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空の子  作者: そうじ
11/74

やみの出現(犬が淵)

 雨は止んでいた。

 空には雲の切れ間が見え、月の光がところどころの雲を縁取る。

 雲はどんよりと流れていた。

 大きな屋敷と蔵を背後に広い牧場があり、さきほどまで焚かれていた火はすっかり消えていた。蔵や屋敷のまわりに備えられていた松明はひっそりと立っている。屋敷の奥に立ち並んだ牛舎がうっすらと見える。

 ここは南麓村、牛飼山うしかいやまの里である。南麓村には「葛原くずはら」「牛飼山」「猪野口」「猿沢」の四つの里がある。牛飼山の里には主に牛飼たちが住んでいるが、山羊飼や馬飼、犬飼などの集落も近くにあり、それらも合わせて牛飼山の里と呼ばれた。

 ぞろぞろと男たちが屋敷から出てきて再び火を灯す作業をはじめた。申し合わせたような沈黙のなかで火を灯していく。ようやくひと段落したところで、牧場の入り口に敷かれた焚き火のまわりに自然と数人の男たちが集まってきた。

 「おい、聞いたか」

 ひとりの男が目をぎょろつかせ小声でいった。

 「ああ。犬が淵だろ」

 応じたのはひとりだったが何人かはため息で応えた。

 「祓い師がふたりもやられたそうだな」

 「羽犬も三頭やられたんだよな・・・」

 そこに松明を持った男がひとり、焚き火のほうに歩いてきた。

 焚き火に照らし出され、男の縮れた黒髪が艶めいて見えた。年の頃は二十代後半。肌の色は黒くさほど大きなからだではなかったがいかにも敏捷そうである。が、からだつきとは反対に顔はぼんやりとして、とろんとした目つきであった。

 「お。牛飼山の里長さまのお帰りだ。カイザ、おい」

 「んあ?」

 カイザはあくびのような声を出して応じた。

 「獣がやられたのって犬が淵だけか」

 「ああ。さっきコウさまがいってたからほんとうだ。ルトウ、おまえんとこの馬は無事だよ」

 「わかってるさ。おい、カイザ、なんで帰っちゃいけないんだよ。いまからだって危ないんだ。馬は呑まれてもいいのかよ!」

 カイザは眠そうな顔をして応えた。

 「落ちつけよ、ルトウ。朝になったら帰れる。それから馬たちのようすも見ることだってできるから」

 「だってさ、ホシナは羽犬のようすを見るために残っていいっていわれたんだろ。なら、俺だって」

 「それで、やられた」

 カイザはルトウのことばを冷たくさえぎった。ルトウもまわりの男たちも黙った。カイザは少し明るくいい直した。

 「ま、結果はさておき、犬が淵は遠いだろ。それに加えて『羽犬』だ。だから残ることが許されたのさ。わかってることだろ」

 ルトウは鼻の頭にしわを寄せて答えた。

 「ふん。羽犬、羽犬、いっつも羽犬だ! 羽犬がいつ田んぼや畑の仕事をしたよ? 俺たちの馬がどんだけ田んぼ仕事の役に立ってるか。重い荷物を運ぶのもそうだよ。馬と、そんで牛だ。それも見もしないでよう。馬や牛は見下されてるよなあ。そうだろ? 牛飼の」

 「いやあ、おいらは別に」

 牛飼いの、と呼ばれた男はまあるい手で大きな頭をかきながらぼそぼそと応える。太ったからだを小さくしている。

 「あー、はいはい。そうだよな。だってここはおまえん家だしさ。実際おまえは動かなくてすむ。牛のようすだってすぐに見にいけるしな。いいよな、裕福な家はよ、え? 牛飼のダンキさんよ」

 ルトウはそういってダンキの肉付きのいい首を羽交い締めにした。

 「苦しいよお、やめてよお、ルトあんちゃん。いっつもそうやって嫌なことばーっかりいってええ」

 まわりの男たちがダンキのことばを聞いてくすくすと笑った。

 「ふん、どうせ俺は嫌なヤツさ」

 ルトウはすねてふくれっ面をした。ダンキはごほごほと咳き込みながらいった。

 「おいら、別に牛たちが認められなくてもいいんだ。牛たちがちゃーんと元気で生きてればそれでいい。それよりも呑まれたっていう羽犬たちがかわいそうでなあ。人間のせいでなあ。おいらの牛もいままで何頭か呑まれたけど、おいらのせいですまんかったって手を合わせて謝って泣いて泣いてなあ・・・。 ホシナさんもいまごろそうやって泣いていると思うとなあ・・・」

