猪野口の里
山の中腹から川の流れの音がする。川をはさんだ向こう側に松明の灯りが見えた。かがり火がたかれ、古い田舎家をぼんやりと照らしていた。どうやら牛や馬が収容されているらしく、大きな牛舎と馬舎が並んでいた。手前の庭が大きく広がる。
サイナが先に広場に降りた。シャシャが地上に降り立つ前にぴょーんと飛び、見事に着地した。そのあと静かに降りたシャシャの横で、腰に手をかけて人々をじっと見ている。
居合わせた人々は、ゲンとサイナが一緒に来たことに驚きを隠せなかった。
「おい、あれ、あの娘」
「ほんと」
「なんでゲンさまと一緒なの? これじゃゲンさまに近寄れない」
「なんでもコウさまの指示とか」
「あの娘、コウさまに気に入られているからっていい気になってやがる」
「よせよせ、聞こえたらただじゃすまないぜ」
「そうだよ。こないだひどい目に遭ったやつがいたぜ」
「ありゃ、人間じゃないからな。獣だよ」
「いやあね。あんなぎらぎらした目してこっちにらんでる」
「コウさまもなんであんな娘を」
「コウさまは仕方なくなのよ。もともとはサクさまがいけないんだわ。コウさまの遊び相手としてあの娘を連れてきたんだから」
「それをいうならライさまだっていうぜ。ライさまはずっと日出浦に行ってらしただろ? やまんととだって仲良くされてたんだと」
「だいたい、巫女さまたちはなんであいつらをひいきなさるんだ」
「そうよ。お空さまを信じようともしないのに」
「やまんとなんてみんな呑まれてしまえばいいのに」
ひそひそと話し合っていたが、ゲンには人々がどういう感情なのかよくわかった。
(すごい邪気だ)
突き刺すような視線をした群れの真ん中を、サイナは割って入るようにずかずかと歩きすすめた。
「ねえ! こそこそいっても意味ないわよ。直接いってくんない? そういうのを陰口っていうのよ。知ってた?」
完全な挑発だったがだれもその挑発に乗らない。サイナは強い気を放ちながら人々の邪気を蹴散らす。 人々はじりじりとあとずさりながら、声をひそめて口々に嫌悪感をことばにする。
「あんな嫌ごというなんて」
「まったくだ。生意気な」
「やあねえ」
「礼儀だってなってないし」
そのことばを浴びながら、サイナは口元に笑顔さえ浮かべ、
「ふふん」
といって、それぞれの顔をじっと見ながら歩いた。見られたものたちは目をそらす。
そこにものすごい勢いでどたどたとかけてくる女性がいた。地面がどしんどしんと揺れた。「おばちゃん」という形容がぴったりの中年女性であった。
三角巾を頭に巻き、そこから茶色い髪を振り乱している。目が細く、いや頬の肉がぱんぱんに張っているせいで目が細く見え、人の二倍はあろうかという胴まわりで、やけに小さい白い前掛けをしている。骨太のからだにたっぷりとついているぜい肉をぶるんぶるんと揺らして走ってきた。
「ほーら! あんたたち、まーたさぼってんじゃないよ! ほらほら、なかに入って手伝っとくれ! まったく忙しいってのに」
男かと思うほどの野太い声で、ばしばしっと男も女も尻をたたかれた。きゃあとか、わあっとかいう悲鳴があがり人々はぱたぱたと屋敷に入った。屋敷のまわりに備え付けてある松明がゆらゆらと揺れ、しばらくすると広場は静かになった。
(勢いだけで邪気を祓ったか)
ゲンは感心してその「おばちゃん」を見ていた。そのあと「おばちゃん」は頭の布をさっと外し、前掛けをとってゲンの前に膝をついた。
「ゲンさま。申しわけございません。あいさつがおくれました。私、猪野口の里長トオリと申します」
そういわれると、今朝ガクウの後ろにいた女性だとわかった。そのときはやけにおとなしい中年女性だ と思ったが、
「ああ。おぼえている。今朝、会議で会ったな」
「あらま。おぼえていただいてるって。ほら、みんな! どーだい? ええ?」
そういって後ろを振り返った。さっきまでいた人々に誇ったつもりだろうが、みなすでに屋敷のなかに入っている。
「あら、やだね。私があいつらをなかに入れたんだった。はは。・・・あ、申し訳ありません。ゲンさま」
サイナはそのようすを見て、ぷぷぷっと笑い、
「トオリ、相変わらずね」
といって、トオリのふくよかなからだに抱きついた。トオリはサイナをいとおしそうに抱きしめ、頭を撫でた。
「サイナ! ひさしぶりだねえ。大きくなったじゃないか、ええ? ・・・背はあんまり伸びてないようだけどさ」
「ひとこと多いわよ」
トオリはサイナのことばを聞いていない。
「今日はご苦労だったね。おまえ、ゲンさまに余計なおしゃべりしてないだろうね」
「まあ、トオリ。私、余計なおしゃべりをすることが今日の仕事なのよ」
「そんなばかなことがあるかい」
「本当なんだからあ。コウちゃんに聞いてみてよ」
