縷々伊江-R'lyeh-
そして、どこからか聞こえてくるカラカラという耳障りな音に私は目を覚ましたのです。気づくと歯を強く食いしばっていました。何か悪い夢でも見ていたようですが、その内容はまるで覚えていませんでした。
どこからか腐ったような磯のにおいがします。
目を開けると、視界が妙な色に埋め尽くされていることに気づきました。青ではないのですが青と表現するのが一番近いでしょう。夜明けのような青さでした。水底のような青さでした。周囲には霧が出ているのでしょうか、わずかに霞んだようなその景色はユラユラと揺れているように見えました。
どうやら今までバス停のベンチに腰かけて微睡んでいたようです。私は眼球を右、左と動かすと、腰かけていたベンチから立ち上がりました。
それから、私は手に持っていた糸車を回しはじめます。カラカラと耳障りな音をたてて糸車は回りはじめます。私はこの町に映画を撮りに来たのでした。だから糸車をカラカラと回すのです。なぜなら、そうすることによって映画は作られるからなのです。それからまた私は糸車についたレンズを覗き込んだのです。
向かいのガードレールのうえには白いお地蔵様の首がいくつも並んでいて、私を見張っていました。「阿耨多羅三藐三菩提。」「阿耨多羅三藐三菩提。」そうぶつぶつと小声で呟くお地蔵様達の首に魅入られそうになった、その時、
「――あれは塞の神と言って、境界を守る神なのです。」
そう背後から声をかけられて私は振り向きます。見ればバス停の片隅。暗がりとなったそこには、一面びっしりとコケのこびりついた水槽が安置されていました。私は水槽へと近づき、その内側を覗き込みます。
管に包まれた水槽の中には、蟹の顔をした奇形の子供が二人眠っていました。
彼女らは異種交配と近親相姦を繰り返したあげく産み落とされたそうなのです。そうして〝忌み子〟として此ノ場所に閉じこめられたというのです。何処でもない此ノ場所に閉じこめられているというのです。どうやら、その片割れが私に声をかけてきたようでした。彼女の顔は蟹そのものでしたが体は人間のものでした。水面に浮かんだ、丸く、生白い尻がユラユラと揺れています。私がその光景を黙って眺めていると、やがて、もう片方の子供も水面から白い乳房を半分だけ出して、私にこう語りかけたのです。
「塞の神は、町に入ってくる悪いものと町から出て行こうとする悪いものを食べるのです。」
その飴玉のような乳首がわずかばかり覗きます。私がこれから何処に行けばいいのかを彼女らに尋ねると、蟹の顔をした双子は声をそろえて、こう答えました。
「海にはカタコンベがあります。地下にはカタコンベがあります。つまり、どちらに行っても同じことなのです。」
そう言うと、蟹の顔をした双子は、水銀でできた泡を噴いて黙りこんでしまいました。
それっきり。
*
外を見れば、ようやく霧が晴れてきたようです。バス停をあとにした私は、町へと向かうことにしました。バス停から続く四つ辻には、地面に小石がいくつもいくつもいくつもいくつもいくつも並べられていました。それらの配置には一つ一つ意味があって、絶対に動かしてはいけなかったのですが、この小石があると、私は町へと向かうことができません。だから私は足元に並んでいたそれらの石をすべてバラバラに蹴散らしてしまったのです。――やってしまったあとで、私はそのことをひどく後悔しました。恥辱にも似た後悔でありました。屈辱にも似た後悔でありました。だから私は逃げだすようにして、その場をあとにしたのです。
道端では人の形をしたカラスが人の形をした小鳥を食べていました。バキバキという嫌な音が聞こえてきます。
坂道を下っていくと、すぐに町の中心へと辿り着くことができました。この町は左右対称になっていて僅かに歪んでいるように見えるのです。見る角度によっては上下が逆になっているようにも思われます。住人達はみな〝余所者〟である私に敵意を抱いている様子であり「よく還ってきた。」と泣き叫ぶ者もあれば「はやく還ってきてくれ。」と願う者までありました。
けれど私は、ユラユラと揺れる水面を見上げ、カラカラと糸車を回すだけなのです。なぜなら、そうすることによって映画は作られるからなのです。それからまた私は糸車についたレンズを覗き込んだのです。
子供たちのいない公園には巨大な柱が一本、立っていました。なんらかの役に立つわけでもなく、なんらかの意味があるわけでもなく、ただ地面に黒い影を落とすだけの灰色の柱です。この柱は直立しているようにも見えますし螺旋を描いているようにも見えます。その柱の上では、小さな裸の雛が大きな梯子を抱えて光る雲を見ていました。「――もうすぐ夜が明ける。はやく逃げろ。」裸の雛はそう呟くと、町全体に響きわたるサイレンを鳴らしはじめます。サイレンを耳にした住人達の半分はそろって何処かへと向かって走りはじめました。もう半分は耳をふさいでしゃがみ込んでしまいました。
