猿沢のサイナ
ゲンはガンザンの屋敷に戻った。
ゲンの部屋はいわゆる「離れ」にある。「伝説のゲンさま」なので特別扱いなのか、かなり大きく立派な造りの「離れ」をあてがわれた。部屋といっても大きな広間であった。
ゲンとしては野宿で十分であり「村人に明け渡せばいい」と辞した。が、空の国の伝説の存在を空人が野宿で済ませるわけがなく、全員一致の驚きを含んだ猛反対に遭い、しぶしぶ寝屋として使うことになった。
そこはガンザンの両親の住まいだったらしい。その両親は二年前にやみに呑まれてしまった。ふたりともかなり力をもった長老で祓いの力も強く、通常ならやみに呑まれるようなことは考えられなかった。しかし、ここ数年のやみは祓い師でさえ呑み込むことができるようになっているのだという。
確かに、昨夜の「やみ」の力を思い出すと人間の力ではたちうちできないだろう。
ゲンの心のなかに得体の知れない不安が渦巻いている。その正体がなんなのかずっと考えていた。が、気になることが多すぎるうえに展開も早く、なにから整理していいか見当がつかない。酒の力も手伝って整理するどころかすぐに眠ってしまった。
どれぐらい時間が経ったろう。
とんとん、と扉をたたく音がした。
「ゲンさま、コウシでございます。お目覚めでしょうか」
ゲンは、はっと目覚めた。酉の刻限を過ぎていた。
「すぐ行く」
とりあえず寝ぼけていないふうを装って答えたが、まだ頭がぼうっとしていた。
ゲンは今朝の不安がいったいなんだったのかすっかり忘れていた。
(えーと、なんだっけ)
まだぼうっとして思い出せない。とにかく部屋から出た。コウシが頭を垂れて膝をついている。
コウシはガンザンの二男。十五歳である。兄のタイシとは雰囲気が違い、ガンザンによく似た風貌と真面目さを持ち合わせている。背が高く、若者らしい引き締まったからだをしているが手足の節が大きい。
ゲンが空の国に降り立ってから、三回目の夜を迎えていた。ゲンは昨夜はやる気満々で早くから行動開始したが、今夜はどうもやる気が出ない。が、コウシが真面目なだけに逃げようもない。
二人は南へ向かっていた。
「南麓村には、代々村長が住んでおります葛原、牛飼山、猿沢、猪野口、の四つの里があります。はじめに南麓村の猿沢の里に行くようにと、コウさまにいわれています。猿沢までは私が案内をさせていただきます。」
「ふむ」
「昔は猿が棲みついていたのでそう呼ぶようです。いまでは里でみかけることはございませんが、猿沢の奥山にはまだ生息しておりまして、時々田畑や牧場を荒らすこともあるようです。猿沢は主に牛、馬、山羊などの飼育をしている里でございます」
「ふむ」
「その里の長はカナクと申します。カナクさんの娘で、・・・サイナというものがおります。ゲンさまには、猿沢から猪野口、そして葛原を見回っていただきますが、それをサイナに案内させるようにとの指示でございます」
「そうか」
ゲンはあいまいに相槌だけを打った。
(あ。思い出した)
―――しゅるっと。渦を巻くように。
ことばを思い出してはみたが、奥にある不安のおおもとは思い出しそうで思い出せない。とても嫌な記憶。できたら、昨夜被害が出た「犬が淵」に行ってみたい。行ったからといってなにがわかるわけではなかろうが、どうも気になる。
そんなことを思っていると、コウシが覗き込むようにしてゲンのようすをうかがった。
「ゲンさま?」
「ん。あ、ああ。サイナ、だったな」
「はい。・・・なにか気になることがおありですか」
「いや」
「それならよろしゅうございますが」
気になることなら山ほどある。それをコウシに聞いたところでなにかわかるものではなかろう。
夜が更けていく。
今夜はやみの出現があるのだろうか。ジャクルたちなら予想できようが、その点はゲンもわからない。
(月が歌っているかな)
