『マーテル』19 会者定離
ちょっと待て。
予想に反して、オマタが持ってきた傘が自分でさしてきたもの一本だけだったので、俺は冷たい雨に体を冷やしながら立ち尽くした。迎えに来てくれたのならもう一本俺用に持ってこないか、普通。昭和のカップルじゃあるまいし。これじゃあ狭苦しくて歩きにくいだけだ。若干ありがたくない。
ぶつぶつ言う俺の腕を引いて、オマタが無理矢理傘の中に引き入れた。夜の冷たい雨の中、狭い傘を野郎二人で分かち合う。
トトロになろうと辺りを見回したが、あいにく海辺にラワンブキは生えていなかった。
「これは子供傘か。小っせぇな。俺は走って帰るから、お前は傘さしてゆっくり帰って来い」
「あのな、俺は別にいいんだよ。傘がなくても。どちらかというと不健康なお前に必要だろ。雨に濡れたら風邪をひくとか通り越して突然死しそうだ。それに俺が傘さしてお前が走って帰ったら、迎えに来た意味ないだろう」
寒さに頬を赤くしながらも、スプリングコートにストールという完全防備な出で立ちで弟が言う。
まあ、それは、うん、まぁ、当たっている。確かにその通りだがやはり釈然としない。
「どうせ迎えに来てくれるのならもう一本持ってくるのが優しさだろうが」
「もう一本あったんだけど、アキに貸した」
「あ。そか」
貸した、ね。あげたのではなく。また会うことになっているのだということを暗に示したようなものだ。分かっていたことだけど。
星と星を繋いで形作られた星座のように、繋がれた縁や鎖は簡単には壊れない。星座は簡単に隊列を変えないし、どんなに遠い星々であっても、その間に引かれた線は千切れることはない。
少なくとも、地球から見る限りは。
横を歩くオマタに歩調を合わせる。春だというのに夜の空気は冷たく吐く息が白くにじむ。ただでさえ寒い夜なのに、先ほど当たった雨が徐々に体温を奪っていく。北国の春は遅い。冬はなかなか死なずに北の空にしがみついている。長くいたエンピレオは常夏だったので、俺の体はまだ寒さに慣れない。
はじき豆みたいにばちばちと傘を打ち付ける雨音が耳に響く。こうやって兄弟並んで雨の中を歩くなんていつぶりだろう。おそらく、小学校の時くらいか。至軸ニザヴェリルにいた頃の遠い昔の話だ。
「クロイツ、鼻が赤いぞ。薄着だし結構寒いんだろう」
急に黙り込んだ俺を不審に思ったのか、オマタが俺の顔を見て言った。鼻に手をあててみると、触れているという感覚が、ぼんやりとしか確認できないほどに冷たくなっていた。
「俺のストール使うか?」
「ぎょえー。そこまですんな。勘違いしちゃう」
「どんな勘違いだよ」
俺の冗談にオマタがあきれた声をあげる。粒の大きい雨が傘に衝突しては一筋の流れを作り地上に流れ落ちていく。そうしている間にもどんどん体が冷えていく。
冗談を言いながらも、ぎこちない笑いに気がついたのか、オマタが申し訳程度に笑って俺から目を逸らした。
違う。ぎこちなくなるのは寒さのせいであってお前のせいじゃない。そう言いたいのだけれど、うまく言葉が出てこない。
「俺、言ったんだ。アキに」
唐突にアキの話題に引き戻される。先ほどまでの出来事を話そうとしてくれているようだ。おそらく、俺が彼女のことで気を揉んでいると思っているのだろう。確かにそうだが、俺はお前のお母さんじゃない、報告なんていらない。伝えたかったことは伝えた。あとは好きにしやがれってんだ。と思うがちょっと気になる。なにこれ自分気持ち悪い。
「俺は君が想像するよりも、遥かに長生きなんだよって」
言葉を理解するよりも早く、足が動きを止めた。突然立ち止まり傘の庇護から外れた俺を、オマタが怪訝な顔をして振り返る。
「おまえ、本当にそう言ったのかね?」
