8 俺の話を聞け。十秒だけでいい
目深に被ったフード。さっき逃がしたドッペルゲンガーだ。俺の背中でアキがひっと声をあげた。知らない人間が二人も不法侵入してくれば、そりゃあ恐怖も感じるだろう。
やおらサングラスが振り返った。
「まさか自分から来てくれるとは」
「ここから出て行け。じゃねぇと殺すぞ」
直立不動のまま、ドッペルゲンガーが威勢良く声を上げた。
「殺す? どうやって」
「知ってるんだろ」
ドッペルゲンガーがフードの下で薄く笑った。すると、その体がわずかに発光し始めた。風がないのに彼の服がわずかに揺れる。
サングラスが息を飲むのがわかった。アキも狼狽して、俺の背中にぴったりとくっつきながら震えている。表情には出さなかったが、俺も心で震えた。
どういうことだ? 体が光っているだって? は?
徐々に光が増す。ほのかな銀色の光に包まれて、ドッペルゲンガーがフードに手をかけた。
「まさか……今その力が使えるのか、話が違う」
サングラスの呟きはかすかに震えていた。
「試してみようか」
薄い笑みをそのままに、ドッペルゲンガーがフードを取り去った。そこから光り輝く銀色の髪が現れて俺は思わず息を飲んだ。
「くそっ!」
同時にサングラスがドッペルゲンガーの横をすり抜けて、走り去っていった。玄関の開く音がして、ついで階段を転がるように降りる音が聞こえる。俺はわけもわからずに、その場に突っ立ったまま、ただ遠ざかっていく足音を聞いているしかなかった。
ドッペルゲンガーから発せられる光が徐々に弱くなっていく。ふう、と息をついて彼は俺を見た。
フードを取り去り、光の下に表れたそいつは、確かに俺に似ている……気もする。ぱっちり二重と言われる目元。顔の形、なんとなくの雰囲気。だが、ドッペルゲンガーというほどは似ていない。
いや、似ているとか似ていないそれ以前に、こいつの髪の色は純日本人の俺と違って、くすんだ灰色をしていた。先程は確かに光り輝く銀髪に見えたのに、発光がおさまると同時に銀髪は輝きを失い灰色になっていた。でも、蛍光灯の反射によって銀色にも見える。目も灰色だ。これは日本人じゃない。日本人じゃないというよりは宇宙人だ。宇宙人というよりは悪魔だ。悪魔というよりは幽霊だ。
「ドッペルゲンガー(仮)ってとこか……」
「なによ、カッコカリって」
俺の独り言にアキが冷静に疑問を投げかける。
「む!?」
幽霊! そうか! 瞬時に俺の脳みそが百ワット電球に照らされたがごとく冴え渡り、名案が浮かんだ。
「そうだお塩だ! お塩持って来てくれアキ!」
俺は背に張り付いているアキに向かい、後方にある台所を指差した。
「し、塩?」
「おばけにはお塩だ!」
「お、おばけ?」
「目の前のこれ! おばけ!」
「わ、分かったわ」
戸惑いながらも台所に向かうアキをかばうように、俺は台所の入り口に立ちはだかった。ドッペルゲンガーが呆れたような目で俺を見ている。
さすが幽霊め、余裕だな。また発光したりしたらどうしよう。自爆っぽかったよな、あれ。アバン先生もメガンテの前に光ってたし、ウイングガンダムも自爆の前に光ってた。突然の発光それすなわち自爆。
アキ、早くしてくれ。こいつが自爆する前に。
「こ、これ」
そんなことを考えていると、ようやくアキが震える手でお塩を持ってきた。
「よし、貸してくれ……」
だが、アキが手にしているものを見た瞬間、俺は固まった。
「そ、それは駄目だ! それは百グラム当たり千円もするシチリア産の高級お塩なんだ!」
「ええ?」
そのお塩はグラム特価六百八十円という、先着百名様限りのタイムバーゲンで買ったものだったが、元値はグラム千円だ。
大変高価だ。
大変危険だ。
「もっと安いやつをもってくるんだ! 一番左にある戸棚の左の引き出しの上から二番目に赤穂の甘塩が入っているから! できるなら、戸棚の下の観音開き開けたとこにある真ん中の段ボールの下の方に、未開封の三温糖に重なって九十九パーセント塩化ナトリウムの安いやつがあるけど、ちょっと入っている場所がややこしいから、百歩譲って赤穂の甘塩でいいから! 早く!」
俺はここを食い止めているから、とアキに言うも、彼女は眉根にしわを寄せて混乱したように首を振り、すがるように俺を見るばかりだ。
ああ、もう! 早くするんだアキ!
