4 ベコナ
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オマタのやろう、ムカつく。なにがスープカレーだよ。こんな状況で俺が作ってやるとでも思ったか。クレアおばさんを唾液で薄めて舐めてろってんだ。
と思いつつ、ひたすらタマネギを切り刻み飴色になるまで炒めている右手に慄然とする。確かに俺もしつこく怒りすぎたという自覚はある。冷めゆく怒りに比例して増殖してくる謝罪と後悔の念が、素直になれない心とはうらはらにこの腕をひたすら動かすのか。ああ、タマネギが促すは贖罪の涙か。
なすすべもなくただひたすら動き続ける己の腕に絶望を覚えつつ、徐々に上昇していく夏の外気温と室内の湿気に体中じんわりと浮かんだ汗をぬぐうでもなく「夏だからこそカレー」とか初めに言った奴と、普段からやや高めの平熱に殺意を覚え始めた頃、玄関のチャイムとほぼ同時にドアの開く音がして、「コンニチーハー」というわざとらしい鳥の人まね声が聞こえた。
こちらの反応を待たずに家に上がり込んでくる軽い足音。隣の部屋に住むそよそよだ。どうやら今は人間型らしい。
ちょっくら失礼の声と同時に、あぶらのきれた音を立ててリビングのドアが開き、鮮やかな金と緑の混じった髪色の女の子が姿を現した。
「ん~、いい匂いがするね~。インドを彷彿とさせるなんともスパイシーな香りだね。第三チャクラが活性化しそうだよ」
「よお、そよそよ」
「おはようだよクロイツ。朝から夕飯の仕込みとはなんとも手が込んでいるね」
「オマタのリクエストだよ」
「むふ」
ぶっちょうずらで言い放った俺の様子に、そよそよが少し意地の悪げな顔で笑った。喧嘩をしていたことを知っているのだろう。ここのアパートの壁は薄い。言い合いも聞こえている違いない。
「なんとも弟想いな兄さまだよ」
「そんなんじゃねぇっての」
「照れるんじゃないよぐふふ。ところで今日はね……」
「な~」
「えっ?」
そよそよの言葉を遮って、突然聞こえてきた聞き覚えのある鳴き声に、俺は耳を疑った。甘く鼻にかかったような声色、なんとも言えない独特の発音……これはまさか。
「あ、こっちなんだよ~。今窓を開けるよ」
そよそよが外に向かって声を上げ、リビングの窓を開けた。途端、数センチ開けた窓と窓枠の間から、白い塊が鉄砲玉のように勢いよく、そよそよめがけて飛び込んできた。
「な~ん」
「わあ、おっとと。ベコナは甘えん坊だよ」
そよそよが白い塊を胸で受け止めて頭を優しくなでると、その塊も嬉しそうに甘えた声をあげた。
この白い塊。これはまさに。
「わあっ、あっ、あっ、あっ……ペコナぁ!」
「ナッ!?」
「どうしたんだよ、大きな声を上げて。よすんだよ」
「どうしたもこうしたも、どうしたんだこのペコナ」
思わず興奮してにじりより、そよそよの手の中にいる、でかい目をしたでかい頭のぺコナをつつくと、その宇宙生物は、な~な~と大きな頭をさらに大きくして抗議の声を上げた。怒った様子も可愛い。
ペコナ。よくよく見るとうちにいるぴーちゃん……セキセイインコを白くしたのに似ている宇宙生物だ。
「実はそよ、心細かったから、ベコナ……はこの子の名前なんだけど、一緒にチキウに来ていたの。でもベコナが散歩の途中で迷子になっちゃってて。最近ようやく戻ってきたという寸法だよ」
「なるほど」
途中でよくカラスに食べられなかったものだ。無事でなにより。ほっぺたをなでると、ベコナと呼ばれたぺコナは気持ちよさそうに羽を逆立てて、でかい頭をさらにでかく膨張させた。
「このペコナの名前はベコナ・ベルカナ・ベッ・ベコ・ナーだよ」
「よろしくベコナ。俺はクロイツ」
「な~なん」
「ベコナもアスガルドから来たのか? そよそよの友達ってことはスヴァルト・アールヘイムとか?」
