『アリデード』14 悲しみばかりくりかえし
「入水自殺?」
気配もなしに突然背後から聞こえた声に、心臓がむぎゅうと収縮した。別に悪いことをしようとしていたわけでもないのに、全身が小さく跳ねて、驚きとわずかな恐怖が生み出した電流が神経を伝っていき、全身に痛みが走る。波のせいで聞こえなかっただけかもしれないが、ここは鳴き砂だというのに、近づいてくる足音さえ気づかなかった。
言葉の意味とは裏腹にやけに明るい声だった。聞き慣れた声に安心して振り返えると、そこには赤銅色の髪を冷たい海風に揺らしながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる影があった。
エスタ。声には出さずに唇だけを動かして名前を呼んだ。彼女(かのじょ、というには語弊があるが)が小さく微笑んだ。
「海はまだ開いていないよ」
「馬鹿言え。誰が入水自殺だ。ただのメランコリーだ」
「死にたがり」
冗談をあっさり流されて発せられた言葉に、また心臓が大きく脈打った。
俺は一度として「死にたい」だなんて言葉を、空気に触れさせたことはない。冗談ではあるかもしれないが、本心ではもちろんない。
だがエスタの言葉で、実のところ心の奥ではいつもそうしたがっているのかもしれない、と気づかされた。俺は消えたがっているのかもしれない。死にたいのかもしれない。その衝動にいつも蓋をして、内側から叩く音すらも聞かない振りをして、耳をふさいで過ごしているだけかもしれない。
……いや。やっぱりそれはない。その想いはもう捨てた。世界を呪うほど悲しんでも絶望に沈んでも殺したいほど憎しみきっても、俺にあいつが殺せないとわかったときから、死ぬことは諦めた。俺は死にたがってはいない。死にたがってなんていないんだ。
「死にたがり」
俺の思いを読みとれる訳もなく、無表情に俺を指さして、エスタが再びそう言った。俺は動揺を悟られまいとして、わざと大きな声を出した。
「死にたがってなんかねぇよ」
「嘘」
即座に否定されて少し苛立った。どうして違うと言っているのを無視して、勝手に決めてかかるんだ。
「今まで俺のことを死にたがりだなんて言ったのは、俺を牢獄にぶち込んだアスガルドの軍人だけだ」
いっそ殺して欲しいと願うほどの責め苦を受けたのだと意地悪く笑うと、エスタはわずかに眉をひそめた。彼女の機嫌を損ねることで復讐をはかろうとしている自分の浅ましさに、俺はまた少しだけ笑った。
「どうしてここにいるんだ。屋久島行ってたんだろ」
「少し、ね。君は何をしていたの?」
「天体観測」
「望遠鏡も持たずにね」
薄手の上着一枚しか羽織っていない俺の姿を、エスタがため息交じりにまじまじと見る。
「望遠鏡がなくたって天体観測は出来る。眺めてりゃいいだけなんだから」
「それは観測じゃなくて見学でしょう」
「んじゃあ言い換えるわ。星空見学してた」
「そう」
エスタが頷いた。なにか言いたげな顔をしているが、俺はふいに面倒臭くなってこれ以上話すのをやめた。一人になりたくて出てきたのに、話していると疲れるだけだ。
波の音が騒がしいおかげで沈黙が苦にならない。独りじゃなければ、引き波の音もそれほど怖くはない。
後ろ向きに引いていったはずの海水を再び引き連れて押し寄せ、一度つっと呼吸を止めてから、濡れた砂浜に突き刺さる波が、弧を描いた斬首台の刃のようだ。浜辺に突き刺さる刃の音は、上空から降ってきた自殺志願者を受け入れる地面の音に似ているようで。潔い。俺は一人頷いた。
「地球人の寿命は、短い。短すぎる」
なにか言いたげに突っ立ったままでいたエスタが、海風に乱された髪を整えながら呟いた。引き波と同時に呟かれた言葉が、黒い海の中に引き込まれて行く。
何故俺が夜に家を飛び出してここにいるのか、こいつはわかっているのだろう。
俺はエスタに気づかれないように、彼女の横顔を盗み見た。
その瞳はまっすぐに水平線の向こうを見つめている。風が吹くと、赤銅色した前髪の間から、銀色の目が見え隠れする。おそらく空と海の境界を探しているのだろう。
彼女がこちらを向いた。俺は慌てて目を逸らす。そんな挙動不審の行動に対しても、エスタはさして気にもとめていないかのように、黙って俺の顔を見つめ続けた。そして、ふと落とした視線の先にあるものに気が付いたのか、瞬きを数回して俺の片手を指差した。
「それはなに」
「アストロラーベ」
「この星の」
「いいや」
「クラリヲンの」
「いいや」
「地極の」
「いいや」
これは俺の星のものでも、お前の星のものでもない。
「じゃあ」
「これは、天獄エンピレオの」