「えっと、その」
ドッペルゲンガーが呆れたような馬鹿にしたような顔で頭を掻きながら、もう一方の手をこちらに伸ばしてきた。
「来ないで!」
「アキ!」
両手を広げて制止するのも無視して、アキがグラム千円もする、クリスタルソルトをあたり一面に撒き散らした。
「し、シチリアー!」
せんえーん。にせんえーん。
力士よろしくアキが塩を振りまくたびに、俺の心の中のシチリア生まれ塩造り職人が叫ぶ。
さんぜんえーん。よんせんえーん。
「もうやめるんだアキ!」
しかしアキは俺の声なんて耳に入らないかのように、塩を片手いっぱいに掴んでは辺りに振りまいた。
ごせんえーん。
いくらなんでも五千円近くの攻撃を食らえば、幽霊だってひるむだろう。俺は慌てて錯乱状態にあるアキの腕をつかんだ。
「もう十分だ、やめてくれ、高いんだ」
涙目で懇願するも、錯乱状態にあるアキが、俺の顔めがけて粒子の粗いクリスタルソルトを放った。塩つぶてが眼球にあたる。
ぎゃあああ、目が、目がぁああ。
そして、ろくせんえーん。
「あなた、塩と命どっちが大切なのよ!」
俺は痛みにのたうち回りながらアキを見た。
何を言っているんだ? 生き残れば、塩だって必要になるだろう。おつまみがないときは、これをちびちび舐めながら酒が飲めるし。
つまりはどっちも大切だ。
「なにしてんの、アンタら」
ドッペルゲンガーが憐れなモノでも見る目をして俺を見る。
「え、いや、除霊を……」
「ふーん。塩ねぇ。母さ……、あ、いや、アンタの母さんだったら、悪くても赤穂の甘塩を振りまいてたよな」
「えっ。母さん?」
ドッペルゲンガーが思いもよらない言葉を口にした。
なんだって? 母さん? なんで俺の母親の話が出るんだ。ドッペルゲンガーって、姿だけではなく、記憶までも同じなもんなのか?
「あの、お前、俺の母さん知ってるのか?」
状況が理解できず、俺が口を開けたままでいると、不意に頭が重くなり、しゃらしゃらと美しい音を立てて、何やら白い粉が頭上から零れ落ちてきた。
うむ、これはお塩だ。
塩辛過ぎない上品なしょっぱさが、舌に染み渡る。グラム千円は頷ける。
うーむ、と唸りながらアキに目をやると、彼女は俺の頭上で、クリスタルソルトの容器を逆さまにしていた。
「なんでこんな時に母親の話してんのよ! マザコン!」
アキは塩が入っていたガラス容器を渾身の力を込めて投げつけ、首尾よく容器の角を俺の頭に命中させると、勢いよく玄関から出て行ったきり、二度と戻ることはなかった。
少し母の話題出しただけで、マザコンとか酷くないですか。
そして、なんだかちょっと額に生暖かく赤い液体が流れている感触があるんですけど。お塩の容器は立派な凶器だったということか。
俺は頭に塩を振りかけられたまま、呆然としてドッペルゲンガーを見た。
「女は弁償できないけど、塩なら弁償するぜ」
彼は申し訳なさそうに肩をすくめて、はははと笑った。彼の肩越しにある窓に映った俺は、まるで雪景色の中にいるかのようだった。
このしょっぱさは、塩か、涙か。