「なんななん」
「そっか」
んがー。可愛いなぁ。ペコナでベコナってマルと点々の違いしかないとこが、ちょっとややこしいけど。
しばし手に乗せてにおいを嗅いだりまふまふしたりすりすりしたりして、思う存分ベコナを堪能していると、ベコナよりも先にそよそよが、そろそろいいかい、もう許しておやりよ、とやけに老成した目をして俺の肩を叩いた。はっとしてベコナを見ると、やや疲れ気味の顔でじっと目をつむって何かに耐えている。
おっと。こいつはいけない。俺としたことが、どうやら久々のベコナに少し興奮しすぎたようだ。しつこくしすぎて嫌われてはいけない。
申し訳ないと謝って愛撫によって乱れたベコナの羽をせっせと指で整える。む……。少し羽の艶が悪い気がする。知らない星で迷子になったことで、精神的に疲れてしまったのだろう。
「ところでクロイツ。近々海に行かないかい」
「はい?」
脈絡のない提案にそよそよの意図が読めず、俺はベコナを手にのせたまま、しばし深い緑色した大きな目を見つめた。
「海って、どうしたんだ、いきなり」
「今度の日曜日、アキが海に誘ってくれたんだよ。オマタとクロイツとおまるも誘って隣町の海水浴場に行こうって。バーベキューもオッケーなところらしいよ。アキが車を出してくれるって」
そういうことか。
人間型そよそよはいつの間にかアキと仲良くなっていた。お隣さんと言うことでよく夕食時にこの家にいたからだ。もちろん、アキはそよそよが鳥型になれるなんて知らない。初めてアキとそよそよが出会ったのは、夕飯時オマタの家でそよそよが鳥型の時だった。以降、オマタの家に青緑色のセキセイインコが居ないときはそよそよがいて、そよそよが居ないときは青緑色のセキセイインコがいる、というややこしいことになり、ぴーちゃんはいるのに、もう一羽だけ別室で寝させているとかいういいわけが苦しくなりすぎて、ある時からアキと会うときは鳥型禁止となった。
「海、か」
正直海はあまり好きではない。貧相な体を晒す気にもなれないし、なにより俺の体にはいたるところにばっちり焼印があるから、海パン一丁なんてもってのほかだ。けれども、楽しそうなそよそよの顔を見ていたら、行きたくないとは言えない。
泳げない訳では決してない。
「俺はいいけど、オマタのやつが休みだったかな。勤務が入っていたような。今日帰ってきたら確認してみるわ。おまるも散歩から戻ってきたら聞いてみるけど、まぁあいつはきっと行くだろ」
「よろしくだよ。もちろんベコナも行くよ」
「な~」
「食べたい食材を持ち寄るんだよ。そよは野菜を主としてその中でもピーマンをたくさん持ってくよ。アキはお肉を持ってくって言ってたよ」
「そっかじゃあ俺は魚介類メインで持って行くかな。そよそよもベコナもお魚あれば食べるだろ?」
「食べるよ~」
「な~」
「でも……クロイツお魚食べられないでしょ?」
そよそよが心配げに俺の顔を覗き込む。
「いや、海魚から訓練してる。もともと食べられないわけじゃねぇしな」
「そっか」
魚の脂はよいあぶら~ドコサヘキサエンさんにエイコサペンタエンさん~、と妙な調子で歌いながら、嬉しそうに腕をふりふり、そよそよとベコナが隣の部屋へと戻っていった。
海。白い雲。白い砂浜。眩しい太陽。夏の代名詞。ビーチパラソル(主に俺用)とスイカ用意しなくちゃな。あとビール。海に入られない俺は、カモメでも眺めながらビールを煽るしかない。
海か。平和な海に行くのは果たして何年ぶりだろう。エンピレオにいた頃は海なんて食料調達場以外の何モノでもなかったもんな。久々に正しい海とのおつきあいをしようか。
少し楽しくなって来たな、と思いながら、ぴーっとなった圧力鍋の火を止めた。部屋の中には香辛料の独特な香りが充満していた。




