勿忘草をきみへ
大切な人が年をとらないと知ったのは僕が十歳のときだった。
昔は見上げていたその笑顔がすっかり僕の頭の下におさまってしまったのに気がついたのは十五歳のときだった。
僕の大切な人は年をとらない。
よく言う永遠のなんちゃら~です。ってやつだ。彼女はもう何年も何年も同じ姿でいる。まるで濁流となって僕らを未来へ押し流そうとする時の流れに抗うように。もしくはだれかを待ち続けているように、その姿のまま。
ある日彼女の内側に存在する世界を支配していた時計が静かに止まった。
彼女は永遠に十五歳のまま、時計のない僕らとは違う世界に取り残されてしまったのだ。
~♪~♪~♪
ツンと鼻を刺激する甘い油の匂いと、太陽の光がたっぷり集まった小さな部屋にその人はいる。とぎれとぎれの柔らかい鼻歌が彼女の好きなカノンを歌っていた。
パッヘルベルのカノン。
卒業式なんかではわりとポピュラーなそのメロディーが錆びついた螺旋階段を上がる足をせかす。
「天~」
開けっぱなしの窓から声をかけると、部屋の奥からパタパタという音がして、べたっと窓枠に少女の顔がズームアップされる。
「あっ! 地獄堂のカレーパンでしょ!」
僕が来たということよりその荷物に興味がいくのかと、ちょっと残念な気もするが彼女の嗅覚は伊達ではない。片手にさげたあつあつの紙袋に入っているのはまさしく彼女の言う代物だったからだ。
「瞬ちゃんはえらいね~ちゃんとわかってるもんね~」
傍目には大人ぶった子どもが背の高い男子高生の頭をよしよししているようにしか見えないだろう。けど実際、年上なのはこの少女、天のほうだ。
どこからどうみても中学生にしか見えない天は、僕の七つ年上。つまり今年で二十五歳。
しかし頭をよしよしされるというのはそれをする相手がいくつであろうと若干の恥ずかしさを伴うものなのだ。
「ちょっと、ちょっと。手ぇ洗ってからにして下さいよ」
僕の手から紙袋を受け取るや否や電光石火で中身にありつこうとする天の小さな手は藍色に染まっていた。
青、黄、赤、白……その作り物みたいに細い指先は、いたずら好きの子どもが落書きしたパレットよりも色とりどりに染まっている。
「だめなの。これもう染みついちゃって取れないんだから」
「うそ。小指のへんはまだ生乾きって感じです」
僕は天の細い手首をキュッとつかまえた。
「食べる時に使わなかったら大丈夫なの!」
色素の薄い大きな瞳が見開かれる。
その中に困った顔をした僕が映った。
「お腹壊しても知りませんよ?」
「うう……」
視線のバトルを交わす前に洗面台行ってくれば早いのに。もどかしくなって僕はひょいっと天を抱き上げた。
びっくりするくらい軽いと思うのはたっぱが大きくなったからという理由だけじゃない。
「瞬ちゃん?」
心配そうな光を孕んだ瞳が至近距離で揺らぐ。
「何でもないです」
「うそだ。なんでもなくない顔してる、何があったの?」
どれだけ見た目が子どもでも纏う雰囲気が違う。
こっちみて。
そういって静かに次の言葉を待つ余裕も、やさしさも天はちゃんと持っている。
「だから何でもないって」
だから僕の方がすこし大人気ない口調になってしまうのだ。
「じゃあ連れてって」
「はぁ?」
「わたしのこと意味もなく抱っこしたの?」
ああ、ほら。
そういう顔するから。
何もかも、どうでもよくなってしまうんじゃないか。
「意味なかったらダメですか?」
窓の下を流れる川に反射した光の粒が天井に水面をつくって揺れる。
僕はたぶん微笑んでいた。
「だめ。手ぇいためたらどうするの?」
瞬ちゃんの手はみんなを幸せにする手なんだから。
それが天の口癖だった。
でも幸せってすごく曖昧じゃないか。
だったら僕はこの手を天の笑顔のためにつかう。
確かに手に残るこの体温と、幸せの証明のために。
「そんなやわじゃないよ」
「そうだね。瞬ちゃんはすごく大きくなった。わたしよりずっと、ずっと」
天の細い指が僕の武骨な腕を辿ってその指を撫ぜる。
その言葉に宿る痛みを切なさを僕はどれだけ分かって理解することができるのだろう。
止まった時の中に取り残された天の気持ちに僕はどうすれば寄りそっていられるだろう。