 ダンキは腕で口をおさえて、うっ、うっと泣いた。

 「ばっかやろう! んなこというな!」

 ルトウはぼかっとダンキの頭を殴った。

 「痛いよ、あんちゃん。うっ、うっ」

 「泣いても牛は戻ってこんだろが!」

 「だって・・・」

 ルトウはぷいっと背中を向けた。

 しばらく沈黙がつづいた。焚き火の勢いが強くなり、それぞれの顔を照らし出す。

 沈黙に耐えきれずルトウが叫んだ。

 「くそっ。いったいどんなやみだっていうんだ!」

 「落ちつけよ。俺らが考えてもどうしようもないこった」

 「ああ、あとはガクウさんに任せるしかないだろう」

 「ガクウに任せてこのざまさ! だいたい、俺はあいつが気に入らねー。いっつも上からものいいやがって」

 ルトウは板きれを焚き火のなかに強く投げ入れてうまく入らず舌うちをした。

 カイザがすぐに反応した。

 「おいおい。ガクウさんは村長なんだ。上からものいってあたりまえだろう」

 「ふん、カイザ。おまえ変わったな。以前はおまえのほうがガクウを批判してたくせに。骨のあるやつだって思ってたのにな。役に就くとそうなるんかね。あーあ、やだね。それとも村長を弁護しなさいって指示が出とるのか?」

 カイザは特に表情を変えるふうでもなく、

 「んん、そんな指示は出てないさ」

 と、頭をぽりぽりとかきながらいった。ルトウは勢いをつけた。

 「じゃあ、弁護すんなよ。いいか、あいつは自分がいちばん偉いって思ってやがるんだ。情なんてないやつさ。だから今回やられたことだってきっと『被害は二人ですんだ』なんて冷たい顔していいやがるさ」

 カイザはこんどは「はは」と笑っただけだった。ほんとうにそういうだろうなと思ったからだった。

 ルトウのいう通り、カイザは役に就くまえには若さにまかせて南麓村の長ガクウを批判していた。いつも理論で人をねじ伏せるようなところが気に入らなかった。

 しかしカイザは、ガクウの下役となって働くようになってその考えは変わった。ガクウは経験と論理で総合的に瞬時に分析をする。カイザはガクウのようにはとてもなれないと思った。完全に負けを認めた。

 ガクウはきっとルトウがいうように「被害は二人ですんだ」とだけいうに違いない。しかしそれは、一時の感情で憤る自分を理論でおさえたあとの悲痛なことばであることが、カイザにはわかっていた。情がないどころかむしろ強い愛情が見え隠れする。

 とはいえカイザは常にガクウを警戒していた。

 (ガクウさんの本音は見えない)

 それはガクウの近くにいるからこそカイザにも見えてきたことであった。これはルトウには到底わからないことだろう。

 それはルトウがいうような、そしてカイザ自身もかつて感じていたような「冷たい」「偉そう」というのではない。実際、その点はカイザの頭の中から払拭されていた。しかし、ガクウにはあまりにも暗い影がまとわりついていることをカイザは感じていた。

 カイザは頭を掻きながら考えこんだ。

 確かにガクウさんは国の医療をつかさどり、各里に優れた医師たちを派遣している。同時に直属の研究班を持ち、常に医療の研究をしている。ガクウさんの存在は空の国には欠かせない。

 しかし、あの直属の研究班とやらはいったいなにをやっているのかまったくわからない。俺は専門的な知識など持ち合わせないし、説明されたってわかるわけがない。ただ、直属の研究員たちが不気味だってことだけはわかる。青黒い作業服を着て夜になるとこそこそと行動している。

 そして、あの「研究棟」。直属の研究員でさえ自由な立ち入りができないらしい。俺にはわかる。あそこには異様な気が満ちている。やみとは違う、もっと異質な何か。あれに近寄ることさえごめんこうむりたい。

