桜、舞。
桜が舞うと、君のことを思い出す。それは、僕が小学生の頃の記憶。
よく晴れた日曜日。どこまでも青い空を眺めていると、聞こえてきたのは母の声。
「ほら! いつまで家に閉じこもってるの! 子供は子供らしく、元気に外で遊んで来なさい!」
リビングに置かれたソファに寝転んでいた僕を、転がすようにして母が外へ連れ出そうとする。ちょうどいい温度に包まれ、気分良く微睡んでいたというのに台無しだ。母のこういう強引なところが小さい時から僕は苦手で仕方なかった。だから、簡単に言うことを聞いてやるものかと思っていたのだけれど、そんな力が子供の頃の僕にあるはずがなく、渋々と寝転んでいたソファから降りる。そのまま、無理やり被せられた帽子と、これまた無理やり持たせられたサッカーボールを片手に、僕は家を追い出されたのだった。
「眩し……」
煌々と輝く太陽の光を受けて、思わず目を細める。四月を迎えたばかりだというのに異様に暑い今日。体を吹きつける風が心地よい。僕を家から追い出す際、目にも止まらぬ早さで渡された母特製の麦茶を喉に流し込む。少し苦めのそれに、思わず顔をしかめた。
一息ついたところで、ふと考える。さて、どこに行こうか。誰かと約束をしているわけでもない。かと言って、一人で遊びに行く場所があるわけでもない。できることなら家に戻ってダラダラと過ごしたいが、母という強敵が居る以上それは不可能だろう。ならば、思いつくことは一つだけ。
「……あそこ、行くかぁ……」
ちょうど、コレも渡された事だし。手に持ったサッカーボールを見つめ、僕は歩き出した。向かうは街外れ。山を少し登ったところにある、小さな神社。赤い鳥居が迎え入れてくれる、その場所に。
そこを見つけたのは偶然だった。学校帰りに、なんとなく家に帰るのが億劫で適当にぶらぶらしていた時。どこに行くでもなく歩いていたからか、見たことのない場所に出てしまった僕の目の前に広がったのは、真っ赤に色づけられた柱。思わず後ずさった。明らかに僕の日常には関わってこない類のものを突然見つけてしまったのだから、むりもないだろうと思う。少し離れて気がついた、赤い柱の正体。それは鳥居。神様が通る、門。そこは本殿が街を見下ろす、神様の居る場所、神社だった。
ついこの間までは聞いたこともなかったその場所へ、僕の足は迷わず進む。もはや歩きなれてしまった道は商店街をこえ、裏道を通り、そしてまっすぐと続いていて、自分の家からどれだけ離れているのかを改めて気付かされた。それでもくたびれてはいない。週に3時間ある体育の授業で体を動かしまくっているのだ、体力には自信がある。
「ん、ついた……」
見慣れた赤い鳥居をくぐった。杉や柳の木が左右に並び、本殿へと続く道を作り出しているようだ。そこを通り、石造りの階段を登って、入り口のものよりは少し小さめだがやはり赤で色づいたそれをまたくぐって、僕はそっと息を吐き出す。この場所はいつもどこか現実離れしていて、だからこそ強く惹かれるし、同時にとても恐ろしくなってしまうのだ。そんな気持ちから生まれた少しの恐怖を落ち着かせるように、一度大きく深呼吸するのが、僕の習慣になっていた。
平常を取り戻した自分自身を確認し、麦茶の入った水筒と被っていた帽子を狐の形をした像の足元へと置く。中に入った氷がからりと軽い音をたてた。
「……よし!」
準備運動をして、なるべく周りに何もない広い空間の真ん中に立つ。手にはサッカーボール。神経を集中させる為、そっと目を閉じた。この間の感覚と反省を思い出せ。僕ならできる。絶対に、できる。
ボールを持っていた手を離し、目を開けた。まさにその瞬間だった。
「あの、そこの人。一体何をしてるんですか?」
「え、!?うわ、わわっ!!」
研ぎ澄ませていた集中なんて一気に霧散し、蹴りあげるつもりだったボールを運悪く思い切り踏んでしまう。丸いそれに足をとられ、その場で派手に転んだ。膝が痛い。これは剥けた。確実に剥けた。
「いってぇ……なんだ……っ?!」
ズキズキと広がる痛みに耐えながらも、声のした方へ目をやる。そして、言葉を失った。
