5 俺とお前とお前の彼女
「ただいま。おいしそうな匂い、家の外まで流れてたよ」
夏至を過ぎて夜の方が長くなったとはいえ、夏の夜は遅くまで明るい。空の青がくすんできて、ようやく一番星が輝きだし、仕上げにガラムマサラを加えたスープカレーを温めなおしている最中に、にこにこしながらオマタが帰ってきた。出迎えたおまるを一通りなで回してから、汗で汚れた服を脱ぎ捨て浴室に消えていく。
その間に俺はカレーをかき混ぜつつ、野菜を切ってサラダを作る。キャベツとレタスと水菜、それにニンジンと大根。上にちりめんじゃこをトッピング。ドレッシングはゴマわさび味。しかも自家製。
今日の弁当は白いご飯、醤油をまぶしたかつおぶし、のり、白いご飯、醤油をまぶしたかつおぶし、のり、以下同様のものを二巡、重ねていくだけのおかずなし弁当だったのに、リクエスト通りのカレーのせいか、オマタの野郎機嫌がよかったな。
しかし俺はぺコナカップのことを許したわけじゃないということを、生ぺコナに会えたことで怒りが沈静化していたとはいえ、あえて黙っておく。
テレビではスーツを着たサラリーマン風の男が数人、うまそうにビールを飲んでいた。海水浴解禁ということはビアガーデンの季節でもあるということだ。
楽しそうだな。俺も今度の海水浴では昼間っからビールを飲んだくれてやる。
ふぅ~と気持ち良さげな息を吐き出して、シャワーを浴びて汗を流したオマタが浴室から出てきた。そのまま冷蔵庫に直行し、福神漬を左手にビールを右手に握りしめて席に着く。その足下ではおまるが一足先に、トウモロコシとコマツナのサラダを食べている。ぷしゅと炭酸の抜ける小気味よい音がして、一瞬間があってから、ぷはぁ~と幸せな吐息が聞こえてきた。
食卓テーブルに夕飯を並べて、俺も椅子に座るなりご飯よりも先にビール缶のプルタブを開けた。
「いただきます」
手を合わせてからオマタが湯気の立つスープカレーをスプーンで掬う。そして、一口食べてから、やっぱりスパイスから作るカレーは違うな、美味しい。と顔をほころばせた。こういうことを言われて嫌な気分になる奴はいない。ぺコナカップのことでご機嫌をとろうとしている可能性もなくはないが、こいつのことだから多分本心なのだろう。こういうことがさらっと言えるから、こいつは女にもてるのだ。
「バジル入ってるんだな。スープカレーにバジルを入れると、また風味が変わるよな」
「スイートじゃなくてホーリーの方のバジルを白石のおばあちゃんに貰った。俺もプランターで栽培したいんだけど、うちにプランターとかねぇよな」
「ないな。買えば? ミニトマトとかも栽培してくれよ」
「うん、そりゃいいな。レタスとかな」
「ははは」
「なにがおかしいんだよ」
「いや、そういうの好きなのか。畑とか野菜の栽培とか」
「まぁ、嫌いじゃねぇな」
「若いのにめずらしい」
嫌みではなく、心からそう思っての言葉だったのが表情から見て取れたので、俺はなぜだか恥ずかしくなってしまった。過去の俺を知らないオマタならそれも仕方がないのだが、まるで赤の他人に己の内面をひけらかしているようで、気恥ずかしかったのだ。
「そうだ、今度の日曜日は勤務だっけ?」
わざとらしすぎたかもしれない。唐突な話題の変更にオマタが少しだけ間の抜けた顔で俺を見返したが、すぐにその表情のまま、うん、と答えた。
「そっか。じゃあお前は行けねえな。俺、今度の日曜日に海に行くことになったから」
「海? これまためずらしいな。アクティブなのはいいことだ。クロイツは少しくらい日焼けをして健康的になった方がいいよ。青白いもんな」
いちいちうっせぇ、と毒づいたらおかしそうにオマタが笑った。
「誰と行くんだ」
「そよそよ。と、アキ」
手にしたスプーンが口に入る寸前で止まり、オマタの笑顔が固まった。
ぽたり、ぽたりとスープがテーブルに滴り落ちる。どうやらオマタの中の時間が流れを止めたようだ。
足下にいるおまるには、そんなオマタの様子など目に入らないようで、もっしゃもっしゃと音を立てて一心不乱にコマツナを食べている。
「おまるも行くよな」
話しかけたら、クチバシを緑色に染めて、おまるがやっと顔を上げた。
「海ですか。良いですなぁ。波のある大きな池みたいなものじゃろうか」
「いや、全く違う。沖まで流されたら多分死ぬから注意しろよ」
「浮き輪を持っていきますじゃ」
「そうだな。バーベキューもするってさ。ということだから、楽しんでくるわ」
「いやいやいやいや」
再び時の流れに身を任せたオマタが、スプーンを握りしめたまま早口でまくし立てた。
「おかしいだろ、なんでお前がアキと一緒に海に行くんだよ」
「それはお前が行かないからだろ」
「行かないんじゃなくて行けないんだよ! 仕事だから! どうして人の彼女と一緒に海に行くんだよ!」
「誘われたから」
「いつの間にそんなに仲良くなってんだよ」
「仲良くねぇよ。そよそよに誘われたから行くんだよ。別に二人きりじゃねぇんだから安心しろよ。子供かお前は」
オマタはまだ何か言いたげにぱくぱくと口を動かしている。
「その、海ってことは水着になるってことだよな」
せわしなく視線を空にさまよわせながら、もごもごもごぉと小声で呟く。なんだ、そんなこと気にしてたんか。そりゃ海だから水着になるだろうよ。アキならふんどしかもしれないけど。
「大丈夫だって。俺があいつに欲情するわけねぇから」
「そりゃお前はそうだろうけど、心配なのはその、お前じゃなくて他の男で」
こいつ気持ち悪いな。
「あいつに欲情するのはてめぇだけだ」
「くそぉ……適当なことを言って……」
納得できないとつぶやき、再びカレーを口に運びながら、恨めしそうな目でオマタが俺を睨む。
あきらめろ。そして仕事頑張れ。




