3 ペコナ
作家自ら山で採取した粘土をこねて窯で焼いたらしい茶色い手作り感溢れるカップには、作家さんいわく非常にアーティスティックな「セキセイインコ」の絵が書かれていたのだが、ダチョウとエミューの違いすら分からない俺には、やたらと頭のでかい羽の生えた毛玉生物にしかみえなかった。
そして、クロイツが言うには、その毛玉生物がどうやらもといた星の「ペコナ」だかという生物にそっくりらしいのだ。
頭のでかいセキセイインコをすっかり「ペコナ」と見なしたクロイツは、その生物に特別の愛着があったのか、はたまた元いた星への望郷の念ゆえか、手作り感溢れた味わいのあるカップをたいそう気に入って、朝にはそれでコーヒーを飲み「ペコナ」を眺め、昼にはそれで緑茶を飲み「ペコナ」を眺め、夜にはそれで番茶をすすりながら「ペコナ」を眺めていた。
俺の予想を遥かに超えて気に入っていたに違いない。
この事件に関しては言い訳のしようもなく、手を滑らせて割ってしまった俺が悪い。しかもカップに入れていた飲みモノがまたよくなかった。息を止めて手を伸ばすクロイツの目の前で、もといた土に戻らんとせんばかりに床と劇的な邂逅を果たしたカップは、枯れた小枝を折るような軽い音をたてて割れた。
カップに描かれたぺコナの頭が、見事にぱかっとまっぷたつに割れ、半分ほど入っていたトマトジュースが床一面に飛び散った、あの恐怖映像が未だに脳裏から離れない。
あの映像はトラウマになる。
だからこうして俺は自分の非を認めて毎日謝っているのに、クロイツはいつまでたってもこちらを睨むばかりでまともに目すら合わせず徹底抗戦の構えだ。
今日で四日目。大切なものだったのはわかるが、お互い大人なんだしいいかげんにしてほしい。
「悪かったって。ほら、今度の休日スケートにでも連れてってあげるからさ。前に行きたいって言ってただろ。近くに夏でもやってる屋内リンクがあるんだよ」
「そりゃテメェが行きたいだけだろうが」
それもある。
俺は大学時代にフィギュアスケートをしていたからスケートは大の得意なのだ。
ふんっと鼻の穴を膨らませてでっかく息を吐き出しながら、クロイツがそっぽを向いた。子供か。
助け舟を求めて友人でありペットであるアヒル(仮)のおまるに顔を向けたが、俺の視線に気が付いたおまるは「我関せず」といった感じでいそいそとどこかへ消えていった。そろそろ仕事に行かなきゃならないのに、今日もまたこの調子で家を出て行くことになりそうだ。
しかしまぁ互いに無言よりもましなのか、と思いつつも出口の見えないクロイツの怒りの深淵にうんざりする。
俺は困り果てて、不本意ながらも下手に出て優しく語りかけた。
「似たようなものを買ってやるからいいだろう」
「うるせぇ、三途の川に沈めるぞスットコドッコイ!」
クロイツが激高して大声を張り上げた。いつもは血色の悪いその顔も今は怒りで赤く茹で上がり、赤すじまでもが立っている。本気で怒っているらしい。
大切にしていたのはわかる。わかるが、たかがカップくらいで。と、こんなことを言ってはいけないことも同じようにわかるが「ぺコナ」を知らない今の俺としては、やはりそう思ってしまう。
「このペコナ殺し!」
まだ言うか。
冷めた視線で己を見つめてくる俺に対してさらに苛立ったのか、クロイツが近くにあったせんべいのように平たく使い古された、くすんだピンク色のクッションをこちらに投げつけてきた。室内という至近距離で回転しながら俺めがけて一直線に飛んできたピンクせんべいが、ボスンという情けない音をたてて顔面に直撃した。
窓から射しこむ太陽光の中に埃が舞う。
