やみの出現(田野池の里)
頭痛がひどかった。
祓い師に許しを得て、古い小さな布団部屋に入り横になった。
戸口でかたかたと音がした。
祓い師が戸口に護符を貼っている音だ。
しばらくじっとしていると、意識が夢の中に入っていった。
どれぐらい時が経ったろう。
とんとん、とそいつは部屋の戸を叩いた。
「だれ?」
ああ、誰だかわかっているのに。
気がつくと、部屋にはやみの粒子が漂っている。
俺の領域に干渉してきやがったな。
頭痛が遠のく。
ふん、巫女さまの結界はそんなに簡単に破れない。
だけど、がたっと音がした。
しまった!
戸が古くて完全に閉まってなかったんだ。
引き戸は少しだけ開き、そいつの頭が見えた。
頭を垂れ、顔を隠しているように見えた。
そいつは躊躇している。
不完全に結界が働いているらしい。
廊下から俺をじっと見ている。
そいつはたぶん俺の力を測っている。
ガンさんはいった。
強く拒め!って。
決して屈しない、頑強な意思。
全身くまなく気を充満させ、
俺はいまのうちから威嚇をせねばならない。
(おまえ、入ってくるな!)
ことばになっていなかった。
そして動けなかった。
部屋にはやみが重たく漂ってきた。
(入ってくるな! このやろう!)
やはり、ことばにはならなかった。
くそっ、おまえなんか怖くないぞ。
(おおおお! ああああ! うあああ!)
もう気合いしかなかった。
しかし、結界はあっさり破られた。
そいつは、すたたたっ、と俺の近くに来た。
近づき方が異様に早い。
こんなに軽く入ってくるやつは小者だ。
小者なんかに負けるか。
思いと裏腹にやみが濃い霧を落とす。
俺の領域が奪われようとしている。
ちくしょうめ!
(うああああ! うおおおお!)
ことばにならないまま、わめき続けた。
すると、肩の筋がぴいと鳴った。
痛かった。
痛い?
俺の領域が戻ってきた?
いや、なんでもいい。
おまえなんか祓ってやる。
そいつは仮面をかぶったような顔だった。
「うあああっ!」
声が出た。
俺は左手でそいつを祓おうとした。
いや、思いっきり殴った。
でも、手は空を切り、数珠がちゃらと鳴っただけだった。
そいつはすでに消えていた。
暗闇で何も見えないはずの壁に
黒い四角いシミが見えた。
やみの残像。
俺はぼうっとしながら印を結び、それを祓った。
頭痛が戻ってきた。
俺の領域は完全に俺のものとなった。
はっとして布団部屋から走り出た。
廊下は騒然としていた。
何人かが青ざめた顔で祓い師にすがりついていた。
ああ、俺もあんな顔してんだ。
手の空いた祓い師を見つけ、慌てて報告した。
祓い師はうなずくと俺を大部屋に誘導した。
今夜は、何人がやみに呑まれたのだろう。
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コウが稲塚を出て次に向かったのは田野池の里であった。一面に広がる田は水が張られ、田植えが済んだばかりの落ち着きをなしていた。
田野池はその名の通り大きな池を中央に持ち、まわりに整えられた田が広がる。池は水田のためのため池であり、池から用水路が引かれている。
池の隣に古い大きな建物があり火が炊かれている。そこには長老、長をはじめ、祓い師たちが行儀良く並び、コウを待っていた。
空には月も星もなく厚い雲に覆われ、べっとりとした風が吹いている。少し伸びた稲の苗が苦しそうになびく。
(蛙たちの鳴き声が聞こえない)
田野池の長老ケイリは胸が騒いだ。
ケイリは西麓村の大長老で、ヨクに次ぐ実力者である。ケイリは能力者であり、祓い師としてもヨクにひけをとらなかった。
齢七十。肌は浅黒く白髪であるがところどころに黒髪が見える。小柄であるが手足が大きく、その指は節くれている。汗っかきで老婆特有の汗の臭いが漂う。左肩にひょいっと手ぬぐいをかけ、節くれた大きな手で手ぬぐいを握っては、深い皺のある顔を忙しく吹き上げる。短い着物を帯でぐっと締め上げ、帯にも手ぬぐいが下げられている。見てくれはふつうの年老いた農婦であり、ことば数も極端に少なく「うむ」とか「ああ」という返事しか聞いたことがない者も多い。ケイリは「目立つ」という形容とは無関係な存在であった。
