『アリデード』17 星座の鎖
「それに」
氷のように冷たい声色が鼓膜を突き刺し、俺の思考は即座に停止した。思わず身を強張らせ呼吸を止めてエスタを見る。彼女の表情は硬い。だが、口から吐き出される息は白い。今はそれだけが彼女から感じ取ることのできる唯一の温度だった。
「銃やナイフよりも、それを手にしている今の君は、安心しているように見える」
その言葉に少しだけ安心する。表情とは裏腹にそれほど怒っていはいないのかもしれない。というのは希望的観測だけれども。
「地図がなければ歩けない人間になっちまったのかもな」
「そうじゃないと思う。それは君にとって、大切な人とを繋ぐものなのでしょう」
大切な人。本当に大切だった人は今はもういないのだけれど。
アストロラーベを手のひらに置き、ルーラと呼ばれる回転バーをまわす。天球を表すリートの上で音もなくそれはくるくると回転する。これで何をどうにかするつもりなどない。俺はひたすらルーラをまわし続ける。まるで、壊れた時計の針を逆に回すみたいに。
それに飽きたらアストロラーベを裏返し、そこにあるアリデードをルーラと同じように人差し指でぐるぐると回転させた。おまたがフィギュアスケーターをまねて高速回転するみたいに。
ぐるぐる。ぐるぐる。
やがてそれにも飽きた。
こんなことをしたって、これもこれの元持ち主も、俺がいるべき正しい位置など示してはくれない。そもそも、これに地球の夜空が描かれていたとしても、正しい使い方など俺にはわからない。
俺は、ここへ来てどうするつもりだった? こんなものまで持ち出して何がしたかった? 地球の空に何を写してみたかった? 昔の感傷に浸りたかった?
オマタとアキがいるあの場所から、逃げ出したかっただけだ。
空を見上げる。ひとつ大きな白い星が浮かんでいる。ざらついた表面をさらす地球の衛星。
「エスタ、知っているか」
隣で俺の指先を見ていたエスタが顔を上げた。
「地球の衛星は空に開いた穴のような星がひとつだけしかない。そしてその星は地球から毎年三センチずつ遠ざかっている。そんな衛星を持つ地球の人間は太陽が燃えていると思っている。しかしそんなことは大きな問題じゃない。そんなことは普段の生活にはまったく関係がない。ちょっと前までは地球が平らだと思っていた人類だ。不思議なことでもないし重要なことでもない」
「クロイツ」
「なんだ」
「テキトーに地球を選んだ、なんてうそ。地球について、沢山調べたんだね」
そりゃそうだ。大切な……そうでもないけど割と大切な方に分類してある弟の送り先が蛮族の星でした、なんてことになったらシャレにならんからな。
「でも、どうして肝心のところで……残念な人だな」
寿命のことかウッセェ。文句があるならセイショに言え。
「一緒に死ねたら楽なのかもな。そうすりゃ命の長さなんて」
そう言った俺の頭をエスタが小突いた。頭に小鳥が止まったかのような、ふわりとした接触だった。
「君らしくない」
「俺らしくない」
「そう」
「月のせいだ」
「空の穴のような、月の?」
「墓場のような、月の」
俺の星の衛星には、青みがかった丸い星と、それよりふたまわりほど小さい緑と金のマーブル模様の星の、二つがあった。それが常に寄り添いあうようにして、星の周りを回っていた。
この地球には月と呼ばれる衛星がひとつ。クレーターの多い墓場みたいな死の星。
「後はあの二人が決めること。君は見守るだけでいい」
「んなこた分かってる。でも、こういうことになった原因をつくったのは俺だ」
「けれど、地球に来なければ彼らは出会えなかった」
「地球に来さえしなければあいつ等は出会わなかった」
「君らしくない」
「俺らしくない」
「そう」
「双子座のせいだ」
「骨組みだけになった廃墟のような双子座の?」
「百歩譲って、立ち上がろうとしているフデバコにしか見えない双子座の」
気が付くと夜が深みを増し、月は家を出たときと比べて相当長い距離を移動していた。雲も出てきたのか、満天の星たちはところどころが灰色にくすんだ厚い雲によって、姿を隠しつつあった。空気も家を出たときよりはるかに冷たく透明になって、吐く息をさらに白いものにする。深い夜に入るときの空気だ。
