6 俺の話を聞け。五分だけでもいい
ドッペルゲンガーは無事に逃げることができただろうか。
探した方がいいのかな。落とし物のこともあるし。でも今下手に動き回ると、また黒づくめサングラスの男共に見つかる危険もある。胸に言いようのない不安を抱えながら、俺は早足にアパートへと向かった。
交番からアパートは、普通なら歩いて十五分程度の道のりなのに、今日はドッペルゲンガーたちせいで、一時間以上もかかった。もう夜の七時をまわっている。そのうえ走り回ったので、大分汗をかいた。
日中と合わせて、人体のおよそ六十パーセントの水分を失ったに違いない。
俺の住んでいるアパートは築二十年ほどの二階建てで、決して新しいとはいえない物件だ。水色の外壁はところどころ禿げており、そのうえ所々に小さなヒビも入っている。階段は赤茶色に錆びていて、一段踏み出すたびにカンカンと甲高い音を立てて軋む。それでも男が独りで住むには十分な部屋で、俺は着任以来ここにずっと住んでいる。
早足で、それでいてなるべく物音を立てないようにアパートの敷地内に侵入した。外から見た俺の部屋は真暗だったが、お隣さんの部屋には煌々と明かりがついていた。薄いレースのカーテンしか引かれておらず、一階からでも部屋の中が見えてしまっている。
この部屋には、引っ越しの挨拶に行っても小さな女の子しかおらず、親らしい親も見たことがない。まさか小学校程度の女の子が一人で住んでいるなんてことはあり得ないだろうが、あんなにも部屋の中が見えているなんて不用心すぎる。
あれはいかんな、などと思いながら、俺は触れただけで錆び色が手につきそうな手すりにつかまりながら、忍び足で階段を登った。
顔を上げると、お隣さんの窓辺にぼんやりと佇んでいる、鳥の頭に人の体をした怪しげな人形と目が合った。それがあまりにも置物らしくなく、生々しい幼い子供の眼球のような目をしていたので、俺は思わず息を呑んだ。女の子のものだろうか。
なかなかいい趣味をしていらっしゃるな。
魔よけか。
効果ありだな。
今度俺も買ってこよう。
しかし、ああいう悪魔、見たことがあるな。なんて言ったかな。
そういえばドッペルゲンガーも悪魔だったな。いや、幽霊だったかもしれない。だとしたら、もともと何をする幽霊だったかな。
自分に似ている人を見ると死ぬという話と、ドッペルゲンガーは関係あるのだろうか。自分に似ている人は世界に三人はいると聞いたことがある。本当にドッペルゲンガーを見たら死ぬんだったっけか? それとも三人見たら死ぬんだっけか?
うーむ。わからん。
それにしても、ドッペルゲンガーと心で呼んでいたあいつだが、それほど俺に似ていなかった気がする。俺よりも背が低かったし、暗闇の中で見たせいかもしれないけれど、とても不健康っぽかった。
そんなことを考えていると、さっきまで暗かった俺の部屋にぱっと明かりがついた。アキが、恋人が来ているのだろうか。
まさか、サングラスたちが先回りしたわけじゃないよな。
……まさかな。
明らかに不審者な足取りで部屋へ向かう俺を、お隣さんの鳥頭人体悪魔が、真黒かつ、つぶらな瞳で睨んでいる。
こいつ、黒魔術の悪魔っぽいな。ナムアミダブツナムアミダブツ。
念仏を唱えていると、ふと俺の脳に誰かが語りかけてきた。気がした。
『ヒバリは危険が近づくと、敵を家から遠ざけるのに』
思わず足を止め、辺りを見渡した。どこかの家の夕飯の匂いが、風に運ばれて俺の鼻の中に吸い込まれていく。その匂いのせいか急に空腹感が押し寄せてきて、胃がきゅうと鳴った。
どれだけ恐ろしい思いをしても、腹は減る。そして、結局俺はこの家に逃げ込む。
鳥頭人体悪魔が無言でこちらを見ている。よくよく見れば、悟りを開いた神の顔をしていらっしゃる。
見つめ返せば、黒曜石のような艶やかな目がキラリと光った。誰かの危険よりも、自分の安全を優先する人間を見て笑っているかのようだ。
昼間のヒバリの行動が、いかに勇敢な行為であるかを思い知った。俺はヒバリ以下だ。
大地を這う人間は、所詮大地の上しか逃げられない。退路は前後左右だ。だが、鳥は前後左右だけではなく、上にも行ける。3Dだよ。スーパーファミコンからプレステになった時みたいなもんだ。FF6で魔大陸が浮上してスゲーって言ってたけど、FF7であの立体感を見せつけられて、俺の感動はなんだったんだ、って思ったもんなってなに言ってるんだ俺。混乱してるな。
ためしにヒバリのように両手をばたつかせてみたが、両足はしっかりとコンクリートの地面に張り付いたままだった。
ばたつかせたままジャンプもしてみたが、空中停止もできなかった。
ほらみろ。
生まれながらにして、大空を自由に飛ぶ鳥には適わないのだ。やはり人間は危険になったら穴に篭るしかないのだ。
「へへっ」
情けない声で笑うと、足元の影がゆらりと揺れた。顔を上げると、隣の家の窓から幼い女の子が無表情でこちらを見ていた。
手には鳥頭人体悪魔が握り締められている。その手が心なしか震えているようにも見える。
「これには理由が」と言い訳をしようとして口を開きかけたが、女の子は無表情のまましゃっとカーテンを引いてしまった。
俺は両手を地面と水平にしたまま遠くを見た。
「嘘です」
俺は呟いた。
理由なんかありません。
全てがどうでもよくなった。