一応、夜空を見渡した。が、まだ月が出ていない。もう少し遅い時間に出るのだろう。
上から見れば家々が静かに暗くたたずんでいる。松明はひとつも見えない。おそらくここらあたりの人々は避難所に集められているのだろう。
しばらく飛ぶと遠く向こうに松明やかがり火の灯りが見えてきた。
屋敷は古いが、庭を囲んで広くコの字型をしている。
庭には何人かの村人がたむろしていてこちらを見ている。
コウシの誘導に従って庭に降りた。やけに体格のいい、顔中ひげだらけの男がいた。浅黒い肌、黒い瞳。ひげも黒髪も濃く、うっとおしいほど茂っている。ゲンには見おぼえがあった。空人らしからぬ風貌で目立っていたからであった。
(確か今朝の緊急会議に来ていたやつだ)
「カナクさん」
コウシが声をあげる。
「ゲンさま、私は猿沢の里長カナクと申します」
カナクは膝をつき礼をとるが、ゲンには形だけに見えてイライラした。
「カナク」
「はっ」
「膝をつく必要はない」
なかば、やけになってゲンはいった。もうそんなことはどうでもよく、とにかくまっすぐに入ってくる情報だけがほしい。
コウシが「え?」という顔で眉をひそめて状況を見ていた。
反対にカナクは眉をあげ、明るい顔になった。カナクはすっくと立った。
「それではそのようにいたしましょう」
カナクのにっこりと笑った顔がかわいかった。はじめは四十歳ぐらいの中年に見えたがおそらく三十過ぎだろう。目つきは鋭いが瞳がきらきらと輝き、青年のようだ。ひげをそってしまえば案外童顔なのかもしれない。
「カナクさん、いくらゲンさまのおことばだからといって、そのようにすぐに礼を解かれては」
コウシがたしなめると、うしろからけたけたと甲高い笑い声が聞こえてくる。
「やーっぱり、コウシってつまんない男ね」
ゲンが振り返ると、そこに立っていたのは少女であった。背が低く、しかし、体つきはたくましい。
(こいつ、モトン族か)
少女の長い黒髪は、勢いをつけてくるくると巻きあがるようにして垂れ下がっていた。丸いからだに茜色の着物を巻き付けているようにも見えた。裾は無造作にたくしあげて短く、肉付きのいいふくらはぎが見える。浅黒い肌はつややかに盛り上がっていた。黒く大きい瞳をきらきらと輝かせて、扉に左手をかけ、右手を腰にあてている。翡翠の腕輪が少し揺れていた。耳には同じく翡翠の耳飾りを施し、丸い顎に垂れ、ゆらゆらと揺れた。
「あーあ。なんでタイシが来なかったの? 西麓村一のいい男に会えると思って楽しみに待ってたのに。あんたじゃちっとも面白くない」
その少女はつかつかとコウシに歩み寄り、コウシの顔をじっと見た。背が低いのでコウシを思い切り見あげる格好となている。
「サイナ! 先にゲンさまにあいさつを」
コウシは厳しい顔でたしなめた。
サイナはふんっと顔を逸らしてくるっと向きを変えてゲンを見た。
「そう。あなたがゲンね。ふーん。きれいじゃない? あ、私、サイナっていうの。よろしくね」
ゲンのからだのまわりを値踏みするようにして歩き出した。
「サイナ! ゲンさまに対して失礼だろう!」
コウシがまた叱るが、サイナは聞き入れようとしない。
「ゲンさま、申し訳ありません」
コウシが代わりに謝る。
「コウシ、気にするな」
ゲンがひとこというと、サイナが黄色い声をあげた。
「きゃあ! 声、素敵じゃない?」
生意気な少女という点ではコウと同じだ。しかし、すこし毛色が違う。コウと同じくらいの年か。コウよりかわいげがある。
そのうちサイナはゲンの毛を両手でさわり、からだをとんとんとたたき出した。
「わあっ。気持ちいい! ね、もっと触っていい?」
「あ、ああ」
ゲンはされるがままである。
「きゃあ! 声が手に伝わってきちゃった。うーん。いいわねえ。気に入った」