田野池の里長はイクリと言った。齢四十五。ケイリの甥で祓い師である。ケイリの横で膝をついている。からだが大きいため,
立っているケイリと顔の位置がほとんど変わらない。
ケイリとイクリは細かく打ち合わせをしていた。
「それでは、おばさま。皆へそのように伝えます」
「うむ。田んぼが騒いどる。今日はわしも出張る」
普段は無口なケイリであったが、今日は無口である余裕がなかった。こういうときはケイリに不安があるときだとイクリは知っていた。
「はっ。恐れ入ります」
イクリはそういって一礼し、すくっと立った。大男であった。足が短く腰まわりが太い。厚い胸板にでっかい丸太ん棒のような腕をつけてゆっくりと後ろを振り返った。鋭い視線が祓い師たちに注がれた。待機していた祓い師たちは慌ててささっとイクリに走りよる。イクリは野太い声で叫ぶように指示を出した。
「皆、よいか。嵐が来る。巨大なやみが来る! 各々、準備をせよ。村人には札を手から離すなと強く伝えよ。部屋に小者が入ってくるだろう。祓いができるものは数珠を外すな、一瞬でも気を許してはならん、とな!」
「はっ!」
祓い師の顔がぐっと引き締まり、それぞれの持ち場に急ぐ。
一方、屋敷の中でたむろして待つ村人はその顔に不安の色は隠せなかった。大部屋の中で、子どもをしっかりと抱いている女たちや膝をかかえて小さくなっている老人たちが互いの肩を寄せ合っている。
屋敷の入り口には若い男たちが集まり、外のようすを見ている。
「おいおい、ケイリさまがようしゃべっておられるぞ」
「ほんとだ・・・。相当やばいな」
「ああ、雲が落ちそうな勢いだ。こりゃ豪雨になるぜ」
「コウさまは西にいらっしゃるんだろ」
「そうとは聞いているが・・・」
「ゲンさまって来られないのかな」
「今日は北と浜に行かれるんだと」
「だいじょうぶなのか? おれら・・・」
「お、アグリがきた。おい、アグリ! いったいなんだって」
アグリと呼ばれたのは二十代前半の女性であった。田野池の里を支える有望な祓い師である。背が高い。長い髪を後ろで一つにまとめ、精悍な顔つきで目つきが鋭い。肩幅も広く、一見男かと思うほどの筋肉質なからだを持ち、大股でずんずんと歩いてくる。
「おい、相当やばいのか」
アグリは声をかけられると歩みを止め、男どもの顔を横目でぎろっとにらんだ。
「うるせえ! おまえら、ちっとは黙っとれんのか。ここがやばいことぐらい十年前からのことだろうが!」
「ひえっ。怖い怖い」
「ちぇっ。なんでアグリが俺たちの担当なんだよ」
アグリは今度は男たちに向き直って、真正面から見据えた。
「うるせえっつってんだよ。おとなしく待つってことができんのか。ああ?」
「わ、わかったよ。まったく口の悪い女だぜ」
「アグリ、おまえそんなだから嫁にも行けないんじゃないか」
「余計なお世話だ」
アグリはこぶしをぐっと握りしめた。
「おお、こわ。おまえ、嫁もらった方が早いんじゃねえか?」
男たちはげらげらと笑った。
「こりゃいいや。そうしろよ。おまえんとこ広い田んぼあるしなあ。嫁ふたりぐらい養えるぜ?」
アグリは少し苦い顔をした。嫁をもらえといわれたからではなかった。
(田んぼか・・・)
男たちのいう通り、アグリは広い水田を所有していた。アグリの家族はやみに呑まれてしまったため、いまはアグリが一人で管理していた。しかしここ数年は草が伸び放題のまま手入れをする暇もない。家族がやみに呑まれてから、アグリは祓い師として生きることを決めた。なのにどうしても水田を手放せなかった。人に渡してしまえば楽になるとも思うが、アグリの先祖が開墾し、両親の代まで大事に育ててきた田んぼである。だから手放せないとアグリは思い込んでいたが、心のどこかで田んぼを耕して実りを待つ、そんな平穏な暮らしに憧れがあったのかもしれない。