 カイザの背中にぞぞっと悪寒が走った。

 カイザはわざと間延びした声でルトウにいった。

 「まーねえ。ガクウさんの批判はこの南麓どころか他の村でも少なくないからねえ。俺もそうだったしね。はは」

 カイザは両の腕を抱き、ごしごしとさすった。

 自分がなにを感じているかは置いといて、ここは里長として里のみんなの前で南麓村の長ガクウさんへの不信感をあおることだけはしてはならない。

 「でもガクウさんを信じてついていくヤツは多いぜ。ガクウさんの力を知れば、ルトウ、おまえだって変わるよ」

 「いってろ。とにかく俺はあんな理論的なヤツは大嫌いだ」

 ルトウがふてくされた。カイザは頭をぽりぽりと掻きながら苦い顔をしていた。

 ここでさっきから黙って聞いていた五十がらみの男がことばをかけた。

 「まあまあ、ルトウよ。とにかく信じて行動するしかないだろ」

 この男はセイガイという祓い師で、以前の里長であった。煩わしい仕事は若い者に任せる、などといってカイザに里長を継がせたが、カイザの強い希望で里長補佐として役についた。以前の里長だった自分が口出しをすれば皆がいうことを聞くのはわかりきっていたので、カイザの立場を考えて余計な口出しはしないよう気をつけていたのだが、セイガイはこのときばかりは口を挾むことにした。

 「ガクウが理論的で大嫌いだってことは、おまえさんはその理論ってのがわかるんだな」

 ルトウはふんと鼻をならした。

 「まあな」

 「そりゃすごいなあ。俺にゃあさっぱりわかんねえ。じゃあ、おまえさんもガクウと同じ理論的ってことだ」

 ルトウは、ううっと声を呑んだような音を出した。

 「いや、それは違う。えーと」

 セイガイは笑った。

 「まあ、どっちでもいいさ。理論的だとか冷たいヤツとか、それはおまえさんの感覚だろう。実績で考えたらどうなる。なんといってもガクウは医師としてはこの国いちばんの技術を持つ。俺らの大事な獣たちの病気や怪我をどれだけ治してもらったかね? あれほどの実績を持つひとが全く愛情がないなんて俺は思わない。おまえさんだって、こないだガクウに馬の病気治してもらったじゃないか。それはわかってるんだろ」

 カイザは、セイガイも自分と同じことを感じていることを見抜いた。そしてまさにいまセイガイが発していることばは、セイガイ自身がガクウに対して持っている疑惑を払いのけるために考えに考え抜いた結論なのだろう。

 (とにかく信じて行動するしかない、か)

 その通りであった。

 ガクウが裏でなにをしていようと、公にしない限り、それは私的なことにほかならない。彼の実績は空の国では絶大なるものであり、特に医療ではガクウに敵うものはいない。

 ルトウはむきになった。

 「あ、あれはガクウじゃなくてガクウの弟子っつうなんとかいうヤツだった」

 「つまり、ガクウの力じゃないか」

 「ま、まあな。そこは認めてやるよ」

 ダンキがいきなりルトウに抱きついた。

 「うわっ、なんだよ、ダンキ」

 「ああ、良かった。ルトあんちゃん、ガクウさんのことちゃんとわかってくれて。おいらは、ガクウさん、好きだよ。だっておいらの牛たちを見るとき優しい目をするんだ。ね、カイあんちゃん。ほんとうはルトあんちゃんもわかってるんだって」

 「わかったよ、わかったから、離せよ」

 ルトウはふくふくとしたダンキの腕をつかんでほどこうとした。が、ダンキの力のほうが強いらしい。

 「へへ、やだよ、さっきのお返しだもんね」

 「あー、もうわかったよ、俺が悪かったよ。おまえ、暑苦しいんだよー」

 カイザはこのふたりと一緒にいるのがいちばん好きだった。ルトウはほんとうはいいやつだが人の批判をしすぎる。カイザ自身もいまでこそ落ちついたふりをしているが、一時期はルトウと一緒になって激しく長や村役の批判などもした。そんなカイザとルトウが誤解されずに仲間に順応しているのはダンキのおかげであった。

 ダンキとルトウ、そしてカイザは幼馴染であった。ダンキは小さいときからいつもぼーっとして行動ものろく、カイザとルトウはダンキの兄のようにして面倒を見た。しかし実際はダンキのほうがずっと大人だった。裕福な牛飼の家に育ったためか、それとも末っ子で甘え上手なのか、カイザたちのわがままな態度を大きく受けとめる母親のような存在であった。

 「で? カイザ。羽犬はこっちに来るのか」

 ルトウとダンキのじゃれ合いを横目で見ながら、セイガイがひっそりと聞いてきた。

 「はい。そういうことになりました。ですが早いうちに各村の人たちにひきとってもらうよう手配するそうです」

 「そうだよなあ。ここじゃ羽犬もかわいそうだ」

 「狭いとはわかってますがねえ。これで精一杯で」

 「まあ、成犬をすぐに引き取ってもらえば村人も助かるし、子犬だけになればこっちも助かる」

 「ええ。そうなんですが、まあ無償に近い形で譲ることになるわけで・・・」

 「ホシナの家族はしばらくは羽犬で飯が食えないってことか」

 「しばらく、ならいいんですが」

 セイガイは口を一文字に引き結んだまま、しばらく黙っていたが少し話の焦点をずらした。

 「ホシナ一族ってどんだけいるんだっけ」

 「ええと、七人ですね」

 「そうか。半分ぐらいは呑まれたか・・・。で、羽犬は何頭いる」

 「成犬が五十六頭。子犬が三十五頭」

 「今日は成犬が狙われたんだろ」

 「ええ」

 二人ともそれきり黙ってしまった。もう確認する必要もなかった。つまり、これから羽犬を擁する牛飼山が狙われる可能性が高いということなのだ。

 (それにしても)