すると、サイナのからだがぐんと上に引きあげられた。カナクがサイナの腕をぐいっとつかみ、持ちあげたのである。
カナクはサイナをにらむにとどめた。サイナは首をすくめてぺろっと舌を出した。
「申し訳ございません。こいつは礼儀を知らぬもので」
ゲンは苦笑しながらカナクに聞いた。
「ところで猿沢には日出浦の者は配置されたか」
「はい。ふたりおります。お呼びしますか」
「そうしてくれ」
「かしこまりました」
そういってカナクは建物の中に入っていった。
こちらではサイナとコウシが口論をしている。
「ちょっと、コウシ。今度からはタイシをここに連れてくるように、コウちゃんにいってくんない?」
「サイナ! コウさまといえ。いつまでも子どもじゃないんだぞ。お空さまからお叱りを受けるぞ」
「あら、お叱りならいまあんたがやってるじゃない。それで十分よ。だいたい十二年間生きてきて、いままでお空さまからお叱りを受けたことなんて一度もないのよ。それにこーんなに美しく育ってるんだから、お空さまだって私のことをお認めになってるってことじゃない?」
「いいかげんにしろっ。だいたいコウさまはなんでサイナなんか」
コウシの怒りが収まらないようすなので、ゲンは慌ててコウシをとめた。
「コウシ、もう帰ったほうがいい」
コウシは赤い顔をして、はあと息をつきながら、
「申し訳ありません。取り乱してしまいました」
といった。その顔がタイシに怒っているガンザンそっくりでゲンは吹き出しそうだった。サイナはげらげらと笑った。
「あはは。コウシ、帰れ帰れー」
コウシはじろっとサイナをにらんだあと、ゲンの近くにさっと近寄り、膝をついて礼をとる。
「ではゲンさま、どうぞご無事でお帰りください。これにて失礼します」
コウシは羽犬に乗って夕空に消えていった。
すると、コウシがいなくなったのをみはからったようにカナクが出てきた。
サイナに(行ったか?)という目を見せ、サイナも(大丈夫よ)と目で応じた。ゲンはなにが起こるのかと思うと、ぷーんと酒の臭いがしてきた。
(あ、日出浦の酒? いや、少し違うな)
そう思っていると、
「やあ、ゲンさん!」
という声がした。振り返ると昨夜一緒に飲んだ日出浦の者であった。
タキメルという四十前後の男性とその娘ウテナである。ウテナはたたたたっと走り寄り、ゲンにがばっと抱きついた。
「ゲンさーん。昨日は楽しかったね!」
ウテナも十二歳ぐらいの少女であり、浅黒い肌にくるくる巻き毛。ぽちゃっとした体つきである。
「ああ、ウテナ。昨日は世話になったな。なんだタキメル、また飲んでるのか」
「ははは! 飲まん夜はない」
「まあ、そうだろうな。で? 今日の酒は日出浦の酒とは違う匂いがするぞ?」
「さすがはゲンさん。今日のはここ猿沢の酒じゃあ。これもうめえぞお。ゲンさん、飲むじゃろ?」
ゲンはもう少しで「おう」と請け合うところだったが、すんでのところでおさえた。
「いかんいかん。オレはこれから見まわりだ」
「はあ、そりゃあ大変な」
「大変はおまえのほうだ。忙しくなるな」
「いやいや、俺はまだいいほうさ」
「ん?」
「猿沢で娘と一緒にいられる」
タキメルはにっこりとわらった。日焼けた肌に白い歯が見え、ひどく人なつっこく見えた。
ウテナはそのあいだ、ずっとゲンにまとわりつき、それを見てサイナもゲンに飛びついてきゃあきゃあいいながらまとわりついた。
(子どもだな。コウもこれぐらいの無邪気さがあればいいんだが)
ゲンはまとわりつくふたりをそのままに、
「ところでタキメル。今夜のやみはどうだ」
と、タキメルに話しかけた。タキメルは腕を組んでいた。
「うん。猿沢は出ない。ここらあたりの空気がきらきらと音を立てよる。ほらゲンさん、見てみい。あの山の上の木たちは歌いよる」
ゲンは一応、タキメルが指差した山の上を見たが、木の葉がさわさわと風に揺れているだけである。