僕の手は君を支えるには少し細い。
「もう、なんで瞬ちゃんがそんな顔するの」
「え?」
「おろして。はやく」
「ああ、はい」
天にせかされて僕は彼女を抱いていた腕を解いた。
軽い音とともに天が床にするりと降り立つ。
色とりどりの絵具が飛び散った白いノースリーブのワンピースがふわりと広がってまるでおとぎばなしにでてくる天使さまみたいだった。
「ねぇ、瞬ちゃん。ピアノ、弾いて」
二人でカレーパンを食べた後、天は狭い部屋の隅にある古いピアノを指差した。
「いいけど、何がいいですか?」
「うーん、瞬ちゃんの好きな曲」
困ったなぁ。
例えば今日の晩ご飯何にする?と聞いた時になんでもいいって答えられた時の迷い。
「好きっていわれても難しいです」
「瞬ちゃんはピアノ嫌いなの?」
天はくちびると鼻の間に絵筆を挟んで首を傾げた。
「んんー好きとか嫌いとかじゃなくて……生きてくための手段?的な」
ピアニスト。
若干、十八歳にして僕が自分の力で毎日寝る場所と食料を確保できるのはこの職業のおかげである。
少し前に有名な音楽プロダクションという人達とよくわからないまま契約してしまったらあとはもう無我夢中で弾いて入ればよかった。それだけで通帳にはお金が入ってきたし、それは生活するにちっとも困らない額だったから別に不自由はしていない。少しだけ制約が増えて、前よりもピアノにさわっている時間が増えただけ。
ただ、それだけ。
「じゃあ、弾いてるときは楽しくないの?」
「たぶん、楽しいんだと思います。じゃなかったらきっとここまでしてないと思うし」
楽しいときもあるし苦しいときもある。
「天、カノンの主旋律弾けましたっけ?」
「うん! 瞬ちゃんに教えてもらったのちゃんと練習してるよ」
確かに練習したようだ。
鍵盤にうっすら藍がにじんでいる。
「じゃあ、一緒に弾こう」
「え? そんなことできるの?」
「できます。適当に弾いてみてください」
ふうっと短く息を吐いて天の指先が鍵盤に吸い寄せられる。
丁寧に鍵盤を叩く指先が紡ぐ一筋の音に、自分の音を重ねてゆく。
日差しがほんの少し傾いて冷たかった指が温かくなって、幸せな音がはじける。
すごい、すごいと言って彼女は破顔する。
五線譜を無限に引き延ばすことができたらこの曲に終わりがなかったら。この時を永遠に閉じ込めることはできるだろうか。
でもきっと彼女はそれを望まないだろう。
天の微笑んだ横顔が、楽しげに揺れる小さな身体が、こんなにも愛おしい。
床の上一面に散らかった勿忘草の造花が風に舞い上がる。
描きかけのキャンバスには華奢な手いっぱいに勿忘草を抱き、口づける美しい少年が佇んでいた。無数の青、藍、蒼に溢れ、咲き乱れた花の中で今にもかき消えてしまいそうな儚い横顔に胸が締め付けられる。
彼はあまりにも天にそっくりだったから。
「……瞬ちゃん?」
気がついたら音を紡ぐ手は、天を強く抱きしめていた。
「瞬ちゃんでもあるんだね。さみしいとき、こわいとき」
「え?」
「ずっと守ってもらってばかりいたから、気づいてあげられなくてごめんね。今ねすごくさみしいって顔してた。こわいって言っていた。手が震えてるもの」
「あ……」
花の香りと、柔軟剤と太陽の匂い。
天は黙って僕の頭を抱えるようにしてゆっくりその背中を撫でてくれていた。
「わたしはね。自分の身体がずーっとこうなんだって知った時すごくこわかった。知ってるひとが誰もいないこの町に引っ越してきて、一人で息を潜めて生きていかなきゃって思ったときね。永遠にどこにも居場所がなくてこの世界から置き去りにされたような気がしたの」
でもね。
天はそう言って言葉を失くした僕の代わりに言葉をつないだ。
「でも、わたしにはわたしをこの世界に留めてくれる人がいたの。その人は自分のためにここにいてくれって言ったの。わたしよりずっと小さかったくせにね。わたしに何も背負わせないように自分のためって言うの……もう、どっちが大人かわからないよね」
「僕はもうこどもじゃないよ」
「うん。知ってる、瞬ちゃんはもうこどもじゃないよ。でも辛いの我慢して平気な顔できるだけが大人じゃないの」
じゃあ、僕はどうすればいい?
