『ルーラ』12 見えないものは見えない
夜は怖い。
目にはなにも映らなくなるのに、感覚だけが鋭敏に研ぎ澄まされていくから。細く鋭利な月。鼓膜を圧迫する静寂。喉に詰まる空気。集中を邪魔する心音。皮膚に突き刺さる殺気。すぐにナイフを振るえるよう、神経の末端まで意識を集中させて暗闇に潜む。だが、軍人でもなければ、特別戦闘訓練を受けたわけでもない一般人の俺は、そんな緊張状態など長く続けられる訳がない。
すぐに睡魔が張りつめた神経をなでるように、柔らかくのしかかってくる。それに負けぬようきつくナイフを握りしめて、まぶたをこじ開ける。風に揺れる草に震え、孤独に絶望を感じ、死の恐怖に叫び出しそうになる。
どこかで誰かの悲鳴が聞こえた。あれはきっといつかの俺の声だ。堕とされた地獄。引きちぎられた臓物。断末魔の絶叫。断絶する生命。もう駄目だ。限界だ。狂ってしまった方が楽だ。そう思う心をなだめようと手を額に当てようとすると、爪先が先日できたばかりの傷に触れた。幸い浅かったのですでに塞がってはいるが、闇の中で切りつけられた時の傷だ。冷たい指先から傷口にちりりと微弱な電流が走る。
死んでいてもおかしくなかった。いや、あのとき死んでいれば楽だったのに。俺はいつまでこんなことを続けていくんだ。
そう思ったらぷつりと心の中で何かが途切れた。俺はおもむろに立ち上がり、意味のない叫び声をあげながら暗闇の中をどこへともなく走り出した。
死にたくない死にたい死にたくない死にたい怖い怖いもう嫌だ泣きたい死にたい死にたくないのに死にたいああああああぁ、自分の叫び声に気が狂う直前で、誰かが走る俺の腕を強くつかんで引き倒した。
殺される。終わる。終わった。終わりだ。もう、いいや。
頭はやけに冷静で、それでも叫び声は止まらなかった。俺を引き倒したその手が、今度は俺の口を押さえた。大きな手のひらからも叫び声はくぐもって漏れ、さらに押さえつけようとその手は顔が変形するのではないかと言うほど、強く掴んで口を塞いだ。
「黙れ。殺されたいか」
耳元で決して大きくはないが怒気を含んだ声が聞こえた。息苦しさに涙が溢れ、押さえつける指の間からひゅうと空気が漏れた。土の上で仰向けになりながら相手を見上げる。声はとげとげしかったが、表情までは暗いせいでよくわからなかった。特大のため息とともに、ゆっくりと手が離れていく。
「てめぇふざけんな」
「ごめん」
「死にてぇのかこのチクショウが」
「死にたくない」
「ならバカな真似すんじゃねぇバカヤロウ。ハガラズに繋がってる奴じゃなかったら、今頃ぶっ殺してんぞ。今度やったら殺す」
「そっか。殺すのか」
「ああ!? 殺されてぇのか!?」
「いや、殺されたくない」
俺の首に片手を回して、男が馬乗りになった。固くしまった土で背中が冷たいのと反対に、男の手のひらは焼けるように熱い。多い被さる男をまっすぐ見上げると、そいつは少しだけ悲しそうな顔をして手に力を込めた。喉を圧迫されて酸欠で脳味噌が爆発しそうになる。なんだ、やっぱり殺すんじゃないか。こいつに殺されるのならまだマシかな。
男がふいに手を離した。瞬間なだれ込んできた空気にむせかえり激しくせき込んだ。そんな俺の上から退いて立ち上がり、男が膝に付いた土を払う。大男と言っていいだろう、男の背は高く、上半身は裸で暗闇でも分かるほどに引き締まって立派な筋肉がついていた。
「さっきひとり殺ってきた」
最後に手を叩いて土を払い、何事もなかったかのように男が言った。
「そっか。最近俺たちの近くをうろついてたやつ?」
俺も背中に付いた土を払いながら体を起こす。先ほど喉を圧迫されたせいか、数回咳をしてみても声が掠れた。
「ああ。お前、肉は食えなかったよな」
「肉っていっても、お前が言うのは人肉だろ。食べられるわけがねぇよ」
「贅沢だな、てめぇは。エンピレオには人肉しかねぇだろうが」
暗闇の中で光る夕日のような橙色の瞳で男が俺を睨みつけた。だがその声には意外にも怒りといった感情は見受けられなかった。
「俺、もともと肉は苦手なんだ」
「魚は食ってたじゃねぇか」
「うん。魚なら。今晩も食べたし」
「なら後で腕一本斬って持って来るから、それをぶつ切りにして湖に蒔いて魚の餌にでもしておけ。数日後には肥えた魚が食えるだろ。俺はそうやって魚を育ててきた。あ、後で釣餌に使う分の肉は少しとっておけよ」
それを聞いて瞬時に俺の胃は意志とは無関係に、夕飯に食べた内容物を盛大に吐き出した。
懐かしい、と思うにはまだ新しい出来事だ。
しばし砂浜でぼんやりとしたまま暗い空を見る。今日は夢にしろ記憶にしろ、昔のことを思い出してばかりだ。さすがに夜は寒い。冬はもうとっくに通り過ぎたはずなのに、まだ春を否定して過ぎゆく冬にしがみついている風がいる。
空には地球の星座。もうここは天極エンピレオじゃない。地球だ。逃れてきた地球。もう怖がる必要はない。夜は寝るものだ。しかし、目をつむると瞼の裏はエンピレオの夜のように暗く、少しだけ震えた。
俺はいつまで夜におびえているのだろう。