「ほかの村はどうだ」
「北のがちょいと大きいのう。ええと、二か所かな。ところどころ小さいのも出るのう。が、コウさんがおるし、逃げることができれば大丈夫な程度だ。昨夜よりはずいぶん小さい。昨夜はひどかったからのう。海も山も騒いで騒いで、草木は泣きよった」
「そうか」
「西と浜はは小さいのがたくさん出るのう。わしらのいうことを聞いてさえいれば問題ない。まあ聞かなかったとして、祓い師とやらで解決できることもあろうがな」
(聞かなかったとして、・・・って)
タキメルは淡々としていたが、ゲンはなんと答えていいかわからなかった。
「んで、南は猪野口と葛原。猪野口は中くらいのやつじゃな。ここからちょいと遠いがね。葛原はもっと遠いが」
タキメルはここで口をつぐんだ。どうしたのかと思いながらゲンは次の質問をした。
「で? 猪野口と葛原だが、やみの出現時刻はわかるか?」
「おそらく子の刻限。同時に出る。猪野口は大きくないのう。ま、カナク程度の祓いでなんとかなるかな」
「なんだと? カナク程度とはなんだ。おれはこの里いちの祓い師だ!」
カナクは声を上げて怒った。タキメルはげらげら笑っている。
(なんだ、空人と日出浦のやつら、仲いいじゃないか)
ゲンはタキメルを促した。
「で、葛原は」
「ええと、それは」
タキメルは再び口をつぐむ。そのあと間を埋めるようにして
「おいサイナ、おめえが案内するんじゃろ」
と、サイナに声をかけた。
「そうよ、おじさん。私、うれしくってえ」
サイナはゲンのからだにまとわりつきながら答える。
「細かいことはおめえからゲンさんに詳しく伝えてくれ」
「任せてー」
ウテナとサイナはきゃっきゃとはしゃぎながら、ゲンのしっぽにじゃれていた。
そこにカナクをはじめ、何人かの村人が集まってきた。
「ゲンさま、お食事は?」
「いや、結構」
(そういえば、このからだは腹が空かないな)
「そうですか。残念ですな。これからとっておきのごちそうをお持ちしようと思いましたが」
「ありがとう。今度にしよう」
(また酒を飲まそうと思ったな)
ゲンは早くここを立ち去らなければと思ったが、なかなかサイナとウテナがからだから離れない。しかも子どもがいつの間にか増えている。大人たちまでこっそり近づいてゲンのからだを触ってくる。カナクもそのひとりであった。
ゲンのまわりはいつもの景観になった。
サイナはぴゅっと指笛を鳴らした。
するとどこからともなく羽犬が飛んできた。黒と薄茶のまだら模様。首には赤い数珠。引き締まった体つきで耳がぴゅっと立った雌犬だ。どこかぶすくれた顔をしてゲンを見ている。
(あーあ。すでに嫌われている)
ゲンはがっかりした。
「シャシャ。よろしくね」
サイナはシャシャと呼ばれた羽犬の首にぐっと抱きついた。シャシャはしっぽを振ってうれしそうに甘えた。
「さ、ゲン、行きましょ」
サイナはとんっと飛び上がり、シャシャに乗った。敏捷でしなやかな動きがサイナの運動能力を示した。 シャシャはすうっと飛びあがった。ゲンも続いた。
下ではこれから宴会でも開くのだろう、食料を持った人々がぞろぞろと出てゲンとサイナに手を振っている。
「サイナ、聞きたいことがある」
「なになに?」
「日出浦の者たちと空人は仲が悪いって聞いたが、本当か」
「ええ。本当よ。それもかなりね」
「だが、カナクとタキメルはえらく仲が良かったし、おまえとウテナもそうだった」
「ええ。そうよ」
「なせだ」
「聞きたいー?」
「・・・」
「聞きたいでしょー?」
「・・・」
ゲンは面倒臭くなった。聞きたくないといってやりたかったが、そうはいえない。