たいした衝撃ではないが、突然のことにほんの一瞬息が詰まった。痛くはないが無性に腹立たしい。
こいつがこんなにも根に持つタイプであったということは意外だった。しかし、いつまでもこうならいい加減こっちだって本気で腹が立ってくるというものだ。
俺は顔面で受け止めた平たいクッションを、同じように相手の顔面に向かって投げつけてやった。
予想通りの行動だったのか、クロイツは余裕のポーズでひらりとクッションを避けつつ、口の端を不格好に曲げたまま笑い声すら発さずに馬鹿にした視線を俺に投げつける。あっさりと標的にかわされたクッションは無念にもそのまま壁に衝突し、不発弾のような不気味さでもって静かに床に沈んでいった。
当たったらさらに怒り出すだろうから、避けられるように投げてやったのだ、と言ってやりたかったが、これ以上泥沼になったら嫌なので我慢する。だが内心腹が立って仕方が無い。そっちがその気ならこっちだって考えがある。
過去の話をほじくり返してやるんだからな。
俺は目の前の男を糾弾せんとて大声を張り上げた。
「お前だって高価なお塩を散々ばらまいて、弁償してくれるって言ってまだしてくれてないだろうが!(無印参照)」
「弁償するとは言ったがばら撒いたのは俺じゃねえ! それに女とよりを戻したんだから(アストロラーベ参照)塩くらいいいだろうが! ちっせぇこと言うんじゃねぇ!」
床が抜けんばかりに大きな足音をたてながら、クロイツが大股で近づいてきて俺の胸倉を掴んだ。耳元でミリッと糸の軋む音がして襟が皮膚に食い込み、首の後ろ側がぎりぎりと痛んだ。
だがこんなことでひるむ俺ではない。力ではこちらの方が強い。いざとなったら片手でひょいと抱えあげて、アホネンさながら三途の川の向こう岸のさらに向こう側のK点付近まで放り投げてやる。
「だいたいスケートに行こうなんて言いやがって、どうせアキも一緒にとか言うんだろ! それとこうやって喧嘩してもいざとなったらアホネンみたいにK点越えて俺を三途の川の向こう側までなげてやるとか思ってんだろ! アホネンはスケートじゃなくてスキージャンプだし! しかもチキウでいうところの十年くらい前の! ふっる! お前ばか!」
クロイツが俺に掴みかかったまま、大声で喚く。なにこいつ心読めてんの怖い。これが双子ってやつか。こわ。というか、怖ろしく細かいことまで地球の勉強をしていることにも驚く。こいつ地球で何がしたいんだ。
「お前と二人きりでスケートに行って何が楽しいんだ。沢山いたほうが楽しいだろ」
「そりゃテメェだけだ。三人で行って俺はテメェらがイチャついてるのを指くわえて見てろってのか」
「エスタも一緒にくればいいじゃないか」
「エスタはシベリアに避暑にいったまま帰ってこねぇ」
「じゃあそよそよちゃんを誘ってみるとか」
「あんなちっせぇ女子と仲良くスケート滑ってたら、俺はただの犯罪者じゃねえかチクショー!」
「それは考えすぎだって」
不健康な青白く細い手首を震わせて半泣きになってる目の前の男。みじめ。俺にはもうコイツが何に対して怒っているのか分からない。多分、本人も分かっていないだろう。
時計を見るとそろそろ家を出なければ危険な時間になっていた。これ以上遊んではいられない。俺はクロイツの手を振りはらって玄関に向かった。
「とにかく、俺はそろそろ仕事に行くから。夜までに機嫌なおしておいてくれ。あと、晩飯はスープカレーがいいな。スパイスから作ったやつ」
「うっせぇばかやろうてめぇはクレアおばさんでもしゃぶってろこのやろう!」
クロイツの罵声を背に、俺はあふれ出す苦笑いをかみ殺しつつ家を出たのだった。
 




