小河原の里
コウは東浜村の瀬戸の里にいた。
(急がねば)
嫌な予感があった。
北麓村では小河原と泉谷で中規模のやみが出現すると、六の瀬、瀬戸の誘導役がいった。時間は子の上刻。小河原は祓い師も多く鍛錬にも力を入れていた。が、泉谷の里は他里に比べて祓い師の数が少ない。北麓村では中央から遠くしかも貧しい里であるため、羽犬を手に入れることがむずかしいのである。ところが、今夜は小河原より泉谷の方が大きなやみが出現するという。
現在コウがいる瀬戸から泉谷と小河原は、ほぼ等位置にある。
(泉谷を片づけて小河原。間に合うか)
コウの嫌な予感のもとは泉谷ではなく、小河原であった。
小河原の長老キユウは矜持が高く頑固であった。里長はその息子ルキクである。キユウにはルキクをはじめたくさんの祓いの弟子がいる。北麓村では川端と小河原が競ってその実力を示し、小河原は祓いには自信を持っている。今夜のやみは昨夜ほどの大きさではないが、コウの到着が遅れるのであれば逃げたほうがいいとモトン族は口をそろえていう。ただ、キユウが応じるかという問題であった。
さらに、キユウは土橋からの指示に簡単には従わないという問題があった。
キユウはソウイを嫌っていた。
小河原はソウイの郷里である。いまでこそソウイは土橋に住んでいるが、ソウイの親戚一同は小河原に住んでいる。まだソウイが小河原に住んでいた頃、ふたりの娘を残して妻と息子たちがやみに呑まれた。さすがのソウイもすっかり落ち込んでしまった。いつまでも小河原にいれば失った家族のことを思い出すだけだと、テルイが土橋に移り住むように勧めたのであった。
キユウとソウイはいとこ同士で同い年であった。キユウの家系の方が本家であり昔から小河原を束ねてきた実力者であった。小河原の里長には本家のキユウが着任することが決まっていたものの、祓いの力、統率力、人望など、すべてにおいて分家のソウイの方が優れていたため、キユウの父は常にキユウをソウイと比較し叱咤しながら教育してきた。ソウイとの力の差を思い知らされながら育ってきたキユウが、ソウイに劣等感を持たないわけがない。
キユウはウルクのことも同様に嫌っていた。
「あいつらはずうずうしいところが似ている。テルイさまにおべっかつかって出世しただけのやつらじゃないか。いまいましいやつらだ」
などと常に家族に漏らしていた。つまりは力のあるものに対する嫉妬である。キユウはソウイに嫉妬するだけの力は持っている、ということではあるがいつもかなわない。子どものころから「ソウイさえいなければ」とキユウは何度も思った。
キユウの息子、現在の小河原の里長ルキクはソウイもウルクも嫌ってはいなかった、むしろあこがれさえ抱いていたが、父の手前そんな素振りは見せなかった。
ところが、ルキクの妻イデアはソウイ、ウルク、その妻カツアも嫌いだった。嫌うというより「恨み」であった。
実はイデアはソウイの次女であり、カツアの二歳下の妹であった。にもかかわらずソウイ一族に「恨み」を持っているのだが、もちろんそれなりの理由があった。
イデアがまだ十五歳の頃。ひとつ年上のウルクに口説かれた。イデアはウルクに熱をあげ一途にウルクにつくし、とうぜん結婚するものとばかり思っていた。しかしウルクにはたくさんの女がいた。イデアは「女癖が悪い」とか「浮気ばかりする」とウルクを罵倒していたが、ウルクとしてはたくさんの女と同時につき合うことが「悪い」とか「浮気」しているとか、そういう意識はなかった。
(お空さまはたくさんの子を産むことを望まれているじゃないか。巫女さまたちも昔から男女のつき合いは自由だとおっしゃっている。どうして女というのはこうも嫉妬するのか)
ウルクは口には出さなかったが、いつもそう思っていた。
実際に空の神は一夫多妻を認めていた。繁殖のためである。巫女には空の神からの「繁殖せよ」という啓示が常にあった。
女が身ごもれば男はその女と結婚して養わねばならない。空の国では男女のつき合いは自由であり、子ができれば結婚するという順番であった。子ができた場合、結婚しないという選択権が男にはなく、養うことができれば妻を何人持ってもよかった。
男女のつき合いが自由である以上、身ごもった子の父親が判別できないことは多々あるが、それは女に決定権があった。そして身ごもった女が子の父にあたる男との結婚を拒否した場合、結婚は成立しない。選択権はすべて女にあった。
空の国では「能力者」の血が求められる。したがって能力者の血を家系に入れるために娘に能力者の男の夜伽をさせ、子をなし結婚はしないというやり方をする一族さえあった。
もちろん能力者の女も引っ張りだこである。女性の場合は何人もの男を相手にする必要はない。腹は一つである。有力者の家に嫁いでたくさんの子を産みさえすればいいのである。ただ、なかには「腹を貸す」ものもいた。一族から頼まれて、男とのあいだに子をもうけ産み落とすだけの仕事である。
遠い過去の話であるが、能力者の男は子どもを孕む必要もなく、何人もの女と通じれば同時にたくさんの子が生まれることから、男娼のような扱いを受けていた時代もあった。当時の巫女が空の神から啓示を受けて始まったことではあったが、やり方については巫女の一存になる。そういうやり方をするのは力の弱い巫女に多かった。やみに呑まれるものが多く人口が減少する場合、手っ取り早く「繁殖」させるには効果的な方法であるため、能力者でなくても男娼が多くいた時期もあった。