「うふふ。怒った? ふーん。割と短気よねえ。コウちゃんみたいね。コウちゃんもそうなのよねえ。普段あんなにかっこつけてるけど、コウちゃんってすごーく優しくてすぐに泣くし、すぐに怒るの。そこがとっても好き。でも、あのだっさい髪型はなんとかしなさいっていつもいってるんだけど、直さないのよねえ。頑固なのよ。それにしてもコウちゃん、さすがよね。だって、ゲンの案内に私を指名するんだもん。そりゃ、私しかいないでしょ。この国で頭が切れるのって私ぐらいだもの。父さんなんて最悪よ。祓いができるだけ」
ゲンは閉口した。
(こりゃ、とんでもないおしゃべりだ。聞きたいことにたどり着くには、相当の時間がかかるぞ。うまくそっちに持っていかないと)
ゲンはため息をついた。
「おい、サイナ。ところで、さっきの質問の答えだが」
「やだ、ゲン。聞きたいんだったら聞きたいって早く行ってよね」
サイナはそのあと黙り込み、物静かな顔をして前をみつめていた。長い黒髪がすべて風に飛ばされ、サイナの顔がむき出しになっていた。彫の深い目鼻立ちがすこしのっぺりと見えた。
「ありのままに答えるのって大人は無理よね」
「どういうことだ」
「日出浦と猿沢のものたちは、もともと同族なのよ」
「え」
「そうよ。昨夜ジャクルと話したんでしょ?」
「モトン族か」
「そう。ジャクルたちはね、『海つき』。私たちは『山つき』なのよ」
「山つき?」
「そ。空人は私たちのことをやまんとって呼ぶの。もっとも猿沢の人たちの血は空人とずいぶん混じってる。お空さまを信じているし、空人の部類になる。だから、父さんみたいに祓いもする。でも私は生粋の山つきなの」
「サイナはカナクの子ではないのか」
「ええ、そうよ。私、拾われたのよ」
他人事のようにサイナはいった。ゲンはどう答えていいかわからずにいた。
「やあねえ。同情はいらないわよ。父さんも猿沢のみんなも優しいの。私を私らしく育ててくれた。空人としてではなくモトン族としてね。父さんはえらいと思う。モトン族の血を絶やしてはいけない、おまえはモトン族として生きなくちゃいけないって。父さん自身はモトン族の教えを正しく知らないから、ジャクルに教えてくれるよう頼んでくれたの。ジャクルは私の師ってところかしら。そんな環境においてくれたことにとても感謝してるの。私はなに不自由なく暮らしている」
「そうか」
「ま、というわけで猿沢と日出浦は昔から交流があるの。まあ、親せきみたいなものね。でも、これって空人は知らない。知っているのは巫女と、あのずるーい長老たちぐらいかしら?」
(なるほど、さっきのタキメルのことばはそういうことか)
「あ。先にいっておくけど、私、南の人たちに相当嫌われているから。いまから行く猪野口なんて最悪よ。遠くからは石が飛んでくるし、近くからは唾を吐かれるのよ」
「えっ。そんなに」
「あははは。うそに決まってるじゃない! そんな勇気のある空人はいない。ゲンってからかいやすいのね。ちょっとコウシに似てるんじゃない」
「・・・」
「でも、嫌われているのは本当よ。私には見えるの。見えない石と見えない唾がね」
サイナは笑って続けた。
「みんな、私が山つきだって知っているわ。もちろん顔もからだも空人とは違うから。でもいちばんの判断材料は獣の肉を食べるってこと。ま、猿沢も日出浦も食べるけどね」
(昨夜の日出浦でも猪肉があったな)
「空人は動物の肉を食べない、とは聞いたが」
「そうよ。でもモトン族には関係ない。空人ではないもの。でも問題は『空人もどき』たちよねえ」
「空人もどき?」
「そう、猿沢をはじめ四足の肉を食べてる空人って少なくないのよ。モノノケを祓うくせに四足の肉を食べている人たちを、私はそう呼んでるの。父さんだってそう。『お空さまー』なんていってしっかり祓いもやって、腹が減ったら『肉を食べんとからだがもたん。俺たちは田んぼ耕してんじゃないんだ』だってさ。でもほかの里の人に嫌われたら困るからこっそり隠れて食べてるのよ。さっきの『とっておきのごちそう』ってイノシシのことよ。でもコウシに見られたらまずいから、コウシが早くいなくなるように私がけんかをふっかける役だったってわけ。大人ってずるいことばかり考えるのよね」
