『マーテル』20 一期一会
「もしそう見えたとしたら、哀れみではなく、俺自身が哀しいからだ。地球で頼れるのは俺だけのはずなのに、お前は俺を頼ってはくれない。大事なことは何も話してくれない。俺はそんなにふがいないか?」
そう言って、辛いのか悲しいのか、俺には図りかねるような複雑な表情を浮かべて俯いた。向こう側の肩がわずかに雨に濡れている。雨が、と言いかけた俺をさえぎって、オマタは小さく息を吐いて首を左右に振った。
「俺に記憶がないから?」
少しだけ顔を上げ、オマタは俺の手に握り締められたままでいるアストロラーベをじっと見た。視線を感じた右手が、無意識のうちに強くアストロラーベを握りしめる。
「壁にかけてあったそれを見て、お前はいつも難しい顔をして何かを考えていた。名前を呼んでも上の空だった時もあった。でも過去に何があったのか、いくら聴いてもお前は何も教えてくれない」
切羽詰ったようなオマタの顔を見ていられなくなって、俺は足元に視線を落とした。そこには雨に降られて黒く変色したコンクリートと、それを突き破って生えた名の知れない雑草があった。雨は全てを哀しくする。雨に濡れるとなにもかもがみじめに見える。顔をあげて横を見るとオマタと目が合った。
「それが少しだけ残念で哀しい」
思いの全てを吐き出したかのように、オマタが深く息をついた。
俺はアストロラーベが壊れるくらい強く握り締めた。これが何なのかずっと気になっていたのか。そんなこと全然気がつかなかった。こいつの視線にすら気がつかなかった。それどころか、自分自身の視線にまで。俺はどれほど難しい顔をしてアストロラーベを見ていたのだろう。
「素直じゃないうえに、何でもかんでも自分の中に隠しこむ。見ていて少しイライラするんだよ。お前は」
そう言って再び大きなため息をついて、そして困ったように笑ってくれた。雨はいつの間にか小降りになっていた。傘を俺に手渡して、オマタが一歩先に歩き出す。
「おい、まだ雨が」
「俺だって、何もできないわけじゃない」
俺に背中を向けたままオマタが言った。表情を見ることはできない。
小降りになったとはいえまだ雨は止んではいない。だがあいつは制止の言葉を無視して、どんどんと先へ歩いていく。俺は声をかけるのを諦めて、大きな背中が進む方向へ傘を差しながら付いて行った。
「物音がしただけで拳銃を握るのはやめてくれ」
「それは脊髄反射みたいなもので……」
「じゃあその脊髄反射を止めろ」
無茶言うな。
「手の届くところに置いておくな。こんどやったら逮捕する」
「それは危険だろ。もし追っ手が来たら」
「俺がいる」
「けどな」
「エスタもいる。そよそよちゃんもいる。役には立たないかもしれないけど、おまるもいる」
「だけどな」
「信用してくれ。俺だって何もできないわけじゃない」
オマタが先ほどの言葉を繰り返す。俺は振り返らない彼の背中をじっと見つめた。
「確かに俺はまだお前と兄弟だなんて、信じられずにいる。実感がないと言った方が正しいかもしれない。兄弟として暮らした記憶がないんだ。それは仕方がないことだと思う。けど、兄弟とかそういうのを抜きにしても、困っている人間がそばにいるのに、放ってはおけないだろ」
兄弟とは思われていない。その言葉に少し寂しさを覚え、そして少しだけ、傷ついたのも確かだ。矛盾していると自分でも思う。弟の記憶を奪い、兄弟という事実をも隠そうとしていたのに。
「一人で抱え込むな。頼ってくれ」
あまりに必死な声音に、こちらを見ていないとわかっていながら、無言で頷いた。
知らないうちに、随分と立派になったもんだ。これまでずっと、銀眼人種としての力を持たない欠乏者……非力な弟だと思っていたのに。欠乏者が能力を持った者よりも劣っているとは思わない。だが、どれだけ努力をしようと力の差は歴然だ。何かあったら俺がどうにかしなければならないと、そう気負いすぎていたのかもしれない。
「それと」
何かを思い出したかのように普段より半音高い声を上げて、オマタが立ち止まりふり返った。俺の足も止まる。
「アキが緑豆もやしよりも大豆もやしのほうが栄養があるって言ってたぞ」
「は?」
「マッチ棒の燃えカスにはファンは付かないって」
「あぁ、そぅ……」
「スーパーで一体どんな会話をしていたんだ。お前たちは」
そういって弟は嬉しそうに、笑った。