皆、空人の繁栄のために割り切ってはいたが、だからといって妬みや嫉みは消えない。空の神への信仰とみずから持ち合わせる嫉妬とが常に葛藤していたことは容易に推測できる。
ともあれイデアの嫉妬が激しいため、ウルクはイデアにつき合いきれなくなった。イデアとのあいだに子もできないので別れを決めたという、よくある話であったが、イデアにとっては許しがたい「裏切り」であった。
そしてイデアの心の傷をえぐるような出来事が起きた。イデアがウルクと別れた直後に、姉のカツアとウルクの間に子ができたのである。ソウイのふたりの娘は能力者ではなく、ソウイは娘のどちらでもいいからウルクと結婚してほしいと願っていたため、カツアの懐妊を知ると大喜びで結婚を急がせた。
イデアは、父を、姉を、そしてウルクを一生許すまいと心に決めた。
そういうわけで小河原の里に土橋からの指示が来ると、キユウとイデアが中心となっていちいち反対意見を唱えていた。
コウはその事情を知っていた。
(キユウは土橋からの指示を真摯に受け取るか)
唯一の救いは北の者たちのモトン族への差別が少ないことであった。北の人々はモトン族と接することが少なかったからである。「うみんと」たちは北麓村に赴く機会が少なく「やまんと」たちも北山に潜伏しているかもしれないが滅多に姿を現さず、モトン族は北の人々にとって「未知」の存在に近い。また、北の人々の特徴として物珍しさが先行し冷たくあしらうということがない。特にキユウは好奇心旺盛である。ソウイに負けたくないという気持ちから、自分の力になるためのものであればどのようなことでも興味を持って取り組んでいた。日出浦の者たちを無下にすることはなかろう。
しかし「未知」は危うい。
差別というのはその者たちの距離が近いということである。近いからこそお互いの嫌悪感が図れる。いわばお互いを知っているがために嫌悪しながら認めているということである。「未知」の存在にはじめは好奇心で近寄ることもあろうが、相手の正体を見知り自分たちの価値観と違うとわかれば、表面は合わせるようにみせかけてまったく従わないという結果になることが多い。
いままでのコウならここまで不安がることもなかっただろう。しかしゲンの助言を得て今日はギルの話をじっくりと聞いてきたのであった。
(モトン族と空人の確執は根が深い。頭ではわかっていても体質が拒否することは大いにありうる)
コウは、今朝伝えたことばを再度各村に通達すべく東浜の伝達役を呼んだ。
各村には伝達役という役がある。巫女には空の神の啓示が突然降りることがあり、その指示を伝えるための役割で五人から六人備えてある。
コウは伝達役によくよくいい聞かせた。
「急ぎ伝えよ」
昨日も一昨日も西の伝達役が動いている。東浜の伝達役にコウが直接至急の指示を出すのははじめてであった。いままで見たこともないコウの厳しい顔に、東浜の伝達役は血相を変えて各村に飛んだ。
内容は今朝のコウのことばとまったく同じ内容である。しかし小河原に対してだけは伝達に向かう者の指定も加えた。
北の大長老テルイを指名したのである。
通常は大長老を遣わすことは考えられなかった。
キユウ一族はソウイ一族を毛嫌いしている。ルキクは里長という立場からコウの指示に従わないという選択はしないだろうが、父キユウを抑えるだけの力量がない。
キユウが誘導役の指示に従わなかったら小河原は全滅する。
川端の里の長老セグルであればキユウとの親交も厚く信頼を得ている。彼ならキユウを説得するかもしれない。しかし彼には川端の里を護ってもらわねばならない。しかも泉谷に大きなやみが出現することで祓い師の応援を依頼している。いまは長老を借りるわけにはいかない。
もう一つの里、泉谷。里の長老ノセはキユウとは旧知の仲であるが、物腰の柔らかい女性であり、あの頑固者のキユウを説得する力は持たない。しかもいまから大きなやみが出現するというときに、里の長老ノセを動かすことはまず無理である。
土橋の里にも、長老、里長、村役はそろっている。里の長老ナフサ、里長ヨシム。このふたりは、統率力はいまひとつだが優れた現場管理者である。ソウイ、ウルクの理想と里の現実との懸隔に頭を悩ませながらその理想を実現させ、またはつじつまを合わせるだけの力を持つ。さらに祓い師として力もある。村の中枢にも里役を置く意味は、村役が自由に動けるようにすることである。村役は里役の上司なので、緊急で巫女の指示を伝えるときに、村役が直接各里が出向けば効率は上がる。
が、北麓村の小河原ではあまり効果がなかった。北の中枢、土橋にはソウイ、ウルクという実力者がいるにも関わらず、小河原では火に油を注ぐだけである。
切り札は北の大長老テルイであった。
キユウはかつてテルイの愛弟子であった。テルイは彼の頑固な性格、ソウイに対する劣等感を十分に理解し正しく導いた。キユウはテルイを心から尊敬し感謝していた。
コウはテルイに小河原に向かわせるようウルクに指示を出した。それでもキユウがいうことを聞かない場合、コウ自身が直接小河原に赴いてやみを祓う予定であった。
(間に合わせる)
コウの策に間違いはなかったのだ。
ウルクが指示通りにしていれば。
コウの小河原への到着が遅れなければ。