「おまえは堂々と食べるのか」
「もちろんよ。だから空人に嫌われるの。私も日出浦も四足の肉を食べるし祓いなんてしないわ。だって空人ではないもの。でも、空人だろうとモトン族だろうとどっちでもいいから潔い生き方をすべきよね。そういう点ではコウシは信念を貫いていると思う。他の空人は私を腫れ物に触るようにして扱うの。でも、コウシはああやって私を本気で叱るのよ。見たでしょ? あの赤い顔。ぷぷぷ。私、わざとからかってやってるの。だってコウシってあんな一面でもみんなに見せないと、生真面目すぎて誰からも好かれないじゃない」
「コウシが好きなんだな」
サイナは白けた顔をした。
「・・・ゲンって単純ね。好きとか嫌いとかで物事を判断してるとどっかで間違うわよ。その人の本質を認めているっていうだけよ」
ゲンは再び閉口した。
「で、話を戻すわね。つまりモトン族が四足を食べるから、空人はモトン族を受け入れられないのよ。海つきはまだいいの。狩りをしないから。主に魚でしょう? お空さまは魚はお許しになっているの。山つきは直接、獣を狩って食べる。空人の皆さんがおっしゃるには『ウサギさん、イノシシさん、かわいそう』なんだってさ。あはは」
サイナは笑ってさくさくと話を続けた。
「大人って直接いわないのよね。私のことだって、陰でこそこそいっているだけよ。山つきが怖いのよ。いま、空人とモトン族ってかろうじて均衡が取れているわけ。それが壊れるのが怖いのね。でも壊れるものは壊せばいいのよ。そこからはじまることって多いのに。なんにも怖がることなんかない。みんな自分を変えたくないのよ。そのくせ自分は他人に受け入れられたいのね。しかも誰かが自分に都合がよい環境にしてくれるのを待っているの。で、なにも変わらなければ批判と非難に明けくれる。その対象になるのが山つきってわけ」
「ふむ。で、おまえもやみの察知能力と予測能力があるということか」
「とーぜんよ」
「ではタキメルが猪野口といっていたが、どの辺りだ」
「タキメルはこの辺りのことあまり詳しくないから、あいまいないい方しかしなかったけど、正確には避難所の手前にあるトウキビ畑ね。そこのトウキビ、やわらかくておいしいのよ。山からタヌキたちが盗みにくるの。ついでにいうとタヌキの肉はあまりおいしくない。でね、タヌキたちもどこのトウキビがおいしいかよくわかってる。西麓のトウキビにはタヌキが寄らないのよね。まあ、地形もあるけど。西で作るトウキビは大きいけど実が固いのよね。そうね、ガンザンみたい。ふふ。野菜までそこの長の性格に似るのかしら。そういう意味ではガクウのほうがやわらかいのかもね。あ、見えてきた。あそこよ」
そこは広大なトウキビ畑であった。背の高いトウキビの葉が丁寧に実を隠し、暑苦しく茂っている。青臭い臭いがする。
「もう収穫の時期ね」
「子の刻限というのは間違いないか」
「上刻ね。さっき鐘が鳴ったから、いまは戌の中刻。まだ時間はある。トウキビたちがちょっとだけ騒いでる。そう大きくはないみたい。ゲンがわざわざ行かなくてもいいぐらい。日出浦のエコルってのが猪野口にいるから予想ができてるはず。もう祓い師が手配されているんじゃないかしら?」
「しかし皆、避難所に集められているだろう。なぜ、ここにやみひとが出る? 呑み込む人間がいないだろう。畑を見まわっている者でもいるのか」
「ええ」
「昨日までなら仕方ないが、今日は日出浦の者たちが場所まで予測している。そこに行かなければいいだけの話だ。畑の管理も必要かもしれないが朝になって見まわりをすればいいだろう」
「うふふ。鈍いのね。タヌキだってトウキビを盗みにくるのよ」