(いま考えても仕方ない)
アグリはふうっとため息をついた。
男たちはアグリをネタにした軽口を続けていた。アグリは呆れたような顔をして指をこきこきと鳴らした。
「おまえら、もうそれぐらいにしろよ」
アグリは少し凄んでみた。案の定、男たちは委縮した。
「お、おれを殴る気かよ」
「ばーか。おまえなんか殴ったってなんの得にもなりゃせんだろが。殴るんならやみのヤツらだ」
「わはは。確かにそうだ」
また男たちはげらげら笑う。
「さ、集会場に入るぞ。里長の指示を伝える」
アグリは、追い入れるようにして男たちを大部屋に入れた。
田野池の屋敷には二十畳ほどの大部屋が五つ備えられている。そこは「集会場」とよばれ、普段は村学の教室である。アグリは玄関わきの「一の集会場」担当であった。
アグリは気が重かった。男たちの軽薄さが気になったのである。
生命に危機を感じている証拠だ、とアグリは思った。非能力者でも巨大なやみが襲ってくることを直感している。彼らにとってはあまりにも漠然とした、しかし、膨大な不安であろう。だから現実を直視する勇気がなく、あのような軽薄な明るさとなる。
(とっくみあいのケンカでもしてくれたほうがよほどましだ)
そうは思ったが、アグリにもいまの状況がその域を超えていることはよくわかっていた。イライラしてケンカをするというのはまだ今後に希望があるということだ。
(巨大なやみが来るってんだから、しゃあねえな)
アグリは集会場の中を見まわしてため息をついた。
(しかも、最悪の環境だ)
二十畳ほどの大部屋に三十人ほどが詰め込まれ、足を伸ばすこともできない。おまけに湿気がひどい。ねばついた汗がたまらなくなってじりっと出て流れる。息をすることも困難になってきたが、窓を開けることができない。それだけでも過酷な環境であるのに、これからおそらくやみが襲ってくるであろうという不安で、村人の精神状態は普通ではない。老人たちはうつむき、女、子どもは泣き出しそうであり、それを守ろうと男たちは異様な緊張をして悲愴感を漂わせている。
アグリはつとめて明るくいった。
「皆、感じているだろうが、これから嵐が来る。そして巨大なやみが来る」
恐怖と不安の声で場がどよめく。
「だが、コウさまがもうじき田野池においでになる!」
場内から「ああ」という安堵の声が漏れた。里長イクリがはっきりとそういったわけではなかったが、アグリはあえて伝えた。希望を持って欲しかった。
「しかし、安心するな。長は『小者が部屋に入ってくる』とはっきりいわれた。札を手から外すな。祓いのできるものは窓と扉に寄れ。数珠を落とすなよ」
そのとき、外からざあっと騒ぐような音がした。
(降り出した。少しは涼しくなるだろう)
「ずいぶんと暑い部屋で悪いな。あと少しの辛抱だ! いまは未の中刻。申の刻限には外の冷たい空気が吸える。そしたら酒でも飲もう!」
人々の顔つきが少しやわらいだ。
「では部屋に護符を貼る」
アグリは廊下に出た。祈りのことばを唱えながら、ぱん、ぱん、と丁寧に札を貼った。アグリを含め四人の祓い師が廊下に出ていた。一、二、三、四の集会場の護符を貼り終えた。
(あとひと部屋。五の集会場の祓い師は、やっぱりセルムだな)
セルムは穏やかな性格で行動もゆっくりだ。アグリの幼なじみで、能力者のくせに泣いてばかりいる子どもだった。能力を使いこなすことができずにいつもアグリにくっついてくる。仕方ないからアグリが祓いの方法を教えてやったりした。しかし、セルムは中央で学ぶ頃になると徐々に祓い師としての力をつけていった。いまはアグリと並んで働き、里の中心となってはいるがやはり行動は遅い。
(なにやってんだ、セルムのやつ。まーた愚痴を聞いてやがんな)