小河原。時は少し遡る。
朝の緊急会議が終わってルキクは小河原の中心地に戻ってきた。
小河原の中心はルキクの屋敷であり、北の山間に位置する。山間に集落が見えてくる。小川が清らかな音を立てて流れ、家々のまわりには里芋の大きな葉がせまそうに並んでいた。
ルキクの屋敷内にも集会場が設置されている。広大な敷地には切り出された丸太がきれいに並べられている。この里では林業を営み上質な木材を生産していた。
屋敷のまわりに三つの集会場があり、そこに村学が設置されて数多くの祓い師の学び場となっていた。夜になると避難所となり人々が集まる。
ルキクが羽犬とともに降りてくると屋敷からキユウが出てきた。年齢は六十七と高齢であり、頭は禿げ上がっているが、手入れされた白いひげをたくわえ、色が黒い。厳しい目をいからせるようにして歩み進める。
ルキクはその息子であるが父には頭が上がらなかった。キユウの機嫌をいつもうかがいながら話を進める癖があった。
「父さん、ただいま戻りました」
キユウの機嫌は悪くないらしく、自慢のふさふさとしたひげを丁寧に撫でながら声をかけてくる。
「ルキク、ご苦労だった。状況は」
「父さん、ちょっと」
ルキクは父を少し離れたところに連れていった。
「実はコウさまからの指示で、うみんとたちをそれぞれの避難所におくということなんです」
「ほう。それはまたどうして」
キユウはモトン族に対する差別感は全くなかった。むしろじっくり話をしてみたいと思っているほどであった。
「昨日のやみがあまりにも強かったでしょう?」
「うむ」
「で、うみんとたちは察知能力が優れているので、対処できないようだったら逃げろってことで」
「逃げろだと? コウさまも気弱な」
「それだけひどい状況なんですよ」
ルキクはエフムとイクリに聞いた話をキユウに伝えた。
「ふん。どいつもこいつも気概のない。我々は日々精進している。対処はできる」
キユウは自信家であった。もちろん自信たっぷりのことばを発するだけの努力はしていた。それだけに大した努力もせずにへらへらしながら、自分以上に力を持つソウイのことが幼少時から気に入らないのである。しかもキユウはソウイを常に意識しているのに、ソウイ自身はキユウを相手にもしていない。それも気に入らない。
キユウにとってモトン族が配置されることが気に入らないのではなかった。コウに自分の力を認められていないと思うと気に入らなかったのである。キユウはモトン族を差別するほど小さな男ではなかったが、みずからの力を過信するあまりモトン族の力を軽視していた。
ルキクは厳格な父をいつも恐れていた。同時に、自分には他人以上に厳しい父を尊敬していた。とはいえルキクが里長になってからもう十年以上経つ。巫女や村長から直接の伝達を受けるのはルキクであり、長老となっている父にはいまひとつ現場の状況がまっすぐに伝わらないということが多く、苦労するところであった。
(対処はできるって・・・。父さんは昨夜のやみのおそろしさを直接聞いていないから)
そう感じながらどう説明したものか考えあぐねていた。
「父さん、それだけじゃないんですよ。南で祓い師と羽犬が呑まれたこと噂で聞いたでしょう? あれが厄介で」
ルキクは南での不穏な出来事を話した。これにはさすがのキユウも顔色が変わった。
「ううむ」
そううなったきり腕を組んで黙り込んでしまった。
「で、うみんとたちをそれぞれの避難所に派遣することにお決めになったんです。父さんの気持ちはわかりますよ。そりゃあそうです。私たちはどこの里より精進しています。ですがコウさまの指示ですし。とにかく指示に従うようにと強くおっしゃって」
「ちっ。それは仕方ない」
「で、これからうみんとが誘導役という役になって、我々にやみの出現がどこになるか、いつなのかを教えてくれるんですよ」
「それは都合いいことではあるが。まあいい。あのものたちは面白そうだし、いろいろと浜の情報も聞ける。今後の我々の仕事にも役に立つだろう」
キユウは好奇心で気持ちを逸らしたにすぎなかったが、なんとかいうことを聞いてくれたことにルキクはほっと胸をなでおろした。
同日。陽が西に傾いてきた頃。
小河原では山が近いため、空がまだ明るいうちに日の入りとなる。申の上刻、日出浦の者が四人派遣された。
ルキクは四人の汚い恰好をしたモトン族を丁重に出迎えた。
「私は小河原の里長ルキクと申します。イヌルさん、わざわざおいでいただき、まことにありがとうございます。これからどうぞよろしくご指南いただきますようお願いします」
ルキクが緊張して挨拶をしたが、対照的にモトン族には緊張感がない。どころか、どんぐりまなこをむき出しにしてにやにやしている、ようにルキクには感じられた。
背が低く、顔は浅黒い。浅黒い顔は空人にも多くいるが、その黒さが色白に見えるほど「うみんと」は潮焼けた色をしていた。縮れた黒髪が無造作に束ねられ、首には一応お守りを下げているが貝殻で作った粗末な首飾りもかけており、お守りはほとんど隠れている。イヌルは背が低いながらいかつい体つきをした老齢の男であった。おそらくキユウと同じぐらいの年であろう。
後の三人はその家族らしい。一人は中年の男。イヌルの息子でイデツルという男である。これがまたいかついからだでイヌルより一回り大きい。愛想笑いをしていたが目がぎらぎらと光っていてなにを考えているかどこを見ているか、ルキクには全く理解ができない顔であった。