「盗人か。この非常時に」
「非常時だからこそじゃない。ゲンって育ちがいいのね」
「それにしても避難所から抜け出せば、誰が盗人かわかるだろう」
「猪野口の人間とは限らないでしょ? それに、真夜中で寝静まったころのことだからそう簡単にはわからないでしょ。盗人って足音立てないのよ。ご存じ?」
サイナはくくくっと笑った。
「しかも犯人を捕まえるほうも調べるのが面倒だし、同族を疑ってきまずくなるのが嫌だから、結局は『やまんとが盗んでいる』っていうの」
「その可能性はあるのか」
「冗談じゃない! トウキビなんて盗む暇があったらウサギの一匹でも捕まえたほうがましよ! 」
「悪かった」
「まったくよ! もう!」
サイナはぷうっと頬をふくらませ、丸い顔がますます丸くなっていた。ゲンは笑いをこらえ、サイナの怒りがおさまるまで待った。
ようやくサイナが元の顔に戻ったころ、ゲンは聞いた。
「いま、収穫時期のものは?」
「トウキビ、ニガウリ、スイカ、ブドウ、ナシ、いろいろね。南麓は野菜も果物もたくさん実る。だから獣の種類も多いの。だから山つきも南山の奥地に多いの。東浜村の山手にも結構いるけど、西山や北山は少しね。南や浜に比べると食べ物が少ないから棲みにくいのよ」
「盗人は多いのか」
「多くはない。空人って気が小さいのよね。いつもびくびくしている。でも放置していたら味をしめて仲間を増やすかもね。だけど・・・」
「だけど?」
「群れているものたちは、群れから外れてはいけない。外れれば必ず餌食になるわ」
サイナの耳に飾られた翡翠が薄気味悪く映し出された。月の光であった。天上に昇りきっていない下弦の半月。昨夜より少しだけ欠けているだけなのに、昨夜の月よりずいぶん光が弱い気がする。
サイナは翡翠の耳飾りを揺らしてゲンを見た。
「トウキビ、盗まれてもいいじゃない? どうせ二、三日中には刈り取ってしまうわけだし、少しぐらい、呉れてやったらいいのよ。なにも盗人のために危険なところに行く必要はないのよ」
「そうもいかんのだろう」
「ま、欲が深いのね」
「生きていくための食糧だからな」
「そういう意味じゃないわ」
「どういう意味だ」
「種族保存欲」
「ほう」
「父さんがね、やみが出るということは、そこに人間がいることになる。それが盗人とは限らないっていうの。いろんな事情でそこにいることもあるって。でも、たとえ盗人だとしても人が呑まれるかもしれない場所と時間がわかっておきながら、助けにいかないのはおかしいっていうのよね」
「ふむ」
「盗人は、ううん、盗人じゃなかったとしても、その人は好きで群れから外れてるんだから放っとけばいいのよ。しかも今日からは場所と時間を予測できる状態なのに、あえて群れから外れてやみが出現するところに行くって決めるわけよ。つまり、自分の力でなんとかできるって自信があるから行くんでしょ? だったら当人たちも放っといてほしいと思ってるでしょうに。それにもしかしたら怖くなってその時間にその場所に行かないかもしれない。だったら行き損じゃない?」
「ふむ」
「空人ってもともと臆病なんだから、群れの中でじっとしてればいいのよ」
群れる生き物だからこそ群れで一個体として存在する。そのため、生存本能は各個人の無意識の奥底でつながっている。「空人」という一個体の生き物として生き残るために繁殖は不可欠である。しかし、いまは繁殖どころか人口が減少する一方である。その状況で、群れの指導者たちがひとりでも多く助けたいと思うのは自然であろう。
サイナも猿沢という群れで暮らしているわけで、たとえ盗人でも同族であれば助けに行くという、カナクの気持ちがわからないわけではなかろう。
ゲンには、サイナがそのことを批判しているのではなく、理解できないのでもなく、新しい価値観を目の前にして感動さえ覚えているように見えた。