「あの……大丈夫ですか?まさか転ぶなんて思ってなかったんですけど……あなた、どんくさいんですね」
なんと口の悪い。それにももちろん絶句してしまったが僕の意識はそれよりも上に向いていた。目の前に居たのは、白と赤の袴に身を包んだ少女。僕と同じくらいの年齢だろうか、身長もたいして違わないように感じる。そこまではいい。普通にこの神社の人だと思い、ここまで驚きはしない。問題はその上、真っ白に染まった長い髪と、人だったらありえないものがついた頭。音がするたびにピクピクと動くそれは、まさしく獣の耳だった。
「ねぇ、聞いてます?どうしてここに、何をしに来てるのか聞いてるんですけど」
「え、あ、えっと、僕はここにサッカーの練習に……」
「さっかー?」
「今度、学校で球技大会あるから………じゃなくて!あの、君は……?」
「え? 私?」
なぜ自分の事を聞いてくるのか、心底わからないといった様子でその子は首を傾げる。その拍子に白い髪もさらりと流れて、不思議な香りが漂った。
「私は、ここに住まう稲荷様に仕える善狐、名を雪と申します。さて、稲荷様の大事なお社でそんな玉蹴りなど、危ないのでやめていただきたいのですが」
さらさらと言葉を連ねるその子は今の僕と正反対で、余計に困惑する。ぜんこ、とは一体なんだ?いなりさま?この子は一体何を言っているんだ?納得していないのが伝わったのだろう、その子が呆れたようにため息をこぼす。いや、ため息をつきたいのはこちらなのだが。
「善狐とは、狐のことです。私のことは、普通の狐のちょっと偉い版と考えればいいでしょう。稲荷様は神様のお一人で、農業や商業の神様。ここは、そんな稲荷様が体を休める場所の一つなんです。貴方達の言葉で言うと………家、ですかね?」
「家………」
そう言われてなんとなくだが納得する。つまりは神様と、その家来なのだろう。安直だがこれくらい単純に考えないと、頭が痛くなってきてしまう気がした。ようやく落ち着いてきた思考に安堵しながら、僕は再度目の前のその子……雪を見据える。
「それで……僕にサッカーの練習やめてほしいの?」
「はい、すぐにでも」
「嫌だ」
狐の目というのは、想像よりもずっと鋭いものらしい。ギラリと光った雪の目に、思わず唾を呑んだ。だが、ここで引くわけにはいかない。雪に事情があるように、僕にだって大切な理由があるのだから。
「なんでですか」
「僕は、絶対にサッカー上手になりたいんだよ。迷惑かけないようにするから、ここで練習させて」
「なんでここなんですか。もっと違う場所に行けばいいでしょう」
「人に見つかりたくないんだ……できるだけ、誰もいないところで練習したい…ここくらいなんだよ」
「……」
雪の瞳がすっと細められる。品定めをされているような居心地の悪さを感じ、目を伏せた。暫くして、大きなため息が聞こえ、恐る恐る顔をあげる。そこにはしかめっ面の、だけどさっきよりはずっと表情の柔らかい雪が立っていた。
「……全く……言って素直に聞くとも思えませんし、仕方ないですね……」
「じゃあ……!」
「ただし、少しでも稲荷様にご迷惑をおかけしたら、力づくで追い出しますからね」
「うん!」
これが、僕と雪との出会い。僕の心にずっと残ることになる、彼女とのお話。
「雪、見て見て! ほら!よっ、ほっ、ほいっと!」
「……だいぶ出来るようになってきましたね。まぁ、最初に比べたらいいんじゃないですか?」
雪が僕のことを許してから、数週間の月日が経っていた。着実に近づいてくる球技大会の日に向けて、気合をいれて練習に励む。始めは興味のなさそうだった雪も、最近ではたまにアドバイスをくれるようになった。密かにその変化を喜んでいるのは、絶対に秘密だけど。
サッカーボールを足首や太ももにうまく当てながら、リフティングを繰り返す。20のカウントをした時、思い出したように雪が口を開いた。
「そういえば、なんであなたはサッカー上手になりたいんですか?」
「え……なんでって、それは……」
口ごもる僕に雪の表情が曇る。別に、言うのが嫌なわけではない。なのに、どうしてか、僕の口はうまく動いてはくれなくて、焦りだけがつのっていった。