後のふたりはその妻と息子といったところであろう。このふたりもよく似た風貌であった。
「やあ、あんたがルキクさんかの。ふんふん。わしらも世話になるんでの、気張って力を貸しますでのう」
イヌルは下から見上げるようにしてルキクを見た。ルキクはさほど背が高い方ではないが、モトン族にとってはでかい人種のひとりである。
イヌルがにやっと笑ったので酒の臭いがしてきた。ルキクは嫌悪感をおぼえたが、なにしろ巫女さまの誘導役である。嫌悪感をあらわにするわけにはいかない。
そこにキユウがゆったりと歩いてきた。
「父さん、誘導役の方々です。ええとイヌルさん、こちらがイデツルさん。その奥さんと息子さん。ええと名前は」
「ライナとクイルですがね。やあ、わしゃあ日出浦に長く棲んどるイヌルっちゅうもんじゃ。長老のキユウさんかね。コウさんから話は聞いとるよ。えらい強い人やってなあ」
「いやいやそんなことはない。これから世話になります」
キユウは居丈高な挨拶をした。キユウにとって誘導役がなんの役に立つかという気持ちはあったが、いきなりほめられてまんざらでもないようすでひげを撫でまわした。
「ところでのう、早速じゃが仕事させてもらうでの。今日はここ小田原、やったかいの? イデツル?」
「父さん、いつまでも覚えんで。小河じゃ、おがわ。のう、ライナ。」
妻のライナはそれまでにやにやして立っていたが、いきなり名前を呼ばれて「へ?」と発声しただけであった。そこに後ろから息子のクイルが出てきて、慌てて父イデツルの擦り切れた袖を引っ張った。どうやらこの四人の中ではいちばんの常識人のようである。クイルは小声で忠告した。
「違う違う、小河原だよ」
「じゃけん、おがわ、じゃろう」
「違うって。お・が・わ・ら!」
「なんの、おがわもおがわらも変わらんじゃあ」
ここでイヌルがふんふん、とうなずいて
「そうそう小河原じゃ。ふんふん」
とにやにやとした。
キユウは片眉だけ上げて腕組みをした。長い白髪交じりの左の眉毛が少しなびく。機嫌の悪い時の表情である。大事な里の名前を間違えられてむかむかしていたのであろう。
ルキクはそのようすを見てはらはらしながら話をすすめた。
「イヌルさん、で? ここ小河原で?」
そこでイヌルは、あっと気づいたように、
「おお、そうじゃそうじゃ。その話をするんじゃった。へへ」
緊張感のない笑いにキユウはますます機嫌が悪くなった。が、イヌルは一向に構わない。
「ふんふん。今夜、ここにモノノケが来る。おまえさんらが『やみ』ちゅうとるもんじゃ」
あっさり言われて、キユウもルキクもはっとした。
「それはどれぐらいの大きさなんですか」
「やあ、昨夜ほどじゃあないが。じゃがの、ここの避難所から離れた方がええのう。コウさんは東浜においでてゲンさんは南じゃ。コウさんがあとで来る、ていうとったが、こんままじゃあ間に合わんのう。時間は子の上刻。同じころ、泉原っちゅうとこにも出る。中くらいのモノノケじゃがいくつかおるのう。油断すれば呑まれる」
ルキクはここから全員を別の場所に移す算段をはじめた。
(動かすとしたら川瀬か)
イヌルがにやにやしたままルキクのほうを向き直って
「心配せんでええが。場所はもう決めとるでの。この里にはよう風の通ってえろう気持ちのええとこがいくつかある。そのなかで一番近いとこを三か所選んどる。わしらが案内する」
という。
ルキクは自分の心の中を読まれた、と思ったとたんぞっとした。得体の知れない生き物を目の当たりにした思いであった。
するとキユウが腕組みをしたまま強い口調でいい放った。
「逃げはせん! いまこそ我らの力を見せようぞ。我らは北麓でも一番修行を積んできた」
イヌルは目をいったん伏せた。予想していた最悪の返答がきたという具合であった。
「キユウさん」
イヌルはゆっくりと目を開けた。さきほどまでのにやついた顔ではなかった。
「そりゃいかん。いかんが」
大きな黒目がぎょろっと動き、キユウをじっと見た。キユウは射すくめられて返事ができない。
「こればっかりはわしも譲るわけにゃいかん。コウさんと約束しとる」
キユウは気を奪われたことを悟った。同時にそのことが悔しくて意地になった。
「いや、逃げるという選択はない。小河原にはそんな根性なしはおらんぞ」
ルキクは慌ててキユウを止めた。
「父さん! いけません。日出浦の人たちはやみの察知に優れています。長く日出浦に住んでおられるイヌルさんがおっしゃっているんです」
キユウは目をむいた。
「なにをいうか! ルキク! おまえはそこまで根性なしか!」
顔が紅潮し手がぶるぶると震えている。多くの弟子たちがいる前で息子に叱られた格好になり、自尊心がひどく傷つけられたのである。
「父さん! いまのやみは以前のやみとは違います。そのように土橋から報告が来たでしょう」
「ふん。ソウイやウルクのいうことだろうが。あいつらはいつも大げさに物事をいう。あいつらのいうことなど信用できんわ。それに昨日ほどのやみじゃないというではないか。だったら対応できる」
ルキクはここでひるんではいけないと思った。
(いままでなら父のいうことに従っていただろう。それで良かった。だが、父さんはいまの非常事態を甘く見ている。このままだと里が危ない)