アグリは、廊下の隅に六人の村人が座り込んでいることに気づいた。大部屋の中で気分が悪くなった者や、もめ事を起こしそうな者が外に出されたのだろう。数人であれば廊下に待機する祓い師だけで守れると見込んだのだろうが、廊下で待機する祓い師は二人だ。あと三人は裏庭で待機する。しかも、祓い師が自由に出入りできるようにするため玄関に護符は貼らない。万が一、玄関から大きなやみが襲ってきた場合には太刀打ちできない。
アグリはひとりの女性と目があった。その女性は赤ん坊に乳を含ませていた。彼女はすまなそうな顔でひとつ会釈をした。
「アグリさん、悪いっす。中の空気があんまり良くなくて・・・」
ひとりの若い祓い師がアグリにいいわけをしてきたが、それ以上に詳細を伝えようとはしなかった。
(たぶん、赤ん坊が泣き出したとかで誰かが文句でもつけたんだろう。いまは赤ん坊も落ち着いているし、母親も穏やかな顔をしている。ここで良かったのかもしれない)
アグリはたくましく光る腕を組んで、若い祓い師と赤ん坊の母親に笑って見せた。
「しかたないさ。おまえ、裏庭が持ち場だろ。もう行きな。ここはなんとかする」
若い祓い師はほっとした顔でアグリに一礼して外に出ていった。
五の集会場からセルムが出てきた。ひとりの若い男を連れている。セルムは男を奥にある布団部屋に入れ、柔和な顔つきで布団部屋の戸に護符を貼っていた。その後、五の集会場に護符を貼るとセルムはアグリを見つけ、うれしそうにすたすたと近づいてきた。
「セルム、どうした」
「ひどく頭痛がするんだってさー。あの集会場じゃあねえ。体調の悪いやつは、まあ厳しいなあ」
セルムは話し方もゆっくりでけだるそうにも聞こえ、アグリはいつもイライラさせられる。
「布団部屋まで責任は持てないぞ」
「わかってるさー。本人も了解ずみだよー。あいつはまあ、最近祓いの力をつけてるらしいし、たぶん小者なら大丈夫だろうさ」
「ならいいが」
「ああ。ガンさん仕込みさー」
「へえ。殴るのか」
アグリはこぶしをつくり、構えて見せた。力こぶが艶めいた。セルムは笑いながら受け身をとった。
「それはどうかなあ。おまえじゃあるまいしー」
「なんだよ、やみを殴るんだからいいだろ。人は殴んねえぞ」
アグリは口をへの字にしてこぶしをといた。
「はは。子どもの頃からそういってさー、信じるといつも裏切られるんだよなあ」
「昔のことをとやかくいうなよ」
「じゃあ、これからはそう願うよー。・・・じゃ、俺は庭に出るから」
「ああ。イクリさんに護符を貼り終えたと報告たのむな」
「りょうかいー」
「ひどい雨だ。気をつけろよ」
「それもりょうかいー」
セルムはにこにこしながら、すたすたと玄関に向かった。
(あいつ、大丈夫かな)
しかし人の心配をしている場合ではなかった。
廊下を見まわして状況を確認する。
廊下には六人の村人、一人は赤ん坊を抱えている。布団部屋に一人。祓い師はアグリも入れて二人。小者が入ってきたとしても俊敏な動きが必要である。
アグリはもう一人の祓い師を見た。イシンという長老であった。筋肉質であるが小柄である。長老と言っても年は五十代前半。手練れの祓い師であり、段取りがよく祓いも動きも早い。
イシンはアグリの師であり、アグリはイシンを心から尊敬していた。イシンは統率力のあるリーダーというよりは祓いの職人であった。大きな力はなかったが、たゆまぬ探究心と根気強さでは右に出る者はいないと、アグリは常にわが師を誇らしく思っていた。
アグリの祓いは力強く破壊力があった。ガンザンの祓いに憧れ、子どもの頃からガンザンの真似ばかりしていた。しかし、おおざっぱで仕事が粗く、思ったような結果が出ない。一時期は祓い師をあきらめようかと思ったこともあった。そんなときイシンに声をかけられた。イシンの祓いの「技」はアグリにとって驚きであった。力だけではない祓いをイシンに学び、祓い師として力を発揮できるようになった。イシンもアグリを娘のようにかわいがり、すぐに感情的になるアグリを根気よく指導した。