「……別に、言いたくないんだったらそれでもいいです」
「ちがっ、そういうことじゃなくて……!」
拗ねたような口調に思わず手を伸ばす。掴んだ雪の腕はあまりにも細くて、やっぱり人間ではないのだと思い知らされた気がした。だけど、そこから伝わる体温は、僕と同じ、じんわりと温かい。
「ごめん、ここ借りてるのに説明してなくて……なんか、言いづらくて……」
今の自分の気持ちを精一杯伝わるように言葉にする。それしかできない僕を、彼女はあったかくてどこかくすぐったく感じる瞳で見つめてくる。心臓が、どきりと音をたてた。
「……人は、人に言えないことを持つものでしょう。それが多かろうが、少なかろうが。それが人の性だと、私は思います。だから……」
ちりん。雪の髪飾りについている鈴が軽やかな音をたてる。ちりん。もう聴きなれてしまったそれが鳴る度に、嫌な音をたてる心臓が落ち着いていくのを僕は感じた。これも、雪が普通の狐とは違うからだろうか。
自分の腕を掴んでいた僕の手をそっと外して、彼女はそのままその手に指を絡めてくる。所詮恋人繋ぎというやつだ。聞いたことしかないそれをやられて、体中を熱がかけ巡っていく。そんな僕にはお構いなしに、雪は言葉を続けた。
「……だから、人は、誰かを理解したくなるんでしょう……?」
密かに力をこめられ、必然的に握りしめられた手にいよいよ頭がこんがらがってくる。ぶわりと沸き上がったとんでもない熱さをもつ体温に、思わず目を瞑った。ちりん、鈴が鳴る。
「……あなたのことを知りたいって、思ったんです。……まぁ、ちょっとだけですけど……」
それは、俯かせていた顔を上げるのには十分な内容だった。だって、初めて会ったときの雪はどこか冷たくて、僕を遠ざけているようにも思えて、だけどもそれ以上にあったかくて。不思議な魅力をもった彼女に、そんなことを言われたら、気持ちが、舞い上がってしまう。
「雪!聞いて!僕がここでずっと練習してたのは、今度の休みに球技大会があるからなんだ!クラス対抗戦で、どうしても負けたくなくて、皆の足引っ張りたくなくて……だから練習してた、僕、運動オンチだから……せめて、ボールを思い通り蹴れたらって……思って……」
しどろもどろになりつつも、ようやく口にできた本当のことに安堵して、同時に言い様のない不安が僕を襲った。嘘偽りない今の言葉を、彼女はどう受け取るのだろうか。もし、引かれてしまったら?喜ばしいことを言われた直後だからこそ、もっと慎重になるべきだったのだと気づく。だって、それほどまでに、雪のことを失いたくなかったから。ずっと、傍で見守っててほしいと思ったから。その鈴の音を、ずっと聴いていたいから。握りしめられた手は相変わらずで、それだけが今の僕の唯一の救いだった。
「……なんだ、びっくりしました」
「……なにが……?」
「どんなとんでもないことを言いだすのかと思ったら、そんなことですか。全く……心配して損しました」
雪の声が脳裏に響く。鈴の音と共に。それは、彼女が僕の隣にいる証。頬が緩んだ。それは、雪も同じだったようで。その時、僕は初めて、雪の本当の笑顔を見た気がした。ふにゃりと蕩けた、その微笑みを目にして。
「じゃあ、そんなあなたに、私がいいものをあげましょう。感謝してくださいよ?」
「え……?」
雪が、そっと僕の元から離れる。遠ざかった体温を寂しく思いながらも、僕は彼女を見つめた。軽くお辞儀をした雪が、袖から扇子を取り出す。そしてそれを開いたかと思えば、静かに、だけど華やかに、舞い始めた。くるくる、ふわり。まるで羽のように軽いその動きに、目を奪われる。しゃん、しゃん。鳴り響いたのは鈴の音。僕の大好きな、彼女の音が辺りにこだまする。
「……わぁ……!」
そうして踊り終わった雪の背後で、花はおろか葉さえつけていなかった枯木に、満開の桜が咲いていた。薄い桃色で色づいた、春の象徴。
「すご……!」
「ふふふ、そうでしょう?稲荷様のお力あってこその能力ですよ。……さて、」
ひらり、ひらりと舞う花びらが、1枚雪の手の中へと落ちる。まるで吸い込まれたように舞い込んできたそれに驚いていると、雪がふと目を閉じた。