けれど私は、ユラユラと揺れる水面を見上げ、カラカラと糸車を回すだけなのです。なぜなら、そうすることによって映画は作られるからなのです。それからまた私は糸車についたレンズを覗き込んだのです。
すると、景色の一点が、まるで切りとられたようにして黒一色に塗りつぶされているではありませんか。――妙だな、と思って見ているうちに、やがて気づきました。それは巨大な人影だったのです。その人影は向こうから音もなくやって来たかと思うと、逃げまどう住人達を一人一人、その影で出来た真っ黒な触腕で捕らえていきます。そうして、影に追いつかれた者達はまた影になるのです。――あゝ、彼らはきっと〝影踏み鬼〟をしているのだな。私はそう思いました。だから、悲鳴をあげて逃げまどう人々を誰一人、私は助けなかったのです。なぜなら私の仕事は、ここで、こうして糸車を回すことだけなのです。カラカラと糸車を回すことだけなのです――。
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――ようやくプレアデスの七人姉妹へと追いついたオリオンは、彼女達を泥の中で犯しはじめた。黒い男の下で白い女の体が魚のように跳ねる。こうして、この町は再び地上へと還ったのだ。見上げると、大きな真昼の月が出ている。きっと、あの月に引かれたのであろう。
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けれど私は、ユラユラと揺れる水面を見下ろして、カラカラと糸車を回すだけなのです。なぜなら、そうすることによって映画は作られるからなのです。それからまた私は糸車についたレンズを覗き込んだのです。
それから、大きな災厄がこの町へと降りかかりました。けれど〝影踏み鬼〟は今でもまだ続いています。実体を捕られ、影絵のようになってしまった者達が、あとからあとから湧いて出て、一つの方角へと向かって走っていきます。地を蹴る靴音を全て一定にそろえ、整然と走っていくのです。一列になって走っていくのです。――あゝ、なるほど、彼らはきっと〝避難〟しているのだな。私はそう思いました。――ならば、彼らはきっと〝体育館〟に向かっているのだな。あなたはそう思いました。映画を作るためには様々な〝シーン〟が必要です。そういったわけもありますから、私はカラカラと糸車を回しながら、彼らのあとについて歩きはじめたのです。
しばらく行くと、そこは薄暗い竹林のなかでした。昔、私が従姉妹達と遊んでいた、あの竹林であるように思われます。昔、彼女らと戯れるようにして交わった、あの竹林のことです。その証拠にほら、足の裏には湿った土の感触と、その下に眠る固い骨の感触を覚えるではありませんか。しかも、竹林の先には砂利の敷き詰められた薄暗い坂道まで見ることができました。私が昔、ころんで膝を血まみれにしたあの坂道です。あのとき、従姉妹達は私の傷を舐めて癒しました。今でも、あの、ぬめるように生温かい舌の感触と、肉と骨を嬲られるその痛みを、私は忘れることができずにいたのです。
けれど私は、ユラユラと揺れる水面を見下ろして、カラカラと糸車を回すだけなのです。なぜなら、そうすることによって映画は作られるからなのです。それからまた私は糸車についたレンズを覗き込んだのです。
細くて急な坂道をのぼっていきますと、そこは行き止まりになっていて、その先が学校でした。けれど、その学校には校舎がありません。乾いたグラウンドの真ん中に、ただ古くて大きな体育館だけがあるのです。体育館の扉は大きな南京錠によって閉ざされていましたが、すでに、銀の鍵は来るとき拾ってありました。その鍵で体育館の錆びついた鉄の扉を開けると、途端に甘いにおいが鼻をつきます。それは、腐った果実のように胸を重くするにおいです。濃い花の蜜のように胸をざわつかせるにおいです。何ごとかと思ってあたりを見渡せば、広くて薄暗い体育館の中には、バラバラになった少女達の身体がそこらに転がっているではありませんか。それは、白衣を着た双子の老婆が解体しているのでありました。老婆達の体にはいくつも継ぎ目があって「これも違う。これもわたしのじゃない。」そう呟きながら赤子のように這っています。きっと足をサガシテイルのだと思われます。
それから、とんとん、とんとん、となにやら小気味よい音がするので見てみれば、少女の頭部がバスケットボールのようにしてこちらへと転がってくるところでした。体育館の隅の暗がりから、少女の頭だけが、二度、三度、と大きく跳ねたあとに、こちらへと転がってくるところでした。
私は、足元に転がってきた少女の頭を、そっと優しく抱きかかえました。