 カイザはさっきまでいた犬が淵でのことを思い出していた。


 南麓村の中枢、葛原から急ぎの遣いが来て「犬が淵に行くように」とのガクウからの指示を受け取り、カイザは牛飼山の管理をセイガイにゆだねて急いで犬が淵にかけつけた。

 犬が淵に派遣された祓い師は、牛飼山のサイカ、葛原のナツイ、テオイであった。三人とも優秀な祓い師である。そしてサイカとナツイが呑まれた。

 (そんなに大きなやみだったのか?)

 カイザは不安を抱えながら犬が淵の犬舎の前に降りた。

 すでにコウとガクウ、その息子のイツキが犬舎の中にいて、犬が淵のホシナともうひとりの祓い師テオイに状況を聞いていた。カイザが犬舎の外から中をのぞこうとすると、ひょこっとイツキが出てきた。

 イツキはガクウの長男、十六歳である。能力者として生まれ、まだ若いながら優秀な祓い師であり、村長補佐として力を発揮している。冷徹なガクウとは違って明るく素直な若者であり、細かいことにあまりこだわらない。母方の血を受け継いだのであろう。

 イツキの母、つまりガクウの妻は、南麓村、大長老サキイの娘である。その名をアキといった。黒い大きな瞳をぎらぎらさせてどんなことにでも首をつっこんできた。サキイの血を受け継いで能力者として生まれたが祓い師にもならず、村役にも就かなかった。その性格が奔放すぎて組織の中で働くことなど本人もまわりも考えられなかったのである。

 アキは人懐っこく明るく素直で(少々乱暴であったが)、南麓村の人々にとっては太陽のような存在であった。アキは役に就かなかったが、ウルクが「南麓村には『アキ』という役がある」と表現したことがあり、カイザは「なるほどその通りだ」と納得した。あのガクウでさえ、アキの側にいるときは子どものような笑顔を見せていたものである。しかしアキは、イツキがまだ七歳の時に他界した。

 イツキはアキとよく似た人懐っこい瞳をカイザに向け、早足で近寄ってきた。イツキが小さいころは機嫌のいい子犬が駆け寄ってくるようで、よく頭を撫でてやっていた。するとイツキは嬉しそうにカイザに抱きついてきた。いまでもつい撫でてやりたくなるが、イツキはカイザより背が高くなり、胸板も厚い。体躯のいい青年になっている。

 (こいつの頭を撫でたりしたらおかしな風景になるんだろうな)

 そんなことを思いながらしげしげとイツキを見ていると、

 「カイザさん、こっちに」

 とイツキが犬舎から離れたところにカイザを促した。

 「おう、イツキ、どうした」

 「父さんがカイザさんと外で待ってろって」

 「そうか。状況は」

 「それが、ホシナさんが混乱していて」

 「気が動転してるんだろう。祓い師でもなければそういうもんだし」

 「ですが」

 イツキは、誰もいるはずかないのに辺りを見まわして声をひそめた。

 「僕、ホシナさんのようすがちょっとおかしいと思うんです」

 「ん」

 イツキの違和感はいつも正しい。理屈で考えるのではなくなんとなく感じるのだという。その違和感をしっかりと引き出せば方向性を見失わないことが多い。

 「ホシナさん、じっと考えてるような感じで」

 「考えてる?」

 「はい」

 「なにを」

 「わかりません」

 「なんだよ」

 またかとカイザは思った。肝心なことになるといつも「わからない」といいやがる。こうやっていままでいくつもの真実を逃してきた。だが、そのことにばかりこだわってはいられなかった。

 カイザは質問を変えた。

 「で? テオイはどこにいたって?」

 「中にいますよ」

 「じゃなくて・・・」

 「は?」

 からだはでかいくせにイツキは子どもっぽい。天真爛漫といえば聞こえがいいがどこかずれた答えをする。ガクウの子とは思えないほど考えなしではあるが行動が早く、しかも体力は底なしである。