イシンは廊下に出ている六人の村人に声をかけ、祓いができるもの、できないものに分けて並ばせている。終わるとアグリに指示を出した。
「アグリ、おまえは三、四、五の集会場と布団部屋だ。この者たちと一、二の集会場は私が担当する」
「はい」
「それから、優先順位は集会場だ。手がまわらないときは布団部屋を捨てろ」
「イシンさま、それは・・・」
「万が一のときの話だ」
イシンはアグリの目を見ない。
「はい」
(そう、仕方ない。犠牲は少ないほうがいい)
アグリは目を伏せた。
セルムは外に出て驚いた。
(コウさまがいらっしゃる・・・)
降りしきる雨の中で、扇型に並んだ祓い師たちの先頭にコウは立っていた。横に愛犬テテを従えている。イクリはコウの斜め後ろに立っている。対称の位置にケイリが立つ。祓い師たちは羽犬を従えていない。羽犬は裏庭の犬舎に入れておくようコウから事前に指示が出ていたのである。
「コウさまは羽犬を使うと力が分散するといわれた」
イクリがぽつりとそういったとき、セルムは背筋が寒くなったことを思い出した。
つまり、巨大なやみがこの避難所だけをねらって襲ってくるってこった。まあ、彼らの獲物が集中して大量にここにいるんだもんな。俺がやみひとだったら同じことするよなあ。
セルムはがしがしと頭を掻いたあと顔をぱんぱんっと両手ではたき、イクリがいる場所に急いだ。
コウの指示がセルムにも聞こえてきた。
「私はテテに乗ってゆっくりと上にあがる。警鐘番には私の動きが止まったら鐘を止めろと伝えよ。つまり、私が止まったところまでやみが立ち上がってくるということだ。これから来るやみはいままでと比べものにならない。驚いて気後れするな。よいか、鐘が止まったらそれが合図だ。まず私が一気に祓う。おまえたちはそこをすりぬけたやみひとを祓うのだ。注意すべきは二番目だ。二番目が強い。少し長い戦いになるが根気よく丁寧に祓うのだ。この雨で体力が奪われるだろう。だが、最後まで気張れよ」
激しい雨よりもぴりぴりと緊張した空気のほうが痛く感じた。庭の真ん中で焚かれていた火も、家々の まわりの松明もこの雨で消えたのであろう、煙さえ見えない。
セルムがイクリのそばに静かに歩み寄ると、
「護符は貼り終えたか」
とイクリから聞いてきた。
「はい」
「コウさまの指示は聞いたな」
「はい。確かに」
「屋敷まわりの者たちに伝えよ」
「かしこまりました」
「行けっ」
「はっ」
セルムは駆けだした。すると、カーン、カーン、カーン、カーンと警鐘が鳴り出した。
(まだやみの気配がしないのに・・・)
セルムは振り返ってコウのようすをうかがったが、コウは前だけを見据えて立っている。イクリの後ろに三人の祓い師、ケイリの後ろに三人の祓い師が整然といた。
(鐘はコウさまの指示か。コウさまはすでにやみの気配を感じておられるのか)
雨が強くなってきた。セルムは裏庭へと急いだ。
カーン、カーン、カーン、カーン
鐘が鳴り続ける。豪雨の中で音の響きが悪い。が、祓い師たちにとっては決して聞き逃してはならない音であった。
コウの右後方にはケイリが立っていた。重心は低く、しっかと大地に足をつけている。いつもの目立たない老婆とは思えない存在感である。ケイリはコウのうしろ姿をじっと見つめた。
(気後れするほどのやみ、か)
ケイリは雨に濡れて重くなった手ぬぐいを捨てた。雨の中で汗を拭く必要もない。手ぬぐいを捨てると自分が裸になった気がした。
(巨大なやみが来るというのに、なんと清々しい気持ちであることか)
鐘の音は轟音を立てる雨に吸収されながら苦しそうに鳴り続ける。
カーン、カーン、カーン、カーン
祓い師たちは動かない。じっと息を殺し、五感を全開にして来るべき瞬間を待った。
(この歳で真の生命力が試されるとはのう。それもよかろう)
ケイリは自然と笑いがこみあげてきた。