それは、白い肌に紅い唇が艶めかしく映える美しい少女の頭部でありました。長い黒髪がすべるようにして一筋、頬にかかっている様子が儚げです。閉じられた瞼を飾る長い睫毛は怯えるようにして小さく震えています。――彼女の仕草。その一つ一つの在り方が、私にはひどく蠱惑的に映りました。だから、私は今すぐにでも彼女を自分のものにしたくなったのです。どうしても彼女を自分のものにしたくなったのです。なぜなら、私はきっと彼女を探しつづけていたからです。これこそが今までずっと追い求めていたものなのです。そういったわけもありますから、私は迷うことなく少女の唇に自分の唇を重ねたのです。その少女の口は異様に小さなものでありました。その、狭く柔らかな肉の感触を押しのけ、口内に舌を進めますと、すぐに彼女もそれに応えるようにして舌を絡めてきたのです。私は夢中になってその温かい〝ぬめり〟を舌先で味わいました。蠢くようにして絡み合うその感触を舌全体で丁寧に舐めとっていったのです。彼女の口内は、まるで、甘い蜜酒が満ちた壺のようでありました。その酩酊するような感覚に、私の意識は次第に溶けていって、やがて、落ちて、消えたのです――……。
*
――翌日。その日は白夜のようにして夜が明けることはありませんでした。しかし、オーロラの不気味な輝きが町中の通りという通りを妖しく照らしだしているので視界は充分に保たれていました。広場では祭か葬式をしているらしく、蒼白い火を放つ蝋燭が、幾本も幾本も灯されています。真っ白な仮面をつけた町の住人達はみな波打った剣を構えています。鍵穴の無い兜をかぶった六本足の雄牛は全部で三百十二頭いるのです。広場に集まった住人達はみな偶像を崇拝しています。その偶像の姿は、まるで蛸のように膨れあがった腹を持つ妊婦のようにして私には見えたのです。
"Ph'nglui mglw'nafh Cthulhu R'lyeh wgah'nagl fhtagn"
"Ph'nglui mglw'nafh Cthulhu R'lyeh wgah'nagl fhtagn"
偶像を取り囲んだ住人達は、繰りかえし繰り返し、そう唱えています。彼らが拝んでいる棺桶を私が覗き込んでみると、そこでは、淡い燐光を帯びた二匹の蝶が交わっていました。大きな雄の蝶が、まだ蛹から孵ったばかりの幼い雌の蝶を犯しているのです――。
けれど私は、ユラユラと揺れる水面を見下ろして、カラカラと糸車を回すだけなのです。なぜなら、そうすることによって映画は作られるからなのです。それからまた私は糸車についたレンズを覗き込んだのです。
次に、場所はどこかわかりませんが、私は瓦礫が丘のように積み重なった場所に立っていて、その光景を眺めていました。崖の下は海で、その海岸には数千頭の鯨が打ち上げられていました。海は鯨たちの血で真っ赤に染まっていて、甘い血の匂いがするのです。あなたの周囲には人々が集まっていて、私と同じように海を見下ろしています。彼らはみんな自分の鯨を気にしていました。自分の鯨が大丈夫かどうか、みんな気にしていました。この町の住人達はみな、人間が牛や豚を飼うのと同じようにして、鯨を飼っているのだと云います。打ち上げられた鯨たちは、波に弄ばれるようにしてユラユラと揺れていました。白い月明かりに照らされて、ぬらぬらと妖しく、そして優しく光る鯨たちの亡骸は、どこか官能的でさえありました。おそらく、遙か太古から、その光景が全ての生物を狂わせてきたのでしょう。〝うぃるす-HIV-〟は免疫を犯して人類を浸食します。けれど人間も〝うぃるす〟の一種です。此ノ町で崇められている古い神様が、此ノ星と一つになろうとして構築した〝しすてむ〟です。
その後、私達は打ち上げられた鯨を鍋にして、みんなで食べました。温かく、ぬめるような味わいのその肉を食べていると、突然、「がちり。」と何か固いものを噛みました。慌てて口内に手を入れて確かめてみれば、私の前歯が中ほどから半分に折れてしまっているではありませんか。私はその感触に悲しくなってしまうのです。――それまで当然のようにしてあったものが、今はもうありません。私は強い喪失感をおぼえ、打ちひしがれました。私の前歯を折ったのは小さな銀色の鍵でした。しかも、その持ち手には真っ黒な女の髪が絡みついているではありませんか。私は、今までずっとその髪を糸車で巻き取っていたのです――……。
*
そして、どこからか聞こえてくるカラカラという耳障りな音に、あなたは目を覚ましたのです。気づくと歯を強く食いしばっていました。何か悪い夢でも見ていたようですが、その内容はまるで覚えていませんでした。窓を開けてみても、もうそこには何もありません。たしかに昨日まではあった。けれど、今日はもうない。気づくとあなたは銀色の糸車を握り締めていました。ついに、あなたが紡ぐ順番が回ってきたのです。
"Ph'nglui mglw'nafh Cthulhu R'lyeh wgah'nagl fhtagn"
ルルイエの館にて、死せるクトゥルー、夢見るままに待ちいたり