「ああ。言った」
「うむ。昔からそうであるが、おまえアホだな」
「なんでだよ」
オマタが口をへの時に曲げた。
アホほど馬鹿正直な奴だなと言いたかったのだが、アホであることに違いはないので言い直さなかった。
信じて貰えるわけがないだろが。漫画の読みすぎだとかネットのやりすぎだとか言われて、馬鹿にされるのがオチだ。
「あの女、なんて言ってた?」
考え込むように下を見て少し間をおいてから、オマタは言った。
「だから何なのよって殴られた」
「ん?」
「拳はグーだ」
「パーでなくてか」
「握り締めてた」
「すげぇな」
「すごいだろ」
だから何なのよって言われたら、なーんにも言い返せないよな。結構重要なことだと思うんだけどな。
「かかって来なさいって言われた」
「かっ……?」
「怖かった」
「かかっていったのか」
「まさか。返り討ちにあう」
「漢だな」
「漢だよ」
そうかこいつの頬の赤さは寒さからではなく、殴られたことにより熱を持っていただけなのか。笑える。やっぱりこいつはアホだ。
「ストール貸せ」
「いらないんじゃなかったのかよ」
「いる。貸せ」
俺は赤くなった頬に向かって、拳を突きつけた。そこは予想に反して熱を持ってはおらず、皮膚の冷たさが握り締めた拳から心臓に伝わってきた。
「あいつのパンチは痛かったか?」
「全体重をかけた直球ストレート」
「うわぁぃ」
殴られた痛みは想像に難くない。俺もよく殴られていたし。聞いているだけで奥歯がカタカタする。
オマタが片手で傘を持ち、もう片方の手で首からストールをはずす。それを受け取りぬくもりが消えないうちに、自分の首に巻きつけると、驚くほど寒さが和らいだ。
「ずっと一緒にはいられないけれど、だからといって関係を切ることもないだろう」
「そりゃそうだ」
でも結局、出会ったものには必ず別れが来る。そしてアキの場合はずるずるとその関係を続ければ続けるほど、お互い余計に多く傷つくことになる。もし絶てるのならば、今絶ってしまったほうが傷は浅くてすむはずだ。
どれだけ大きく心を傾けた相手だとしても、所詮人は忘れる生き物だ。喪失には慣れる。
「出会いって、一期一会だと思っている」
オマタが静かに口を開いた。ふーんと頷いてから俺は首を左右に振った。
「俺は会者定離」
「可愛くないな」
「可愛いなんて思われたくなぇな」
「お前って適当なオプティミストかと思っていたら、結構複雑なペシミストだったんだな」
「俺は単純なリアリストだ」
「単純な奴は難しい顔をして、眉間にシワなんて寄せたりしない」
先ほどしたパンチの仕返しのように、オマタが俺の眉間を人差し指で軽く突いた。突然迫ってきた指に驚いて俺は思わず眼を閉じた。
「ウッセェ。これはクセだクセ」
手を振り払い、額をさすりながらそう答える。
「そんなクセがつくようなこと……してきたんだな」
消え入るように言ってオマタが立ち止まった。つられて俺も足を止める。どうしたのかと横を見ると、そこにはあの目があった。可哀想なものを見る、あの目。だから、そんな目で俺を見るな。
もうそんな顔なんて見たくなかった。こいつにはそんな目で見られたくなんてなかった。
「お前は俺を可哀想だと思っているんだろ。俺を見る目が、時々そう言っている」
意を決して言い放った。ずっと心の底に溜まっていた澱を洗い流すように。今言わないと、もやもやにずっと封をして、延々と閉じ込めてしまいそうだった。
オマタが驚いたように目を見開いた。そして何を言っているんだとでも言いたげに、わずかに口元を震わせた。
「思ってないし、見ていない」
オマタは黙り込み、少しだけ考えて、傘を持つのと反対の手で自らのまぶたに触れた。




