『ルーラ』11 ほうき星は見当たらない
ポケットに手を入れ、折りたたみナイフのラインを指でなぞりながら夜道を歩く。冷たい金属が徐々に温かくなっていく。そのぬるさが今は気持悪い。右手にナイフ、左手に拳銃。そして首からはアストロラーベ。通常使われているサイズよりも小さい懐中時計程度の大きさの金属の塊。観賞用かと思うほどに文字盤や小さな部品は緻密で美しく精巧なのに、それでいて正確で実用性がある。
天体観測なんて言ったが、目的地なんてどこにもない。
それでも、できるだけ大きく空の開けたところを探しながら、狭苦しい住宅地を抜け、足が向かうままに歩く。そうしているうちに、まわりにある人工的な光と音が徐々に減ってきた。狭かった空が開け、月明かりが青さを増し、それに比例するように海鳴りの音と海鳥の声が聞こえてくる。随分と夜更かしの鳥がいるものだ。その声に誘われてたどり着いた先は季節はずれの海だった。
耳を澄まし海の匂いを嗅ぐ。ただでさえ冷たい空気なのに、潮風がそれをさらに冷たくする。空は暗黒で海はどす黒い。世界の向こうで海の黒と空の黒が溶け合っている。ここに飛び込んでいけたら、どれだけ楽になれるだろう。だがきっと、地球の海は俺を受け入れてはくれない。
満月が空に浮かぶ。月の光が強すぎてあまりよく見えないが、星も瞬いてはいる。夜を隠してしまうほどの星々。こういう夜は恐ろしい。まぶしすぎて、方向感覚が失われる。
服の中に隠すように首から提げてあったアストロラーベを取り出すと、月明かりに照らされたそれが鎖の先で鈍色に光った。体温に温まっていた金属は、夜風に晒されてあっという間に本来の冷たさを取り戻す。それを両手で握り締めて目を瞑り、まぶたの裏にある星々を仰ぎ見た。
苛立ち。焦り。不安。恐れ。誰にでもない。自分に向けた感情だ。この感情はどこからきた。どうしてわき起こる。わからない。
教えてくれ。
「ナユタ」
その名を呼ぶ。久々口にしていなかったからか、いや、久々口にしていないからこそか、自分の名前を呼んだかのような得体のしれない焦燥感と違和感がある。
「ナユタ」
もう一度、噛みしめるように、囁くように、言い聞かせるように、その名を口にする。そして、絶望する。
俺はこの音を欲してはいなかった。きまぐれに落ち葉を攫う空っ風のように、その名前は俺の心になんの感傷も起こさせずに、すらりと空気に溶けて消えた。後に残ったのは、罪悪感だけ。
鳩尾深くに巣食った虚無に戸惑い空を見上げると、夜空は重たそうに黒く張り詰め、虫食い穴のようにその身に星星を張り付けて、海鳥の眠りを見守っていた。
ナユタ。もう一度だけ、その言葉を空気に曝す。だがやはりそれは共に吐き出された二酸化炭素と寄り添い空気に拡散して消えた。
ああ。求めているものはこの音ではない。縋りたいのはこの人ではない。俺が今、逢いたいのは、
「コウガ」
本人には聞こえるはずがないと分かっているからこそ、その名を口にする。一度口にしただけで、際限のない嫌悪感と苦しみが俺の心も体も押しつぶそうとする。
コウガ。眼を閉じ心の中で再び呟く。まるで滅びの呪文みたいに。
体を通り抜けて消えて行くかと思われた音を持たない心の言葉は、俺のみぞおちの奥底で、ぐるぐると回り続けた。
求めていたのはこの名前だったのか。縋りたいのは、逢いたいのは。その真実に、まともな人間ならば感じる絶望を、俺はわずかながらの歓喜を持って受け入れていた。その事実すら絶望であるはずなのに。俺もたいがい狂っている。希望と絶望の境が曖昧だ。悲しみに笑いそうになる。
自分の馬鹿さに込みあげた嘲笑を喉で押し殺すと、ククッと笑いの死骸が口からこぼれ出た。
再び目を開けると、見慣れない星空が俺を見下ろしていた。聞きなれない潮騒。干からびた貝の臭い。波に砕けた魚の死骸。地球の海は俺にとっての母なる海とはなりえないのだろう。
浜辺で膝を抱えて波の音を聞いた。夜の海は音も姿も恐ろしい。引き波はどこか深い所までに引きずり込むような音で恐怖心をかき立てる。波の音を聞いているうちに、エンピレオでのことを思い出した。