「父さん。コウさまは、誘導役の指示に従わぬものは呑まれるとおっしゃいました」
「わかっている。しかしそのあと、みずからの力でなんとかできる者は指示に従わずともよいといわれたのであろう? 自分の生き方は自分で決めるものだ。どのような選択がなされたとしても責めを負わぬ、とも」
「それはそうですが・・・」
「だから私は私の力でできるといっておる。逃げたいものは逃げてよい。しかしできると思ったものは残ればよい」
「えっ。各々で決めさせるのですか」
「四の五のいうな。私のやりかたでやる」
ルキクは威圧されて黙りこみ、この父を相手にどう説得したものか考えた。
そこに後ろから涼しげな声がした。
「キユウ、この里の長はルキクじゃ」
皆が振り返ると、そこには背の高い老人がたっていた。ソウイである。
「ソウイさま・・・!」
キユウを除いて全員が膝をつき礼をとった。ざざっと音がして皆が沈み、ソウイとキユウが対峙した。まるで二人だけを浮き彫りにするために皆が沈んだように見えた。ソウイとキユウはしばらくの間無言でにらみあったが、ソウイがすっと視線を落としてルキクに声をかけた。
「ルキクよ、足りんな」
「は? 足りない、でございますか?」
「おう、足りん」
「なにが、でございますか」
「おまえの決意が足りん、というとるのじゃ。責めを負うのが怖いんじゃろう。このまま父の笠のうちで生きるつもりか」
ルキクはいわれたことの意味がわからなかった。
(決意が足りないって? 決意せずに長になどなるものか。決意ならとっくの昔にしている。いったいなにが足りないというのだ)
キユウが怒りの声をあげた。
「ソウイ! おまえが口を出すことではない!」
「ははは。キユウ。元気そうじゃな。うん、おまえの決意は固いな。相変わらず大したもんだ」
キユウは驚いた。
(大したもんだ、と?)
高評価のことばだと判断した。ソウイは自分のことなど気にも留めていないと思っていたので、思わぬ方向から満足感が押し寄せてきた気分だった。しかし同時に「大したもんだ」ということばが傲慢に思え、見下されているのだと思い直した。
「おまえに評価されなくともよいわ! とにかく里の問題なのだ。おまえは関係ない」
ここでルキクははっとした。
(そうだ。ソウイさまの問題ではない。里の、私たちの問題だ。いや違う。私の問題だ)
ふたりの口論は続いていたが、ルキクは割り込むようにして声を張り上げた。
「ソウイさまも父さんもおやめください! これはおふたりの問題ではありません。私の問題です」
ソウイは目を細めた。
「おお。よういうた。その通りだ。で? どうする?」
「もちろん誘導役の案内に沿って小河原から離れます」
「なんだと? おまえはっ」
キユウは目をむいて怒りをあらわにした。そのキユウの強いことばをルキクはさえぎった。
「父さんは私の指示に従ってください」
「な・・・」
「小河原の里長は私です」
ルキクは意を決してきっぱりといい放った。父を直視するとくるりと振りかえり、その場に控えていた補佐役を呼んだ。
「屋敷の中にいる者たちをすぐにここに集めよ!」
するどい声であった。
ソウイの満面の笑みと反対に、キユウはぐっと喉をつまらせたような顔をして渋面をつくっていた。こぶしをぐぐっと握りしめ、舌打ちをして大股で屋敷に入っていった。
そのキユウに礼をとりながら、ぞろぞろと人々が屋敷から出てきた。ルキクは指示を伝えた。
「よいか。やみの出現は子の上刻。亥の中刻までには小河原から離れる。四つの班に分け、誘導役四人を各班に一人ずつ配置する。祓い師は均等に配分する。誘導役の指示に必ず従うように!」
村人から不安の表情が隠せない。皆、「うみんと」を気にしている。
ルキクはイヌルたちを丁寧に紹介し、全員を三つの班に分けた。
途中で一組の夫婦から申し出があった。
「ルキクさん、俺たち家に戻りたいんです」
「それはだめだ」
「だって、うみんとは小河原でやみが出るっていってるんでしょ? だったら俺んとこは小河原から外れているし、大丈夫じゃないかな」
「いや、昨夜のやみのことを考えると危険だ」
「でも明日の仕事の準備もしたいし。このところ家にいる時間が少なくて、うちのやつも落ち着かないんだ。なあ、おい」
「そうですよ、ルキクさん。これからはうみんとたちもいることだし、少しは便宜を図ってもらってもいいでしょう?」
一組の夫婦の申し出で、人々がざわめきはじめた。
「そうだよな。亥の上刻に指定の場所にいけばいいんだろ?」
「そうよ。私も縫い物がたまっているの。もう何日も放っているのよ」
場が混乱し、ルキクは困惑した。
(この場に父さんがいたら、誰もこんなこといえないくせに)
キユウはふてくされて屋敷に入ったままになっている。
ルキクはソウイを見た。ソウイは知らん顔をしている。その横顔がひどく厳しく、ルキクは息を呑んだ。
(はっ。私はなぜソウイさまを見たのか)
ルキクは恥ずかしさのあまり目を閉じた。
これが「決意が足りない」ということなのか。「私の問題です」などといっておきながら、ソウイさまに決めてもらおうと一瞬考えたのだ。これが「責めを負うのが怖い」ということなのか。決めるのは私しかいないのに。私が決めるのだ! 私の決意が最悪の結果を招いたとしても、そのすべての責めを負って生きていく覚悟をするのだ!
