7 神は死んだのではなく、多分俺が殺した
力なくドアノブをまわすと、何の違和感もなくあっさりとドアが開いた。
「……ただいま」
探るように中をのぞくと、居間のドアが開きアキがひょっこりと顔を出した。俺は思わず安堵のため息をつく。良かったサングラスではなかった。
「お帰り。遅かったわね」
「アキ。来てたのか」
「ええ」
にこり、というよりも口の端を持ち上げるだけの控えめな頬笑みが俺を迎えた。
アキはこの街に配属されてからできた恋人で、入署当日に俺の首を絞めたブラジャーの持ち主だ。
彼女は日本の平均女性よりも背が高く、並ぶと日本の平均男性の俺よりも少し低いくらいだが、気の強い眼差しが、今まで出会ったどの女性よりも凛々しく、問答無用で俺の好みだった。
肩まで伸ばした茶色い髪が、気の強い印象を和らげてはいるが、厳しそうな性格までは隠せない。
そこがまたいい。
あの時「ブラジャーで首を絞められて死んだとしても、栄誉ある殉職になるのかなぁ」「新聞は三面記事かなぁ」と酸素の不足した脳みそで必死に考えながら、三途の川の手前まで来たことを懐かしく思う。
流石にあの当時は下着泥棒を恨んだが、今思えば、縁をくれたことにちょっと感謝してもいいかなとも思う。
……あぁ、突然昔のことを思い出すなんて縁起でもない。俺、もしかしてもうすぐ死ぬのかな。
「そうだ、アキ。ドッペルゲンガーって知ってる?」
「ドッペルゲンガー……、なにそれ」
アキが小さく首を傾げた。
「自分と似た姿をした、化け物のことだよ」
「そっくりさんってこと?」
「そうであって、そうではないんだ」
どすんとソファに沈み込んで頭を抱える。 こうやってアキと話していると、先ほどの出来事が普通ではなかったのだと、強く実感させられた。
自分に似た人間、サングラスに黒づくめの逃走中。まるでテレビの向こうの出来事。
冷静になれ、と自分を叱咤しながらも、脳裏からは先ほど俺の目の前に現れた男たちの姿が離れない。
そういえば、ドッペルゲンガーは生霊だと聞いたことがある。やっぱりオレ、もうすぐ死ぬのかな。いや、でも自分の生霊を見るってどういうことだ。ありえないよな。
こんがらがる思考回路の糸をほどき、冷静になって考えてみるものも、通すべき針の穴は見えてこない。
ああ、また俺の転落人生が再開されるのか。俺は頭を抱え込んで、マントルを突き抜けるくらいに深く、ため息をついた。
ここのところは安定していたと思っていたが、数年前まで俺は非常に運の悪い人生を送っていた。一度悪いことが起こると、傾斜四十度の坂を転げ落ちるかのように、次々に悪いことが起こり出すものだ。
くるくると優雅に舞い踊る選手たち。幼い頃に憧れたフィギュアスケーター。銀盤の王子。そんな王子を目指した俺にだって、栄華を極めた時代があった。
少し遅いが大学生になり頭角を現した俺は国内に敵なしと言われ、オリンピック出場まで期待されていた選手だった。自分だってこのまま競技人生が続けられると、一ミリの疑いもなくそう思っていた。
だが、練習中に老朽化した建物が崩れ、その下敷きとなって足を複雑骨折。スケーターの夢はあっさり挫折した。
しかも、スケートをやるためだけに大学に通っていたため、所属している学部は、人生に全く役に立たない文学部哲学科だった。
社会に出てから会話をする時、大学時代の専攻は何と聞かれて、哲学科だと答えると、たいていそこで会話が途絶える。
ニーチェは言ったとさ。神は死んだと。
就職に困った俺は、すがるような思いで、ゼミの教授に相談をした。俺がフィギュアスケーターとなることを、ずっと応援していてくれた先生だ。
結果、就職先は回転違いのお巡りさんになった。
しかも入署当日、下着泥棒にブラジャーで絞め殺されそうになったという、哀しい経験あり。
ツァラトストラはかく語りき。結局俺は回転するしかないのか。
そして、今、生霊ドッペルゲンガーとサングラスに黒づくめの出現だ。俺はまだアリアハン周辺でスライム相手にひのきのぼうで応戦しているレベル二程度の町人だ。ちょっと足を延ばしてうっかりいっかくうさぎに見つかると、最初のターンで棺桶に入ってしまうレベル。ドッペルゲンガーとサングラスはレベルが高すぎる。ありえない。絶望だ。
学生時代に講義で聞いたフレーズが思い出され、ため息とともに、思わずそれが口から漏れた。
「死に至る病……」
「なに、それ?」
俺の消えかかりそうな呟きを聞いたアキが、首を傾げる。
「癌のこと?」
「絶望ってこと」
「聴いたことあるわね。確か著者はベルフェゴールだったかしら」
激しく違う。キルケゴールだ。
ドッペルゲンガーも知らないのに、なんでベルフェゴールなんてレアな悪魔を知っているんだ。俺はベージュ色の低い天井を仰ぎ、恋人同士の会話にすら、哲学なんて意味がないことを知った。
そのときだった。
「えっ、だ、誰っ!?」
突如アキが叫びだし、俺の後ろに目線をやったまま、口に手を当てた。大きく見開いた彼女の目を見つめて、すっと背筋が凍りつく。このリアクションはまさか。
俺は振り向きざま、ソファから立ち上がった。
そこには先ほど完璧にまいたはずのサングラスの一人がいた。しまった。つけられていたのか。
「さっきのあいつをどこへ隠した! 言え!」
「きゃあああ!」
サングラスが土足で部屋の中に踏み込んできた。アキが叫ぶ。無理もない。物音立てずに部屋に入り込んできた不法侵入者だ。
俺はアキを守るようにして、サングラスの前に立ちふさがった。
「隠してない。どっかへ逃げた。俺も知らない」
「嘘をつくな!」
「嘘ついてないって!」
「ねえ、この人なんなのよ」
アキが不安げな声を上げる。男は不機嫌そうに舌打ちをして、サングラスの奥から俺達を睨みつけた。
薄暗い時はそれほど悪い顔じゃないなぁ、とか思ったりしてたが、こうして明かりの下でよく見てみると、サングラスはそれなりに悪い顔していた。
うーん、でも、人は見た目で判断しちゃいけない、って言うしなぁ。
考えてみれば、ドッペルゲンガーの方が悪いことをして、追いかけられていたのかもしれないよな。困っている人がいるからといって、事情も知らずに助けてあげるのも、あまりよくないことなのかな。
もしかしたら、ドッペルゲンガーが腹を減らしたあまり、サングラスたちの晩飯のお魚をくわえて逃げて、それで彼らは裸足で駆けていたのかもしれないもんな。あ、でもこいつ靴履いてるわ。人ん家に上がる時は靴を脱げ。欧米か。おっと、このギャグ古すぎるな。でも古すぎて逆に新鮮か。古いと言えば先日おもちゃ売り場で妖怪ウォッチのグッズ安売りしてたな。盛者必衰。ただ春の夜の夢のごとし。いや今はそういう場合じゃない。
「なにをにやにやしているんだ」
「え、してたかな。ごめん」
「人をバカにしやがって! あいつの居場所を言わないのなら、実力行使で……」
「ここだよ」
声と同時にサングラスの背後に人影が現れた。
「俺はここだよ」