と、いきなりコウが振り返ってケイリを見た。ケイリはぞっとした。コウが笑っていたからであった。目がらんらんと輝き、頬がぐっと上がり、まるでいまから罪行を楽しむかのような、恐ろしい顔。
「ケイリ、よい顔をしているな」
「はっ」
「来たな」
コウは小さくいった。
途端にケイリの背中からおぞけるような寒気が這い上がってきた。ぶるぶるっと震え、それが首元まで上がる。あまりの威力にケイリは戦慄したが、思いっきり笑い出したいような気分になり、一方でその状態を楽しんでいる己の余裕に驚きを感じた。
(望むところよ)
ケイリはいま自分がコウの顔と同じ顔をしていることを悟った。
ず、ず、ず、ず、ず、ず
祓い師たちは地をぐっと踏みしめ、構えをとった。警鐘台の鐘が鳴り続く。
カーン、カーン、カーン、カーン
コウはテテに乗り、テテは、ばさっ、と羽音をたてて飛び上がった。ばたばたばたっと羽に大粒の雨が当たる音がする。その音で激しい雨なのだと再認識する。
ず、ず、ずず、ず、ず、ずずず。
おお、お、おお、お、おお、おおお。
ゆっくりである。地の底から響いてくるような地鳴りとやみの粒子たちのうなり声が近づく。それらは思い思いに重なり、離れ、不協和音を奏でる。殺気というよりは死人が近づいているようであった。
ケイリは目の前の空間がとてつもなく広がったのを感じた。その瞬間、自分のからだが小さくなったと思った。同時に全身の毛穴がくまなく小さな針でつつかれているような感触を味わい、ぞわっと全身の毛が逆立った。
ず、ず、ずず、ず、ず、ずずず、ずず、ずず。
おお、お、おお、お、おお、おおお。おおおおおお。
(見えた。おお、これは。確かにいつものやみではない)
ケイリの目から涙があふれた。思いがけないことに、この老婆は感動していたのであった。ケイリは自然と融合した。雨の音が聞こえなくなり、時が止まったかのような空気の中で、鐘の音だけが自分の聴覚を支配した。
(まだか、まだ鐘の音はとまらぬか)
テテはずんずんと空に上がっていく。その高さが増すごとに、祓い師たちは背中に一枚ずつ枷が重ねられていくような気がした。
カーン、カーン、カーン、カーン、
カーン、カーン、カーン、カーン、
カーン、カーン、カ・・・。
(止まった)
やみの粒子たちのうなり声が頂点に達した。
おおおおお、
おおおおおおおお。おおおおおおおおお
ぐ、ぐう、ぐうう、ぐ、ぐうおおおんんんん
(高い)
お、お。お、おお、おおお。
お、お、おおおおおお。
巨大な暗黒の霧が立ちはだかっているようであった。無数のやみひとが恐怖のうなりをあげて人を物色している。ケイリはさっと左手を額のまえに持ってきた。二重に施した数珠が、ちゃら、と触れ合った。
(来るか)
つぎの瞬間、上から激しい声が降ってきた。
「我はコウなり! 空の神よ! 我に浄化の力を与えよ!」
(浄化だと?)
ケイリはとっさに上を見上げた。真っ暗な空の一点が急に明るくなり、そのあと、ごおおっ、と音がした。光はどんどん大きくなって空中高く浮遊しているコウのからだに、どおんっ! と落ちてきた。コウはそれを両手で受け止めた。
「はああああっ」
ず、・・・どおん
両手にあふれる光は、巨大な霧に振り落とされ、霧を一気にたたき崩した。それはずっしりと重い大鉈が、巨大マグロを真っ二つにたたき切るようすに似ていた。直後、光は切り口からすばやくやみの領域を侵食し、やみひとは高い悲鳴をあげて消えていく。光たちはたったいま犯した罪を気にも留めず、きらきらとまぶしく輝き、無垢な少女のように清らかに地に降りていく。
(なんと残酷な、なんと美しい光景だろう)
ケイリは圧倒されてしまった。
(いままでとはまったく違う。これがほんとうのコウさまの力か)
ケイリは、はっとして我に返り、目の前に飛び込んでくるやみひとを祓った。ケイリはとっさにイクリを見た。思った通り、さっきまでの自分と同じように呆然としている。
「イクリ! なにしとるかあっ! ぼうっとするな!」
