『アリデード』15 いつか別れた人たち
エスタが息を詰まらせた。
このアストロラーベには、俺がかつて一日一日を死の瀬戸際で生き抜いて、震えながら見上げていた惑星の空が描かれている。地球とは違う天球。地球からは決して見ることのできない星々。
もともとアストロラーベは天体観測機器のひとつだ。だがどの星においてもそれなりに文明の発達した時代ではほとんど使われなくなる。もちろん今では、星の位置から時間を割り出すような使い方などしない。どうやらこの地球でもそのようだ。使うとしたら星図として、こうやって夜空を見上げる時くらい。
だが空が違う以上、それもここでは意味がない。地球にある以上、これが持つ本来の機能は何の役にも立ちはしない。
「ずっと持っていたの? エンピレオで?」
「ああ」
「いつ手に入れたの? エンピレオのアストロラーベなんて、聴いたことがない」
「借り物なんだ。返さなくちゃならねぇ」
「一体誰に?」
矢継ぎ早に繰り出してきた質問にうんざりして、俺は少しの間口を閉じた。今夜はやけに苛々する。心がとげとげしているのがわかる。鳩尾が煙を飲み込んだみたいにもやもやする。今の俺はきっとものすごく意地悪で不細工な顔をしているのだろう。
「外の世界にあって、脱出不可能な場所の空を知っている奴は、脱出に成功した奴だけだ」
「何千年という時間の中で、エンピレオからの脱出に成功した人間は、二桁にも満たないはず。君は例外だとして、ほとんどが極悪人だよ。そんな人と知り合いだったの?」
「……ハガラズ」
「誰」
厳しい口調でエスタが俺を見据えた。足下の砂がぎっと音を立てる。俺は覚悟を決めて目を閉じ、言った。
「原動アスガルド軍の将軍」
瞼の向こうで、つっと息を止める音を聞いた。
ハガラズ。封域での指揮官の一人、原動アスガルド軍の将軍。俺たちの友人や家族を殺した国の軍人。本来俺にとっては最も憎むべき相手。だが俺は、誰も知らない真実の名前まで知っている。
そのことを知ったら、エスタはどんな顔をするだろう。そしてさらに……いや、今はまだ全てを話す勇気がない。
ハガラズは俺に何も言わなかった。
脱出不可能と言われたエンピレオ送りになることなんて誰も予想もしていなかったある日に、俺はアストロラーベを渡された。一体どこの空なのか、それには見たことのない星が描かれてあった。
その後、エンピレオにぶちこまれて、空を見ていて気が付いた。アストロラーベが示しているのは、この空なのだと。俺はそのとき初めてこれを持っていたハガラズが、エンピレオの脱出成功者であることを知ったわけだが。
エスタが複雑な表情で俺の目を見る。その目に見つめられると妙な気持ちになる。恥ずかしいとかそういった感情ではない。逸らしがたい、畏れすら感じる瞳だ。
自らの緊張を解きほぐすように「あの野郎は封域で殺しまくった功績で、中将にまで昇進したんだぜ」と喉まで出かかった言葉を飲み込む。
今言うにはあまりにも笑えなさ過ぎる情報だ。
「ぶっ殺してやろうと思ってたんだ」
代わりに言い訳のように言い放つ。仲良くしていたわけではないですよ、と。俺は仲間を殺した奴らに正しく復讐しようと思っていたのですよ、と。
ただのいい訳だ。こんなものまで渡されて、傍から見れば仲良くしているように見えて当然だ。
「でも、俺の力はあいつには通用しなかった」
「エンピレオを脱出するくらいの人間だから、強いだろうね。勝てる人がいるかどうかすらあやしい」
「絶対殺してやると思って何度か試したけど、だめだった」
「……普通、自分の必殺技が効かなかったら、あきらめるよね。何回も試さないよね。リスク、あるわけだし」
エスタが考え込むように顎に手を当てた。困ったような、呆れたような、見下したような、諦めたような、母親みたいな優しい表情で。
「体調的なものもあるかと思ってよ。あいつの調子が悪いときは利くかなって、飲み物に下剤仕込んだり色々試したりしたんだけど、下剤は入れたのばれて逆に俺が全部それ飲まされた」
「……」
「酷い目にあった」
「そういうことができる立場にいたんだ」
「色々あって一緒に……暮らしてた」
「君を牢獄送りにしたのは、そのハガラズではないの?」
「違う。俺が牢獄送りになることは、あいつも予想していなかったはず」
「君も、彼を必要としていた」
「どうだろう。今となってはよくわからない」
「……何があったのかは、今はこれ以上聞かないことにする」
エスタが溢れ出しそうになる怒りの感情を握りつぶすように、奥歯をかみ締めるのが分かった。
「これ以上聞いていたら、君が手にしているものを、灰も残らないくらい燃やし尽くさなくては気がすまなくなる」
おそらくその怒りの対象は俺だ。ハガラズに対してではない。
敵国の人間からどうしてこんなものを渡されたのか。そしてどんな理由があれ、どうして後生大事に持っているのか。俺のしていることは、してきたことは、彼女にとって裏切り行為に等しい。