 (まあ、あちらの血だな)

 「いや、俺が悪かった。ことばが足りなかったな。ええと、事が起きたとき、テオイはどこにいたかってこと」

 「ああ。テオイさん、外で、ちょうどこの辺ですよ。この辺りで待機してて犬舎の中から気配を感じて、急いで中に入ったらしいんですけど、すでに」

 「呑まれたあとってことか」

 「ええ」

 「おかしいな。外からじゃなく中から」

 「そうです。ありえません」

 カイザはがりがりと頭を掻いた。

 ありえない? 確かに通常はありえない。ただ、十二年前に一度だけあった。こいつはまだ小さかったから知らないだろう。ひとりの少年が奇妙な呑まれ方をした。明け方、兄弟二人が就寝している部屋の中から突如やみひとが現れ、弟ひとりだけを呑んで消え去ったという。そのときはずいぶん騒がれたがすぐに人々の話題から消えた。それもそのはずだ。なぜなら一か月後、サクさまの受胎の翌朝に巫女ヨウさまが変死なされた、という前代未聞の大事件が起きたのだから。

 「カイザさん、気になることでも?」

 「ん? あー、いや、呑まれるのが早すぎると思ってな」

 「そうなんですよ。それにテオイさんが、あのふたりが呑まれるような大きさじゃなかったっていってました」

 「やはりそうか」

 「しかも」

 「ん」

 イツキは犬舎のほうをいちど振り返って、さらに小声になった。

 「コウさまが『いったい、なんに呑まれたのだ』ってぼそっとつぶやかれて」

 「えっ」

 「ね、おかしいでしょう」

 「どういう意味だ」

 「わかりません」

 「またかよ」

 「だって・・・」

 「ん」

 「・・・聞き返せなかったんです。コウさまのお顔が怖くて・・・。あんな怖いお顔をされるのをはじめて見ました」

 カイザは軽く身震いした。

 コウさまは普段は明るくきさくなお方だが、なにかの瞬間とても怖い顔をなさる。怖い顔というよりは人を寄せつけない顔というほうがいいかもしれない。鋭い目つき、射貫かれるような目つき。その目でいちど見られたことがあったが生きた心地がしなかった。そう、あれは神さまの目だ。巫女さまが人ではないと確信した。長く役についていればその瞬間に立ち会うことがあるが、イツキは役についてまだ半年。今日はじめて見たのか。

 「カイザさん? どうかしました?」

 イツキがカイザの顔をのぞき込んだ。

 「いや、なんでもない。で、ガクウさんはなんて」

 「ホシナさんに羽犬を連れて今日中に避難所に移動するように指示してました。あ、牛飼山ですよ」

 「わかってるよ。もともと犬舎は確保してたんだ。ちょっと狭いがな。まあ、それが羽犬の健康上よくないってんでホシナに頼み込まれたんだろ」

 「まあ、そうです。あとで詳しく話をするから、カイザさんには待ってもらうようにって」

 「わかった」

 カイザはふうっとひとつため息をついた。ガクウがどんな思いでいるか考えてみた。

 ホシナのわがままを聞いて羽犬たちを避難所に移動させることをあきらめた。ガクウさんはそれを悔いている。とはいえ、サイカ、ナツイ、テオイをつけた。この三人は優秀な祓い師であり能力者であるため、充分に対処できると判断した。なのにふたりも呑まれた。

 カイザはガクウの判断は正しいと思っていた。

 他ならぬ「羽犬」だ。ルトウはあんなふうにいっているが羽犬は空の国ではいちばん重要な獣だ。牛や馬、ヤギなどは少々呑まれても空人の命に直接の影響はない。しかし羽犬は別だ。やみひとから逃れる最終手段として重要な役割を持つ。昨日の時点でガクウさんはホシナに話をして、いまいる羽犬をできるだけ空人に渡せるよう打診していたはずだ。おそらく明日にでも羽犬を無償に近い形で空人に渡すことになるだろう。

 昨日の村役会議の内容を聞く限り、コウさまとゲンさまを足止めするためにやみを出現させようとすれば、かなり膨大なやみひとの数が必要になる。いままでのやみと昨日からのやみの威力が比べものにならないとは聞いていたが、それにしても同時に出現するやみひとは小者であるはず。それはガクウさんの的確な分析によるものだったし、コウさまの見解でもあった。その証拠にテオイは「あのふたりが呑まれるような大きさではなかった」といったではないか。

 ----いったい、なんに呑まれたのだ。

 カイザの頭の中でそのことばが不気味にこだました。

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