「はいはい。わかったよ」
「あ、信じてないでしょ」
「信じてるって」
トオリは、がははっと笑った。
(こいつら放っておいたら、このままいつまでもおしゃべりするぞ。女ってのはそういうものだろうが、そうそう合わせるわけにはいかん)
ゲンは咳ばらいをして、きつめにことばを発した。
「トオリといったな」
「はい」
トオリはサイナをからだから遠ざけて気丈な返事をした。
「今日の段取りは」
ここでトオリは里長らしい顔になった。
「ここからすぐ先にあるトウキビ畑に、子の上刻、やみが現れるとのこと。日出浦の者たち、いえ、誘導役から聞きました。あまり大きくないらしく、三人の祓い師とトウキビ畑の管理者を向かわせます。それまでは交代で二人の祓い師と畑の作業員の三人で見まわりをする予定でございます」
「オレはこれから、葛原に行くことになっているが」
「はい。存じております。猪野口はご心配なく」
「そうか。ここの誘導役にはエコルがいるのだな」
「はい。エコルとその家族合わせて三名が派遣されました」
「いま、ここにはいないのか」
「いえ、あそこに警鐘台を備えておりますが・・・」
トオリは少し離れたところに設置されている警鐘台を指差した。ゲンが見上げるとサイナがシャシャに乗ったまま警鐘台のまえで浮遊している。警鐘台からはエコルが顔を出していた。ふたりはなにか話をしている。
「どうしてもあの台にいるといいまして」
トオリのいいかたが濁った。ゲンはおおよその経緯がわかった。
「エコルたちが不自由しないよう気を遣ってくれ」
「はい。心得ております」
トオリはきっぱりといったが、そのことでゲンにはトオリの苦労が思い知らされた。
今朝の会議での長たちの反応。それは長それぞれのモトン族への嫌悪感ではなく、空人に植え付けられている根深い差別感を抑えられるかという懸念だったのだろう。
「おまえたちも大変だろうがよろしく頼む」
「はっ。おことば痛み入ります」
トオリは再び膝をついて礼をとった。
サイナがシャシャに乗って浮遊しながら上から叫んだ。
「ゲン、私、先に行くわ! 上で待ってるから」
シャシャはひゅうっと空に昇って行った。
ゲンも飛び上がったが警鐘台のまえで止まった。
「ゲンさーん!」
エコルがうれしそうに手を振った。日出浦の里長である。エコルはモトン族のなかでは一番背が高く、すらっとしたからだつきを持っていた。いくらか空人の血が混じっているらしい。肌の色は浅黒く、黒髪で黒い瞳に間違いないが、その瞳はモトン族にしては薄く細い。
「おう、エコル。昨夜は世話になったな」
「なーんも。楽しかったのう」
「不自由なことはないか」
「なーんも。ここで家族三人、ゆっくり高みの見物じゃあ。なあ」
エコルがうしろを見ると、せまい警鐘台のなかでエコルの妻と息子がにこにことしてうなずいた。
「そうか」
そうはいっているが三人で警鐘台にこもっているということは、さすがに「なーんも」なかったということもあるまい。ゲンが少し困った顔をしているとエコルが笑い出した。
「はは。俺らは慣れとる。それにここはやみの出現を早う知らせるための警鐘台じゃ。俺らは警鐘台の代わりにここに来とるわけじゃから、ちょうどええが。まあ、警鐘台なんかよりずっと役に立つがのう」
エコルはにやっと笑い、ひそひそ声になった。
「んでの、自由に酒が飲めるし、猪肉だって、ほれ」
さっきサイナが渡したのであろう。
「ま、そうだな」
ゲンは少し安心した。
「ゲンさん、気いつけてな」
エコルがひどく心配したような顔をしていた。
「大丈夫だ。おまえたちのほうこそ無理するな」
「うん。ありがとう、ゲンさん」
ゲンはサイナを追って飛んだ。
空は透き通るような黒で雲ひとつない。下弦の月はまだ天上に届いていない。星々は天高く、月が昇ってくるのを見守っているようであった。
サイナはさらに空高く浮遊し、鋭い目つきで遠くを見据えている。
ゲンはサイナに殺気を感じた。獲物を見据えるような目つきと前かがみの体勢。全身の気迫が充実し、感覚のすべてを研ぎ澄ましてなにかを得ようとしているのがよくわかった。それがわかるのはゲンのからだが獣だからかもしれなかった。
ゲンは近くによらず、少し下でサイナの気を感じていた。そうしているとゲンの感覚も透明になるような気がした。するとサイナが得ようとしている情報が少しわかってきた。
(小さいがここから南西の方向にやみの気配を感じる。サイナはそれを感じているのか)
サイナはさきほどのおしゃべりな少女ではなくなっていた。
「モトン族」という人種は確かに「空人」にとっては別世界の生き物であろう。だからこそ嫌悪感につながる。ゲンにもその気持ちがわからないわけではない。