「わたしにも、守らせて」
やさしい言葉が耳元で風にさらさらと流れてゆく。
つかまえられない音のように。
それなのに、その中にある強い芯がまっすぐにこころをさす。
「どこにも……いかないでいて」
「うん。どこにもいかない。わたしはずっと変わらない。だってここは永遠だもの」
長い長い夢の中よ。
でもあなたは行かなくちゃ。
自分の足に枷をつけてはだめ。
永遠に囚われないで。
「でも瞬ちゃんはもうここに来ちゃだめよ。これが最後」
「いやだ。そしたらまた、天が一人になるでしょう」
彼女はその言葉に、首を振った残酷なほど美しい笑みを浮かべて。
「わたしは最初から一人じゃなかった。ずっと瞬ちゃんがいてくれたもの」
忘れられないために、わたしは絵を描くの。
一瞬でもその人の世界にわたしが宿ったら、わたしはそこにいることができる。
「それとね、……きっとわたしが一番『ここ』にいたかったの」
あなたのいる世界に。
あなたのそばに、ずっと。ずっと。
「じゃあだめ。離さなしません。絶対に」
僕の冷たい指を解こうとする天を抱き寄せる。
「わがままでいいから。僕が囚われる者が天ならそれでいい。それがいいんです」
だから、また誰かのために自分を傷つけないで。ひとりになろうとしないで。
「そうやって、そうやって優しくするからっ!また離れられなくなるの。瞬ちゃんをここに縛って、そんな自分が許せなくなるの」
「僕が許します。全部、全部。僕のことは許さなくていいから……だからもう少しこのままでいさせて」
離れられないのは僕のほうだ。
天の気持ち知らずに、それで僕は彼女とともにいたいと願ってしまった。
自分より年をとった僕をみて天は何を思っただろう。やがてそれは埋めようのない溝となって僕らの間に横たわる。
僕は優しくなんてない。
一番残酷なのは自分だということにその時初めて気がついた。
「……仕方ないなぁ。もう」
淡い燐光に天の身体が滲んでゆく。
「もう少し、だけね?」
確かめるように天が囁いた。
頷いたら、この一瞬が終われば天は遠くへ行ってしまうのだと僕には妙な確信があった。
「少しじゃ足りない。いかないで……天」
「大丈夫。瞬ちゃんはだけは絶対に守るから。だから許して、ね? うんん。許さなくてもいいから」
わたしのことを忘れないで。
どうやったら忘れられるというのだろう。
こんなにも鮮明に天の体温が心がその泣き笑いがまだここに残っているのに。
穴の空いた空っぽの心臓がこんなにもさむくて、痛いのに。
天のことが大好きなのに。
***
「……ぁ、め。ーーーー天ッ!!」
急に視界がはっきりして、いの一番に飛びこんで来たのは虚空に伸びた僕の手を握る人の心配そうな顔だった。
「瞬ちゃん? うなされてたみたい。きっと疲れてたんだね」
彼女はそう言って小さな手で僕の頭を撫ぜる。床に寝っ転がってぼーっとしていたらいつの間にか本当に眠っていたらしい。
夏の終わりの夕陽が部屋に忍び寄っている。
蒸し暑い部屋の中に刹那涼風が吹き込んで、地べたに散乱した勿忘草の花弁がひらひらと舞い踊る。
「怖い夢でもみたの?」
黙って頷くと天彼女は何も言わずに微笑んだ。
「そっか」
「天」
僕はそう言って天の頬に触れた。
しっとりと温かい肌の感触に、瞬いた睫毛が指先に触れてくすぐったい。
「なに?」
「天が消えてしまう夢……手が届かなくて……」
「それで泣いたの?」