ルキクは目をあけ、皆のようすを観察した。場は困惑している。キユウが場にいなくなり、一同が解放された気分になったのか、ルキクを見くびっているのか、いずれにしてもルキクの指導力の不足が理由であろう。
ルキクはきっぱりと声を発した。
「今夜はだれも自宅に帰ってはいけない。誘導役の指示に従うのだ」
だが、人々は要求を続けた。それどころか「うみんと」に対する不信感をことばにするものもいる。
「うみんとなんて信用できるの?」
「そうよ。安全な場所に連れていくっていったって、本当に安全なのかどうかわからないわよ」
「俺たちも生活があるんだよ。ルキクさん、わかってくれよ」
「ルキクさん、私たち夫婦はこの人たちみたいにうみんとの悪口なんていってないでしょ? うみんとの指定した場所に必ず行くっていってんだからさ。私たちだけでもお願いしますよ」
「自分たちだけいいこといって。結果は同じじゃないか」
口げんかをはじめるものもいた。場は騒然となり、いろんな意見と要求でどうしようもない。
ルキクが再度ことばを発しようとしたそのとき、地が鳴り響いた。いや、鳴り響いたかと思ったほどの声がした。
イヌルであった。笑ってはいなかった。
「いかんっていうとるがああ!」
イヌルは震えていた。震えながらがなりたてた。
「絶対いかんのじゃあ! よう聞けよ、皆の衆! おめえらはの、昨夜のモノノケを知らんじゃろうが。あれはのう、あれは」
ここでイヌルがことばをとめたので皆がイヌルのようすをうかがった。イヌルは握りこぶしをわなわなと揺らしていた。さっきまでにやにやしていた、あの好々爺が恐ろしい顔をしている。
「あれは、あれは得体のしれんやつじゃった。いままでのモノノケじゃなかった・・・」
人々は固唾を呑んだ。
場がしんと静まったところでイヌルははっと我に返った。
「ああ、すまんすまん。ちょいと昨夜のことを思い出してのう」
イヌルはへへっと笑い、ことばをつづけた。
「なにがあるかわからんのじゃよ。いまのところは小河原に出るっちゅうことがわかっとるだけじゃ。他の場所でまったく出らんとは限らんのじゃ。まったく出らん夜もある。が、今夜はいかん。いつ気が変わるかはわからん」
イヌルは好々爺に戻っていた。その変化がかえって恐ろしく、人々はしばらくことばが出なかった。
すると響きのある声が聞こえた。
「指示に従わぬものは呑まれる、といっておるのだ」
人々ははっとして声の主を探した。コウの声だと思ったのである。しかし、声の主はルキクであった。ルキクは半分無意識でことばを発していたことに気づき、慌ててことばをつづけた。
「あ、いや、今朝コウさまがそのようにぼそっとつぶやかれたんだ。そのあと、『生きたいものは私に命を預けよ』といわれたんだ。・・・はっきりいって仕事も進んでないし、家事も滞ったままであろう。しかし、こらえてくれ。帰ってよい夜があれば短時間でも必ず伝える。よいな」
一同には納得の色が漂った。が、不満が残った顔をしている者、恐ろしくて震えている者もいる。
ルキクはふうっと息をついた。すると背中にじわっとあたたかいものを感じた。振り向くとソウイの手が背中に当てられていた。
(ああ)
ソウイはルキクを見て、笑うでもなくただうなずいた。
「ルキク、時間はないぞ」
「はい。ソウイさま、ありがとうございます」
ソウイは屋敷の中に入っていった。キユウと話すためであった。
ソウイはキユウが自分のいうことを聞くとは思えなかった。だからといってなにもいわずに帰る気にはなれなかった。
(ライさまのいいつけを守らなかったから、その報いであろうな)
ライは生前たった一度、
「キユウ一族とは早いうちに和解しておけ」
とソウイにいったことがあった。
ソウイは「和解」という意味がわからなかった。なぜならキユウ一族とけんかをしたことは一度もなかったからである。
娘のイデアが自分を嫌っていることは知っていたし、その理由もわかっていた。が、真剣に向き合って考えることはなかった。当時は北麓村の長の立場にあり、その後も長老という重要な役に就き、考える暇がなかった。・・・ということにしてソウイは納得していたが、実際は理解不能な「女の感情」から逃げたかったのだろう。ソウイの妻が生きていたら、もう少し違った結果になったのかもしれない。
キユウが自分を嫌っていることは友人から聞いて知ったほどであった。理由もさっぱりわからない。ソウイはそれほど無頓着であった。