ケイリが叫ぶ。イクリははっとして慌てて返事をした。
「は、はいっ!」
やみひとが屋敷に飛び込もうとしている。イクリは慌てて飛ぶようにして駆け、やみひとを祓ったが何体か逃してしまった。
「申しわけありません!」
「ばかが! 油断するな! 次が来るぞっ!」
「は、はいっ」
イクリは叱られはしたがケイリの声を聞いて救われた。一個体の人間に戻れたことを感じた。なんせ月も星もない夜、しかも豪雨に打たれ続け、感覚が麻痺し、仲間のようすはおろか自分の存在さえ不確かである。
事実、イクリは自失していた。ケイリの声を聞いて自分に気づき、声を出して人として覚醒した。おそらくケイリも同じ状態だったのであろうと察した。
頼りは声である。しかし、この暴雨。ケイリの声はなんとか聞こえたが、後ろの祓い師たちに声をかけても聞こえるかどうか。
ず、ず、ず、ずず、ずず、ずず、ず、ずず、ずずず
(来た・・・。二番目だ)
お、おお、お、おお、お、おおお
おおお、おお、おおおお
(なんだ、これは。大きすぎる)
イクリはテテの浮遊している高さを確認した。
(うっ。さっきより高い位置におられるぞっ)
テテはひゅうっと右の方向に位置を変えた。その位置を確認し、ケイリとイクリは立ち位置を変えた。豪雨で足場はゆるい。後ろにいる祓い師たちも俊敏に位置を変えたが、ひとりだけ足を滑らせて転んだ。屋敷のなかに灯されている明かりでようやく人の形は見てとれる。ケイリとイクリは叫ぶ。
「大丈夫か! 皆、返事をせよ!」
「はい!」
「気をしっかり持て! 油断するな!」
「はい!」
雨の轟音のなかでも叱咤激励されていることは皆にわかったのであろう。意味がわからなくても通じなくても、人の声を感じてみずからも人の声を発することで生きていることを認識した。からだの表面の感覚はすでになかったが奥から熱くなってくる。
おお、おおおお、おおおおおお
おおおお、おおおおお、おおおおおお
ぐ、ぐう、ぐうう、ぐ、ぐぐぐ、ぐう・・・
再びコウの声が聞こえた。
「我はコウなり! 空の神よ! 我に浄化の力を与えよ!」
ぐうおおおんんんん
膨大な霧の塊が地の底からぐーんっと盛り上がり、噴き出すように現れた。
ケイリはやみの高さを見極めようとしてはっとした。やみが昇っていくその先にコウがいたのだ。コウはテッテを踏み台にしてぽーんと飛びあがり、そのまま滞空した。
(あっ。コウさまが飛んでおられる)
コウは背中に大量の光を背負った。両手をうえにあげ、ぐるん! と渦巻く光を抱えて、
「つああああっ」
と一喝し、光の塊をせり上がるやみに、どごんっ! とたたき下ろした。膨大な霧の塊は上からぐしゃっとつぶされたような格好になった。そのあと塊はばーんと音を立てて一散してしまった。
コウはうえからするすると落ちてきた。光たちはコウに無邪気にからまった。すると、どこから飛んできたのかテテがすうっと現れてコウをさらった。
コウはテテの背にしがみつくようにして叫ぶ。
「テテ、下へ!」
テテは急降下し、祓い師たちの上に降りてきた。
ケイリは細かく砕かれながらも生き残ったやみひとをつぎつぎと祓っていた。祓い師たちも俊敏に動き、屋敷に入り込もうとするやみひとを祓う。ここでも光の粒子たちが皆を賞賛するかのようにきらめいて降り続けている。
やみの塊があまりにも勢いよく壊れたために、やみひとの生き残りたちは屋敷のまわり一帯に飛び散った。
頭上からコウの叫ぶ声がした。
「屋敷のなかを祓え! 急げ!」
「はっ」
祓い師たちは屋敷のなかにつぎつぎと駆け込んでいく。
そのあとテテはすうっと屋根の上まであがり、コウはすとんと屋根に降りた。
コウは右手の人差し指を高く掲げ、祈りのことばを唱え、天を仰いだ。
「空の神よ。我に力を与えよ」
空から一筋の光がコウの人差し指に向かって降りてきた。コウは息を吐きながら右手を下ろした。光は浅瀬の小川のように清らかに、田野池の屋敷だけでなく辺りの田畑まで包み込んだ。光はきらきらと輝いて、家に、木々に、田畑に、吸い込まれていくようであった。
