である。

 「うみんとのやつら、えーと、なんとか役? ってのに従えってコウがいったんだろ? なんで従わねえんだよ」

 「おい! ユウキ。おまえ、コウさまのことをまた呼び捨てにしやがって」

 ユウキは鼻をつんと上に向けていった。

 「ばーか。『さま』つけてりゃいいってんじゃねーだろーが。コウのまえじゃいい顔ばっかしやがって。コウのいないところでコウに背くのかよ。あんたら本当はコウを信じてねーだろ」

 「こんのやろう! いい気になるな!」

 「呼び捨てにしたって俺はコウに背かねえぜ。俺はこのちびのいう通りにする。なんでかわかるか? オレはコウを信じてるからだ。コウを信じて行動する俺と、コウさまー、なんていって陰でコウを無視するあんたと、どっちがえらいんだ?」

 人々は黙った。ユウキはふん、と鼻を鳴らしてガセンに向かった。

 「おい、ガセン。おまえはどうなんだよ。なんとかいえよ」

 ガセンも黙ってしまう。

 「おまえが見る方向を間違ってどうすんだよ。みーんな間違っちまうだろーが」

 ユウキは、ずいぶん年上の大男の腹にぽくんとこぶしを入れようとした。ガセンはそのこぶしを大きな手でとめたが、苦い顔をしてユウキの顔を見ない。反対にユウキはガセンにへへっと笑いかけ、振り返ってナザルを見た。

 「おい、ちび、こんなやつらと話したってムダだぜ」

 (このあんちゃん、かっこいいや)

 ナザルはしばらくユウキの顔をぼうっと見ていた。

 ユウキはくるりと向きを変えた。

 「こら! トツイ! どう行動すべきか、もうわかったろ。黙ってねえで早く指示だせよ。このままここにいたんじゃ、みーんなやみにのまれちまう」

 トツイは焦点の合わない目をして爪を噛んでいたが、ゆっくりと手を口から外し、目が覚めたような顔をして指示を出した。

 「そうですね。ここにいたら危ないっていうことですし、ナザルさんについていきましょう。たとえやみが出たとしても私が助けます」

 やっと決心がついたという感じであった。

 ユウキはにこにことしてトツイの腕をたたいた。

 「けっ、いまごろかっこつけんな! まあ、頼りにしてるぜ」

 そのあとユウキはナザルにガッツポーズを見せて笑った。ナザルははにかむような顔をして少し笑い、人々の顔を見ていった。

 「みんな、絶対に安全なところに連れて行くから。少し暗いとこに行くけど我慢して。お願いだからコウさんを悲しませないで」

 さっきから文句をいっていた大人たちは決まりが悪そうに目を伏せた。

 ナザルは、ガセンの大きな手を小さな両手でぐっと握って大きな目でガセンを見あげた。

 「おじちゃんはおいらが引っ張っていくから安心して」

 「な、なんだよ」

 ガセンは慌てたがナザルの手を振り払おうとはしなかった。心を囚われたのはナザルの小さい手が汗ばんでいたということだった。子ども特有の湿った手。

 (こいつ、子どもだ。小さい、子どもだ)

 そう感じるとガセンは、五年前にやみに呑まれてしまったわが子を思い出した。ナザルよりはいくらか年下であった。

 (あれもこんな手をしてた)

 ガセンは冷えた胸に熱い血が流れるのを感じた。血が狂おしく脳にあがってくる。熱さをおさえられず、目や鼻や口から蒸気が噴き出しそうで、唇をぐっとかんで息を止めた。両手がかあっと熱くなった。