「え?」
自分の頬に触れると確かに温かい涙の痕跡があった。
泣いたのなんていつ以来だろう。
「ね?」
「ほんとだ。泣いてたんだ……」
「でももう大丈夫だね。わたしはここにいるもの。それでね、今日の晩ご飯は何にしようかな~とか。こんど瞬ちゃんとどこに行こうかな~とかいろいろ考えてるの。普通だよ、何もかもいつもどおり」
天はそう言って取り込んだばかりのバスタオルごと僕に覆いかぶさってくる。
淡い色の長い髪に顔をうずめると、ふふっと柔らかい笑みが耳をくすぐった。
「わたしはどこにも行かないよ。ここがわたしの居場所だもん。だから、たまにはこうやって帰ってきてね」
「うん、もうずっとここにいようかな」
「それはダメ。瞬ちゃんはピアノ弾くのが仕事でしょ。みんなをその手で幸せにできるんだから」
「そんな大層なことしてないです。僕は神様じゃないから」
僕は神様にはなれないけれど、天を大切な人をこの手で守ることはできるだろうか。僕のそばで笑ってくれる天の小さな手を離さずにしっかりと繋いでいたい。
「ねぇ瞬ちゃん。夢の中でわたし何て言ったの?」
「……秘密」
本当は鮮明に憶えているけれど言葉にするのが少し怖い。
――――忘れないで。
確かに耳に残った言葉がある。
「忘れないで」
天のくちびるが声を出さずにそう動いたような気がした。
どうして、わかったのだろう。
いたずらに微笑んだ天の瞳には迫りくる夕闇が透けて見える。
幻のように儚げに聞こえた、あれは夢の残像だったのだろうか。
「忘れません。天をひとりになんてしない。絶対に」
僕はそう呟いて天を抱きしめた。
夢の続きを見ているようで少し恐ろしかった。彼女が本当にどこか遠くへ行ってしまうような気がして。
そっと頷いた天の瞳から透明な雫がパタパタと滴り落ちる。
「瞬ちゃんが好きだよ……大好きだよ。どこにも行きたくない。わたしはずっとここにいたい」
涙と嗚咽に途切れ途切れのか細い声。
必死に何かにすがろうとするそれは愛おしい束縛。
もしかすると彼女も僕と同じ夢を見ていたのではないか、その考えは妙な確信へと除々に変化していった。
「天が嫌がっても離さないから、覚悟しててください」
我ながら、なんだかすごいことを言ってしまったような気がする。
少し赤らんだ顔に夕方の風が心地よい。
「うん」
頬を伝う涙は依然そこにあったけれど天の瞳には柔らかい光が戻っていた。
流れを止めた時の中で彷徨い、立ち止まり、やがてひとりになってしまう。
それはどんなに孤独で恐ろしいものなのか。
全てを理解することなどきっとできなくても、その孤独に押しつぶされそうな天を抱きしめることができるのは今きっと僕だけだから。
そして、こんな僕の隣にいてくれるのはこれからずっと先も、きっと天だけだから。
せめて、涙が心を洗い流して止まるまで。
このままでいよう。
それから、この部屋いっぱいに咲いた勿忘草の花のように溢れるこの気持ちを言葉に変えて君に伝えよう。限りある時の中に僕たちは立っている。二度とないこの今を、大切なものを時の濁流の中に見失わないように、留めるのだ。形にならなくても尊い何かを伝えるすべを僕たちは知っているのだから。
手を伸ばした先に大切なひとの笑顔があるから。
この手に抱いた、勿忘草をきみへ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。