「終わったか」
コウは目を瞑って祈った。祈りを終えてふううっと長い息を吐いた。テテは少し離れたところにいたが、コウの祈りが終わったことを察知し、身をすり寄せてきた。
「テテ、ご苦労だった。悪いがすぐに南へ向かう」
コウはテテの頬をなでさっとテテに乗った。
ケイリが静かにコウを見あげていた。
「コウさま。おかげさまでみな無事でございます。まことにありがとうございました」
「ケイリ、ご苦労だった。皆にもそう伝えてくれ。私は南へ行く」
コウはテテに乗って浮遊したまま、せっかちにいった。
「かしこまりました」
「テテ、急いでくれ」
「コウさま、どうぞご無事で」
そのことばはコウには届かなかった。テテはひゅうっと飛び上がり夜空に消え入った。ケイリはその姿が消えてなくなってもなお、いつまでも見続けた。
田んぼから蛙たちの透き通るような声が聞こえてきた。
雨は小降りになっていた。
ケイリはひどく疲れていた。庭に据えてある腰掛け岩に、よいしょ、と座った。まさに農作業を終えて疲れたからだを休める老婆であった。すがすがしい風がからだをなでた。異様に寒く感じて全身びしょ濡れだと気づいた。
老婆はただじっとしていた。
屋敷からどやどやと人が出てきた。皆、安堵の表情である。若い男たちの笑い声さえ聞こえてくる。老婆の横を若者たちは騒がしく通り過ぎていった。また、子どもたちも騒ぎながら老婆の前をたたたっと走っていった。後ろから女たちが子ども叱りつけ、自分たちはおしゃべりを続けながら通り過ぎる。老婆に気付く者は誰もいない。
ケイリはまるで姿の見えない精霊であるかのように座り、村人の幸せなようすを感じてうっすらと笑みを浮かべた。そしてしずかに目を閉じ、空の神に感謝の祈りをささげた。
ケイリが目を開けてまわりを見ると、そこは見慣れているいつもの庭でありながら、いままでに見たことのない世界であった。自己の精神が新しくなったことを感じた。
(ああ、これからやっと真の働きができるのだ)
イクリはケイリを少し遠くから見ていた。ケイリの祈りが終わったことを確認して声をかけた。
「おばさま。手ぬぐい、持ってまいりました。どうぞおからだをお拭きください」
イクリはずんずんと歩いてきてケイリのまえで膝をつく。手に持っていたのは二枚のおろしたての手ぬぐい。
「うむ」
ケイリはそれを受け取り、ふと捨てた手ぬぐいを思い出した。
「お捨てになったてぬぐいはうちのやつに拾わせましょう」
「いや、もうよい。これがある」
ケイリはイクリが渡した真新しいてぬぐいを不器用に撫でた。イクリはケイリの節くれだった手を見て微笑んだ。
「今日はお疲れになったでしょう」
「ああ」
「早く屋敷にお戻りになってゆっくりお休みください」
「うむ」
イクリはケイリがまた無口になったことに安らぎを感じ、なんともいえない幸福感でいっぱいになった。
ケイリがことばをかけた。
「コウさまが皆に『ご苦労だった』と」
「伝えます。皆、喜びましょう」
「えらく寒いのう」
「え」
「イクリ」
「はい」
「あとは頼む」
「心得ました」
「少し、休む」
「はい」
ケイリは穏やかな顔で目を閉じ、ふうっと大きく息をついた。
「おばさま、ここでお休みになっては風邪を引きます」
イクリはケイリの肩に手をおいたが、ケイリは動かなかった。
「おばさま?」
イクリははじかれたようにケイリの顔をのぞき込んだ。
ケイリのからだは力なく崩れた。その小さなからだをイクリは大きな腕で受け止め、何度もケイリを呼んだ。
「おばさま! ケイリさま!」
ケイリは息をしていなかった。イクリはとっさに膝に乗せられたケイリの両手を握った。節くれて樹皮のようにかさついた両手は新しい手ぬぐいをしっかりと握っていた。イクリはその手に顔を埋めるようにして泣き崩れた。