「……雪……?」
言葉を掛けてみても、彼女からの反応はなく、眉間に皺を寄せる。もう一度名を呼んでみようか。そう思い口を開いた、その時。雪の手にある花びらがふわりと揺れる。それは風のせいではなく、その花びらに雪が触れたからだ。その、紅で彩られた唇で。
「な、なにして……!?」
「……しー……」
人差し指を口に持って行って、内緒の仕草をする雪。その様があまりにも綺麗で、思わず言葉を失った。重力を感じさせない彼女が、そのまま僕に近づいてくる。心臓が、破裂してしまいそうだ。また上がってきた体温を知られたくなくて、顔を背けようとするが、どうにも体が動かない。彼女の姿に見とれているからだと気づいた時には、既にその姿は目の前に。
「ゆ、雪……!」
「……」
また、彼女の指が僕の指と絡まる。ぴったりと合わさった掌に力を込められ、体が震えた。不思議な、甘い香りが漂う。花のようなそれに頭がくらくらした。それでも、彼女はそれ以上に顔を近づけてきて、思わず身を引く。だけど、またすぐに詰められる距離。ちりん、鈴が鳴る。
「ゆ……!!」
そして、確かに何かが、僕の口に触れた。柔らかくて、少し冷たく感じるそれ。あの紅色に塗られた唇……ではなく、雪の手の中へと舞い込んだ、桜の花びらだった。
「ゆ、雪……?」
「……ふふ、いいもの、ですよ。おまじないです。あなたが、うまくいきますように。」
「……僕の……ために……?」
「な!!何を言ってるんですか!違いますよ!あなたの為なんかじゃないです!私の気まぐれです!そもそも!私はあなたのことを好んでいるわけではないんですから!」
「……」
言葉はツンツンしているけれど、それでも僕は嬉しくて仕方なかった。だって、あんなにも綺麗な雪を見られて、おまじないをしてもらって。嬉しくないわけがないだろう。胸があったかい気持ちでいっぱいになって、顔が緩むのを抑えられない。せめて、この想いだけでも伝えなくては。喜びをそのままに、彼女に飛びつく。雪が、ふぎゃあ、と声なのかなんなのかわからない雄叫びをあげる。そんな彼女と共に絨毯みたいに広がった桜の花びらの中へ倒れ込んだ。
「雪!僕、頑張る!」
「わかりましたから!さっさとどきなさい!重い!」
ギャーギャーと騒ぐ雪の言葉を無視して、そのまま彼女のことを抱きしめ続ける。だって、離れ難かったんだ。大好きな彼女から。目指す球技大会は今週。でも不安はない。最強のおまじないが、僕を導いてくれるだろうから。
それから、2年が経った。球技大会ではサッカー経験のない僕に油断した相手の隙を突き、見事に点を決めることができた。これも、きっと彼女のおかげだ。
商店街を通り、裏道を抜け、そのまま真っ直ぐ歩いていく。赤い鳥居をくぐって、僕は息をついた。見慣れた景色に、安堵しながら、ほんの少し落胆する。あの頃と変わらないこの場所。だけれども、1つ、確かに変わったことがある。あの、おまじないをしてくれた日から、雪は僕の前に現れなくなった。どれだけ僕が試合で活躍したのか、伝えに行ったその時にはもう、彼女はどこか遠い所に行ってしまったのだろうか。探しても、願っても、雪はもう、僕の前にはやって来ないのだろうか。寂しくて、泣いてしまいそうになる。でも、心のどこかではわかっていたんだ。きっと、僕がサッカーという壁を乗り越えたとき、彼女は消えてしまうのだろうと。確信はなかった。だけど確かに、そうなのだろうと思う自分がどこかに居て。そしてきっとそれは、彼女にとっても、僕にとっても、最善の道なのだろうと。だから……。
「……よし!」
気合を入れ直して、一度辺りをぐるりと見渡す。彼女との思い出を、確かめるように。
「……さよなら、雪……」
呟いた言葉が彼女に届くようにと祈りながら、僕は来た道を戻り始めた。
桜を見ると、君を思い出す。僕に勇気をくれた、君のことを。どこかで、あの大好きな鈴の音が鳴った気がした。
雪は、私にとってとても大切な子です。こんな素敵な場所で、形にする事ができてよかった。お読みいただき、ありがとうございました。