 ガセンはナザルの手を振り払った。

 「ばかやろう」

 「え」

 ナザルはびくっとして手を引っ込めようとした。ガゼンはその手を、今度は自分からぐっとつかんだ。ナザルは少し驚いたがガセンの手は大きく温かく、ほっとした。

 「子どもがなにをいやがる」

 ガセンは顔を背けていった。ナザルはにっこりと笑った。するとからだがふわっと宙に浮いた。

 「わあ?」

 ナザルのからだはガセンの肩車に乗った。ガセンが我が子にいつもしていた肩車であった。

 「さっきは悪かったな、ぼうず。ここで指示しろ。遠くのやつらからも見えるやろ」

 「あ、ありがとう。おじちゃん」

 ナザルは均衡を崩して後ろに倒れそうになり、必死で体勢を戻しながらいった。ガセンはナザルの小さい両脛をつかんだ。

 「ほれ、腹に力入れんか」

 「う、うん」

 ナザルは無精ひげの生えたガセンの顔を、両手でしっかりとつかまえた。ガセンの乾いたひげが掌の水分を吸い取ってくれるようで心地よかった。

 ユウキは「しめた」という顔をして、両手がふさがっているガセンの腹に、余裕でこぶしを入れた。ガセンはぐっと腹筋を固くして防御し、ユウキを見下ろして笑った。

 一行は竹藪に入っていく。


 一行のしんがりを務める祓い師は里の長補佐のサイトである。

 サイトはコタイの息子で二十五歳。頭が良く、人望の厚い青年であったが、祓い師としては未熟な部分があった。

 泉谷の里の長老ノセの影響を受けて、長コタイもどこか落ち着きがなかった。それはコタイだけでなく泉谷の里役全員にいえることであったが、サイトだけは違っていた。物事を冷静に捉えることができ、 父コタイよりずっと落ち着きのある青年であった。

 サイトは中肉中背、肌の色は浅黒い。首から下げたお札がふたつ胸元で擦りあって「かち、かち」と快い音を立てる。そのふたつのお札を時々ぎゅっと握りしめるのがサイトの癖であった。

 サイトを四班に配置したのは、これも小さいナザルに気を遣ってのコタイの人選ではあったが、またもや仇となった。ナザルの話では屋敷側からやみが襲ってくるというのでサイトはみずからを後方に配置したが、サイトがもし前列にいたら結果が違っていただろう。

 鐘が鳴り続ける。遠い音であるが確実に聞こえてくる。

 (すでに一度目は消えている・・・)

 サイトはイライラしていた。いま現在やみの気配は消えてはいるが鐘の音は鳴り止まない。しかし列はなかなか前に進まない。列の前のほうでなにやらもめているようでもある。行ってようすを見たいがここを離れるわけにはいかない。サイトは近くにいた少年にようすを見にいくよう指示をした。

 「なにやってんだ。風がおかしくなってきた。二度目が来る。このままじゃ祓いきれんぞ」

 サイトはいつもの落ち着きを保てなかった。やみの気配はいまのところ屋敷の近くで止まっているものの、さきほどから感じている怖気が抜けない。自分の心が乱れていることを感じとり胸元のお札をぎゅっと握りしめた。

 少年が人のあいだをぬうようにして戻ってきた。

 「サイトさん、あれ、あれ見て」

 少年が指差す方を見ると、ナザルがガセンの肩車で人々に指示をしている。

 「え? なんで、あんな・・・」

 意外な景観だった。どういう経緯でああいう形になったのかはわからないが、とにかく気にしている暇はなかった。急がねばならない。

 「なんにしてもやっと動き出したということだ。よし、みな急げ。さきほどの打ち合わせ通り、キウク、ライア、シカイ、列に背中を合わせ、あとずさりしながら、そうそう、目は常に俺を見ておけよ」

 名前を呼ばれたものたちはサイトに祓いを習っている者たちであった。少年に毛のはえた程度の者たちである。泉谷の祓い師は少ない。仕方のない人選であった。

 「こわがるな。おまえたちなら大丈夫だ」

 サイトが笑顔を見せると三人はほっとした。

 実はサイトには笑う余裕はなかった。さっきから風が止まっている。お札をしっかと握りしめた。

 (来る)

 そう思ったとたん、首の後ろに虫が這いずったような感覚を覚えた。これはサイト特有の感覚であった。

 ず、ず、ずずず。

 カ、カ、カ・・・。

 「やはり、下!」

 誘導役から聞いていた通りであった。人々は慌てて竹藪の奥に入り込んでいった。ひゃああっという声が上がっている。

 「早く! 奥へ!」

 サイトは必死の形相で一行の後ろに立ちふさがった。ふたつのお札が胸元でかちかちと鳴った。その音を聞くと力が沸いてくるようであった。

 それを右手でぐっと握る。

 ず、ず、ず、ず。

 カリ、カリ、カリ、カリ、カリ・・・。

 地から足に響く音さえ、虫唾が走るような感覚になる。

 サイトは数珠を持った左手を掲げながら祈りをささげる。

 「天におはします我らが神、お空さまよ。我に祓いの力を与えたまえ。出でくるやみを浄めたまえ!」

カリ、カリカリカリカリ、カカカカ、カカカカカ!

 ぐうおうん!

 おおおおおおお!