ふと、アストロラーベを乗せていた手の指先に、冷たい感触があった。服にも小さな染みが数個浮かび上がっている。雨だ。雨の降るような天気ではなかったのに。まだ春が始まったばかりの北国の夜では凍えるほど冷たい雨になるだろう。
「クロイツ、そろそろ帰った方がいいよ」
「エスタは? 今日は帰ってくるんだろ」
「今日は帰らない」
「あ、そうなんだ」
俺一人ではヒジョーに帰りにくいから、できれば一緒に帰ってほしいのだけれどもいかがでしょうか。そう顔で訴えてみるものの、エスタは無表情のまま首を縦に振らない。
「近々、屋久島のお土産を持って帰るよ。縄文杉近くの山小屋に、寝袋を置いたままだから」
「おま……。どうやってというか、そういやそもそもなんで今ここにいるんだ?」
「そよそよから、おまるがスットコ兄が家出したと騒いでいる、という連絡を受けて、文字通り飛んできた。あの子に、あまり心配かけないで欲しい」
「えっと、飛んでいるところは、誰かに見られてないよな? 地球では羽の生えたニンゲンはいませんからね」
「縄文杉までは、ちゃんと歩いて登ったから大丈夫」
そういう問題じゃない。今ここまで文字通り飛んできたんだろ。地球で飛ぶのはやめておけといったことを忘れたのか。スイス上空を飛んだら問答無用で撃ち落とされるぞ。
しかしエスタはそんな俺の心配をよそに、おもむろに三対もある立派な緋い翼を広げた。合計六枚の大きな翼。クジャクのような、というのだろうか、羽一枚一枚に目玉のような模様がある。美しいというよりも畏ろしいという言葉が似合う異形の姿。その彼女がどこか無機的に微笑んだ。
「あと、勘違いしているようだから、言っておく。私は、仲間を殺した軍人と仲良くしている君に対して怒っているんじゃないよ。なんでも一人で背負い込む君に腹を立てているだけ。……どうして、今まで私に何も言ってくれなかったの」
「色々慌しくて、その機会がなかったろ」
さっきから言い訳ばかりしているな、俺。情けねぇ。目が合わせにくい。
エスタはそんな俺を見て寂しそうに微笑み、その手で俺の頬をなで、その翼で夜の風に当てられてすっかり冷たくなってしまった俺の体を抱きしめてくれた。
そしてアストロラーベを握り締めている方の手に、そっと自分の手を重ねてきた。俺の手ごと包み込むように。それは温かく、柔らかかった。彼女に触れられて、芯から冷え切ったこの体が熱を取り戻す。
「大切なんだね」
「借り物だから、失くすわけにはいかねぇんだ」
「君の愛した故郷を殺した人間でも」
「それでも」
エスタが小さく頷いて俺の手を強く握り締めた。
「一度繋いでしまった人との鎖を断ち切ることは、簡単なことじゃない」
オマタとアキもそうだ。繋いだ鎖を断ち切ることなんて、なかなかできない。星と星を繋いで星座を作るように。一度繋がれた線は流星にも切ることなんて叶わない。
「何があっても、私は君の味方」
「ありがとう」
エスタが一度小さく首を左右に振った。そして、抱きしめてくれたときと同じように音もなく離れて、もう一度大きく翼を広げた。急速に失われていく体温に、言いようのないほどの寂しさを感じた。それを繋ぎとめておきたくて、俺は咄嗟に彼女の手を握った。
「エスタ、知っているか。誰かのために飯を作るのは悪くない。一人だと作る気すら起こらないのに」
闇夜を背にエスタが笑った。小さくも大きくもない笑い声を立てて。月光が音を立てるとしたら、きっとこんな音だ。
「近々食べに帰る」
「お前のために、腕によりをかけて作ってやるからな」
「ありがとう。さぁ、お迎えが来たみたいだよ。風邪をひかないように早く帰りなさい」
触れ合った手が滑るように音もなく離される。名残惜しげに指先が宙を彷徨う。エスタは目を細めて俺のはるか後ろを見た。そして、助走もなしに空へと舞い上がり、振り返らずに颯爽と飛んでいってしまった。