無頓着というより、ソウイは個人的な感覚での好き嫌いに興味がなかったのである。ソウイの興味はお空さまの思いをまっすぐに受け取り、それをどれだけ実行できるかという一点であった。ただ年を重ねるごとにその思いは最終的には、人間の欲、嫉妬などで遮られることはわかってきた。
娘イデアの「恨み」については、血を分けた娘なのでいつかはわかってくれるだろうと思っていた。しかもイデアの個人的な感情であり、私的なことに対して「和解のための行動」を起こすことは、村の長老という公的な立場が許さなかった。
が、その公的な立場からキユウのことは放っておくつもりはなかった。ソウイはもともとのんびりした性格である上に、必ず「誤解」はとけると信じていただけであった。お空さまを信じることと人を信じることは同じことだと強く思っていた。ただ、ライにいわれてからというもの早くなんとかしなければと思っていたが、ヨウが亡くなりやみの威力が増し、対処しているうちにいまになってしまった。
廊下のつきあたりにキユウの自室がある。
廊下は騒がしかった。人々が小河原から逃げる準備で忙しいのであろう。
キユウの部屋の前にはキユウの弟子が一人、息をひそめて座っていた。彼はソウイの姿を見とめるとさっと礼をとった。キユウに鍛えられているだけあってその行動にはそつがない。
「キユウは」
「はい。中に」
「入るぞ」
「あっ、ソウイさま」
「なんじゃ」
「あの、ソウイさまだけはお部屋に入れないようにと」
「気にせんでいい」
「ですが」
「よいか、キユウの愛弟子よ。わしだけは入れるな、ということは、わしが来ることがわかっていた、ってことじゃ」
「はい」
「ということは、わしを待っている、ということじゃよ」
「はあ」
「ここでわしが部屋に入らなかったら、キユウはさぞかし残念がるじゃろな」
「はあ」
キユウの弟子は(ああ、そうかもしれない)とでも思ったのだろう。幻術にでもかけられたような表情をしていた。ソウイはにやりと笑って部屋の扉を開けた。
「あ」
弟子が我に返った時はすでにソウイは部屋の中に入ってしまっていた。
キユウは胡坐をかいていた。もうひとりの弟子が横にいた。キユウはぎろっとソウイをにらんだ。
「なんの用だ」
ソウイは静かにキユウに歩み寄り、ぽつりといった。
「おまえ、どうする」
「さっきいった通りだ。ここに残る」
「呑まれるつもりか。まあ、わしがなにをいうても聞かんか」
「じゃあ、いうな」
ソウイは改めてコウの指示に従わなかったことを後悔した。テルイが小河原に来ていたらキユウはここまで頑固にはならなかっただろう。
「おまえはそれでよかろうが、残されたわしはテルイさまにどう報告すればいいかのう? テルイさまはどう思われるか。のう? キユウ」
(テルイさま)
キユウはテルイの姿を思い浮かべた。
若いころ、キユウがソウイへの劣等感で自暴自棄になっているとき、テルイだけがキユウを理解し熱心に指導した。テルイの力でキユウは祓い師にも里長にもなれたと思っている。
キユウは横にいる弟子に声をかけた。
「おまえたちは全員、たったいまから破門だ」
「えっ! いまなんと」
「だから破門だ。皆にそう伝えよ。身の振り方はルキクに託す」
「キユウさま。そんな」
「いいから行け」
「ですが」
「早く行かぬか!」
キユウは怒鳴った。
「は、はい」
男はとぼとぼと部屋を出て行った。
キユウは胡坐をかいたまま、じっとして動かなかった。ソウイはその横にどっかと腰を下ろした。キユウは遠くを見るような目つきでいった。
「ソウイ。私には私の生き方がある。小河原で生まれ、小河原で育ち、小河原で死ぬ。呑まれるのなら小河原で呑まれる。それがお空さまから与えられた使命だと思っている。であればコウさまはすでに承知されているはずだ」
「コウさまはテルイさまに小河原に行くよう指示された」
「・・・テルイさまに」
「じゃが、わしがどうしても行きたいと無理をいった」
「テルイさまがおいでになったとしても私の道は変わらない」
「コウさまがどのようなお気持ちでおられるかは、わかるな?」
「・・・」
「コウさまは、おまえがここに残ることを承知されていない」
「・・・」
「残された者はどうする」
「ルキクがいる」
「ルキクを助ける役目があるだろう」
「イデアがいる」
ソウイははっとしてキユウを見た。キユウは話を続けた。
「ルキクは少し気が弱いところがある。イデアの気の強さがルキクを支えている」
「そうか」
ソウイは頭をかきながら下を向いた。
「イデアはよくできた娘だ。おまえの娘とは思えん。私にもよく仕えてくれた」