別世界の生き物という意味では「やみひと」と「モトン族」は「空人」にとっては同じ「恐怖」を与える存在であろう。「モトン族」とはことばが通じるだけに近しい存在であり、それが「恐怖」から「差別」の対象と化している。
他の里に配置されたモトン族はいまどうしているだろう。エコルたちみたいに警鐘台に逃げこんでいるのだろうか。
空人たちのモトン族への恐怖がなくならない限り、空人とモトン族の確執はなくならないだろう。自分自身の内なる力がモトン族を恐怖と感じないほど大きい者だけが、その存在を無条件に受け入れられる。
ゲンはサイナの殺気がふうっと解かれたのを感じた。
サイナはゲンを見た。
「もういいわよ。行きましょう」
サイナはシャシャを促して飛び進んだ。
「猪野口の人たちの反応、見たでしょう? いつもああなのよね。あんなふうにいえば私がひるむとでも思っているんでしょうけど、残念ながらなんともないわね。大変なのはトオリたちなの。なつかない山犬を無理やり猟犬にしているようなものね」
ゲンはサイナが無理におしゃべりをしているように思えたので、
「ところで、やみの気配がするのだが」
と、いってみた。するとサイナの表情が曇った。
「ええ。場所はわかったわ。いまから葛原に向かうけど葛原から西寄りに飛ぶと、蒲生というところがあるの。そこから少し山奥に入ったところだけど、あきらかにモノノケの気配がする。さっきエコルもそういってたわ。それがすごく、うーん、なんというか不安定で見え隠れするのよね。だからエコルははっきり場所がつかめなかったらしくて。仕方ないわ。ここからは遠いし、エコルに細かい地名までは無理ね」
「しかし、小さいな」
「そう。大きくはないのだけれど」
「けれど?」
「モノノケなのか、獣なのか、まったく別モノか、いまだに判別できない。ううん、違う・・・。それが一体になってるような」
「なんだって」
「とにかく得体が知れないヤツなのよ。昨夜も同じものを感じたの。昨夜は一瞬だったからここまで分析する暇がなかったけど」
「まさか、犬が淵」
「そうよ。祓い師と羽犬が呑まれたとこ。そいつがやったのね。モノノケとしては大した大きさじゃないのに・・・」
(なるほど、さっきのエコルの顔。猿沢でのタキメルのようす。そのことだったか)
サイナはいいにくそうにしてことばを続けた。
「確認のために聞くけど、ゲンって昨日、犬が淵には行っていないのよね?」
「ああ。行っていない。なぜそんなことを聞く」
「そいつから受ける気が、ゲンの気と似たところがあって」
(あっ)
昨日から頭のなかに立ち込めていた靄が、一瞬にして晴れ渡ったようにゲンには思えた。
――-しゅるっと、渦を巻くように。
(まさか、あいつが)
しかし、ゲンはすぐに打ち消した。
(いや。ありえない)
サイナはゲンのようすに気づくことなく話し続けていた。
「昨日は一瞬だったし、勘違いかもしれない。いまも感じているけど、なにしろ存在が薄いのよ。もう少し近づけばわかるんだけど。それにゲンに似ているといっても枠が似ているだけで、中身が全然違うっていうのか・・・そうねえ、正反対っていうか」
サイナはゲンに気を遣っているのか懸命に否定しようとしている。しかし、そう頑張れば頑張るほど「同質のもの」ということを証明していた。
ゲンはいてもたってもいられなくなった。
「すぐに向かう」
(もしもこの疑いが本当ならこの国はもっと厄介なことになる)
「だめよ! 危険よ!」
サイナはゲンの前に立ちふさがった。
「幸い蒲生は沼地や池が多いから、人が住みついていないわ。薬草が取れるだけで盗人が来るような畑もないの。山つきもいないわ」
サイナはたたみかけるように説明した。
「だったら好都合だ。おまえは来るな」
ゲンははやる気持ちをおさえられない。
「だめよ! 危険すぎる!」
サイナはやけに大人びた顔を見せた。案内役としてコウに任命された以上、その務めを果たさなければならないという責任感か。
(そうだな。いま行って逃がしてしまう可能性はある。出現は子の上刻。もう少しあとで)
「わかった」
と、ゲンがうなずくとサイナはふうっと息をついた。
「もう、ゲンって本当に短気ね。あきれるわ。からだは大きいくせに余裕がないなんてもてないわよ」
サイナはゲンを思いきりにらみつけた。
「そうにらむなよ。悪かった」
「そうよ! 悪いわよ。なんのために自分がここに存在しているのか自覚してよね」
再びサイナは丸い顔をさらにふくらませて怒っていた。
(少女がぷんぷん怒る、という形容がぴったりだな)
と、ゲンは他人事のように思っておかしくなった。
「なに笑っているのよ。あなたのためにいっているのに。失礼ね! さっさと行くわよ!」
サイナはぷいっと顔をそむけた。代わりにシャシャがゲンをにらんだ。