 「くわああああっ」

 サイトは上からしゅっと手を振り降ろした。ぐん! と風が起こり、やみひとに向かって切り裂くような勢いであった。風は地を割って出で来るやみひとをふたつに分けた。時間を置かずにサイトはまた声を上げて祓いのけた。

 「はあああっ」

 やみひとは少しずつ消されていくが、ふたつが四つに、四つが八つにと、分かれていく。

 「くっ。こいつら動きが細かい!」

 一つひとつを丁寧に、しかも素早く祓わねばならない。後ろにはまだ何人か残っている。

 キウクたちを配置してはいるものの、果たして祓えるか。とにかく竹藪の中に入ってくれれば。

 ようすを見たいが後ろを振り返る余裕はない。ただやみの力は小さく、そのことだけが救いであった。

 「おまえら! 気を抜くなよ!」

 「は、はい!」

 叫びながら祓い続けていると一体のやみひとがするっと抜けていった。

 (いかん! 一体逃したっ)

 「わああっ」

 悲鳴を上げたのはキウクといういちばん年下の少年であった。キウクはへたりこんでいた。

 (や、やみひと、こ、こんな顔・・・)

 まともにやみひとの顔を見たのははじめてであった。祓い師でもない十五歳。さながら負け戦に駆り出された少年兵である。腰を抜かしても無理はない。頬が桃色に染まり、幼さを残している。

 「キウク!」

 サイトは後ろを振り返ることはできない。

 「大丈夫です! 私がっ!」

 「よし! ライアか!」

 キウクの前にさっと立ったのはライアという若い女性であった。キウクより三つ年上ではあるが、背は低く小柄な女性である。甲高い声で祈りを唱える。

 「天におはします我らが神、お空さまよおお!」

 気の充実した声、凄み睨む目。両足がはっしと大地を踏む。迫力は十分であった。

 「我に祓いの力を与えたまええええ! 出でくるやみを浄めたまえええっ!」

 やみひとはやはり、ライアを狙ってなどいない。ライアの後ろで腰を抜かしているキウクを狙っている。ライアはその動きを把握しながら手を振り下ろした。

 「きええええっ!」

 ぶんっと風が起こった。

 (外した?)

 やみひとに直接当たらず、少しかすった程度であった。が、風の勢いが強く、やみひとは吸い込まれそうになって動きが弱くなった。ところが、ぐるんと遠回りするようにしてキウクを襲ってくる。

 (いけない! キウクが!)

 すると横から激しい声がした。

 「くわああっ!」

 ぶうんと風が起こり、やみひとに直接当たった。やみひとは小さく悲鳴を上げて消えた。

 シカイであった。シカイはライアよりひとつ下の十七歳。やはり、うら若い青年である。

 汗をぬぐいながらはあはあと息をついていた。

 「サイトさん! さ、三人とも無事です!」

 「よし! ここはもうよい! 行けっ」

 「はい!」

 (あと二体。かなり小さく、しかも弱っている)

 若い三人はサイトに背を向けたまま、お互いに肩を抱き合うようにしてゆらゆらと竹藪に入ろうとしていた。三人は完全に油断していた。

 そしてサイトも油断した。二体のやみを祓おうとした時、一体のやみひとが急に勢いをつけ、するするっとサイトのわきを抜けた。

 「しまった! そっちに行くぞ!」

 叫んだ時は遅かった。三人は意表をつかれてばたばたっと地に倒れ込んだまま、驚いたような顔をしてやみひとに見入ってしまった。

 「ちっくしょおおおお!」

 サイトは駆け出した。同時に叫ぶように祈りを唱え、手を高く掲げた。

 (間に合わない)

 三人はすでにお札を握ることさえ忘れている。

 そこへ一陣の突風が吹いた。

 ひゅうう!

 という音がサイトの目の前を横切り、風は一瞬にして光となった。

 サイトがはっと我に戻った時は目が覚めるような清浄の地となっていた。

 「無事か」

 (コウさま・・・!)

 コウはテテに乗ったまま浮遊していた。光の服を纏っていると勘違いするほど、光の粉がコウにまとわりついていた。

 サイトはしばらく見とれたが、

 「はっ」

 と気が付いたようにかしこまって礼をとった。

 「サイト、詰めが甘いな」

 「はっ」

 サイトは再びかしこまった。そこにノセが飛び込んできた。

 「コウさま!」

 「ノセ、遅い」

 「申し訳ありません!」

 「あとは頼む」

 「はっ」

 ノセは膝をつき、下からコウの顔を覗きこんだ。コウは上を見上げていた。

 (あっ、ヨウさま)

 一瞬コウの顔にヨウが重なって見えた。ノセは瞬きを繰り返す。

 コウはテテに乗り、高く飛び上がった。光の粉がはらはらと舞い降りた。

 ノセもサイトもずっと上を見つめていた。

 若い三人は口を開けたままであった。なにが起きたのかもわからなかった。ただ、いつのまにか美しく光るコウがそこにいたことだけは理解した。


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