キユウはことばをとめた。ソウイはどうしたのかとキユウを見ると、キユウはまっすぐにソウイを見ていた。
「ソウイ、おまえだって長くはない」
「ああ」
「だから早くイデアと話をしてやってほしい。イデアに後悔させたくない」
ソウイは背中から意外なところを突かれた感じがした。
キユウの視線は優しかった。
ああ、キユウは息子の嫁であるイデアをわが娘のように思っている。わしのことを嫌いなくせに、わしの代わりにイデアに愛情を注いでくれていたのだ。
しばらく沈黙が流れた。
キユウが静かに話しはじめた。
「私は早くすべてをルキクとイデアに任せてしまえばよかったのかもしれないな。ルキクは、あいつはなあ、末っ子で甘えん坊だった。が、私の他の子どもたちは次々とやみに呑まれてルキクだけが生き残った。まあ、私だけがそんな目に遭ったわけじゃないがね。なあ、ソウイ」
ソウイは妻子をやみに呑まれたときのことを思い出し、唇をかんだ。
「数年後、妻は病死した。あいつには優しい母さえいなくなり逃げ場がなくなった。ルキクは泣いてはいられないことを悟り、厳しい私に一生懸命ついてきた。あいつは、小さい腕と小さい脚をいっぱいに伸ばして甲高い声を張って、涙を流しながら祓いの型をおぼえていた。私は、もういい、そんなことしなくていい、といってやりたかった。抱きしめてやりたかった。だが、できるわけがない。だからな、私はその姿を決して忘れないと決めた。そしておまえだけは私の命のある限り、一生守ってやると誓った。そしてそうしてきた。しかしわかっていたのだ。私ではいけないということを。守ろうとすればするほどやりすぎてしまう。私は不要なのだよ。もうずいぶん前からわかっていた。これはいい機会なのだ」
「これから変わっていけばいい」
「ふっ、おまえらしいな。だが私はおまえではない。私は私の生きかたしかできない。・・・私はな、ソウイ。ずっとおまえが嫌いだった」
ソウイはキユウを見て驚いた。キユウの顔は、ことばとは裏腹に好意にあふれていたのであった。ソウイは気後れして返事に窮した。キユウはことばを続けた。
「おまえの指示には常に反対してきた」
「知っとるわい」
「なんで嫌いなおまえがいつも私の上にいるのだと、いまいましい思いでいた」
「そうか」
「しかし、いまわかったことがある。私はおまえの指示には反対してきたが、結局はおまえの指示に従っていたことになる。反対することは従うことが前提なのだから」
「いまわかったのか」
「ああ」
キユウは笑った。すがすがしい笑顔であった。
(キユウめ、なんて顔してやがる)
「つまりな、ソウイ。私の上はおまえじゃないといけなかったのだ」
「そうじゃな」
「そうやってぬけぬけというところが気に食わないんだよ」
「そうか」
ソウイも笑って見せたが、うまく笑えなかった。
「だからな、ソウイ」
「なんじゃ」
「最期だけは私のいうことを聞いてもらう」
「うむ」
「それでよいな」
「わかった」
ソウイは立ち上がって部屋を出た。一度もキユウを振り向くことはなかった。キユウも一度もソウイを見なかった。
部屋の外の廊下でふたりの弟子が人形のようにじっとしていた。ソウイの姿に気づくと、二人ともほとんど同じ動作で膝をつき礼をとった。ソウイは彼らに声もかけずに廊下を歩きすすめた。
ソウイは泣くことも笑うこともできなかった。ただ、ぼうっとしながら廊下を歩いた。
(あんな顔しやがって。自らの死を予期したやつはいつもああじゃ。ああやって悟った顔になりやがる。そして、わしはいつも残される)
ソウイはキユウにはじめて嫉妬をおぼえた。
廊下は怖いほど静謐であった。
さこほどまで屋敷にいた人々はほとんどいなくなっていた。ただ、ソウイの足音が、ひた、ひた、と音を立てた。
ソウイはうなだれて力なく歩き続けた。足枷を着けて歩いている囚人のように。
屋敷の入り口のほうから、たったった、と力強い足音が聞こえてきた。ソウイはその足音に誘われるように前を向いた。
ルキクであった。ルキクはソウイに気づき、はたと立ち止まった。それからなにかいいたそうな顔をしてソウイを見たが会釈だけをして通り過ぎた。ソウイはつぶやくように声をかけた。
「キユウは戻らんぞ」
ルキクは足を止めた。
「わかっております」
「別れのあいさつでもするつもりか」
「いえ。弟弟子がふたり、まだなかにおります。その者たちをむかえに」
「あれは動かんな」
「それも承知です」
「そうか」
「はい。では失礼」
ルキクはまた、力強い足音を鳴らして走って行った。
ソウイは「ふふん」と笑って屋敷の外に出た。