4 あの時君は尻だった
遠くから風に乗って、午後五時を知らせる音楽が聞こえてきた。子供たちにそろそろ家に帰る時間だということを知らせるために、町の季節保育所が流している音楽だ。レコードのようなノイズの入った音源が、どこか哀愁を感じさせる。
曲名は『遠き山に日は落ちて』。ドボルザークの交響曲第九番『新世界より』という曲の一部に歌詞をつけたものだ。
しかし、実際流れてくる音楽に歌詞はついておらず旋律のみなので、『遠き山に日は落ちて』ではなく元ネタの『新世界より』とするのが正しいと思うのだが、季節保育所は『遠き山に日は落ちて』だと言って譲らない。
そして、そんな夕暮れの音楽を町の人々は『遠き山に日は落ちて』ではなく、『愛の鐘』と呼んでいるが、どうしてそう呼ばれるようになったかまでは、俺は知らない。
音楽で五時だとはわかっていながら、改めて顔を上げて時計を確認する。『愛の鐘』を疑うまでもなく、署の時計は確かに五時を指し示していた。
「今日は俺、これで上がりますね」
「お疲れさん。また明日」
「失礼します」
シフト交代で先ほど署に姿を現した先輩に挨拶をして、早々と帰宅の途につく。
今日は春の割に暑くて、人体のおよそ三十パーセントの水分が失われた気がする。おばあさんと一緒に午前中に補給したほうじ茶などは、あっという間に排出されてしまった。
帰ってビールで水分補給しなければ干からびてしまう。あたりはもう夕闇だ。俺は海の向こうに沈んでいく夕日を眺めながら、足を速めた。
署を出て五分。
先ほどから、誰かにつけられている気がする。
数日前に捕まえた万引き男が復讐しにきたか? それとも例のドッペルゲンガーか? まさかな。
しらじらしく口笛を吹きながら、背中隙だらけの雰囲気を醸し出しつつ、だるまさんが転んだ的に、いきなり後ろを振り向いてみた。が、誰もいない。けれども気配は感じる。
大声でも出して威嚇してみるか。でもこれ、たまたま道が一緒だった近所のばあちゃんとかが近くにいたら、ものすごく恥ずかしいんだよな。誰もいなかったらいなかったで、誰にも見られていないはずなのに、なぜか気恥ずかしいし。
少し前の話だが、俺の威嚇の声に驚いたじいちゃんが、それよりも数倍でかい叫び声をあげて、勢いで入れ歯を飛ばしたことがあった。その入れ歯が唾液の織りなす虹の橋を美しい放物線を描いて渡り、道ばたのお地蔵様の足下に見事なテレマークで着陸したものだから、神様のあまりのイタズラに、逆に俺が腰を抜かしたものだった。
あの時はいきなり大きな声を出すなって、しこたま怒られた。砂利の上に落ちた入れ歯を何事もなかったように、再び装着するじいちゃんに対し、俺は驚いていいやら、止めていいやら、わけがわからなくなって、ひたすら謝るしかなかった。
そんな切ない昔話はいいとして、用心するにこしたことはないな。
俺は意を決し、空気を肺いっぱいに吸い込んで、大声を張り上げた。
「誰だッ!」
俺が叫びだした途端、突然真横の草むらから、草と何かの物体がぶつかり合うような乾いた音がして、それと同時に黒い影が目にも止まらぬ速さで、空めがけて飛び出してきた。
「ぎゃあああ!」
俺はその音と影に驚き、思わず十五センチほど垂直ジャンプをすると、着地と同時に砂利に足を取られ、盛大に尻モチをついた。
「いってぇ!」
震度三ほど世界が揺れ、俺の尻には即席蒙古斑が出来上がった。
すかさず黒い物体を目で追い、空を見上げると、俺の頭上空高く、一羽の鳥がビヨビヨと鳴きながら、ゆらゆらと夕闇の空を旋回していった。
なんだ、ヒバリか、脅かすな。いや、驚かしてごめん。
ずきずきと痛む尻をさすりながら、誰も見ていないよな、と後ろを振り返った俺の目に入ってきたのは、誰かの尻だった。それはおよそ五メートルほど離れたところでこちらに向いており、無礼にも天に向かって股をおっぴろげている。
つまり、俺の後方五メートルほどのところで、見事に人がひっくり返っているのだ。
燃え尽きた灰のような色をしている月が浮かぶ薄明るい空。風にゆれる柳の木の下。ぼんやり浮かぶ尻。何ともいえない光景だ。
「あっ。すみません」
とりあえず尻に向かって謝罪の言葉を放った。
ひっくり返っていた尻は、びくびく痙攣した後ややあってから両の脚を大地に下ろし、背中をさすりながら、ゆるゆると上体を持ち上げた。
「バカヤロウ! 突然でっけぇ声出すな!」
フードを被ったそいつが、突然怒りだした。おそらく、声からしてまだ若い男だろう。
俺は地べたに座り込んだまま、もう一度すみませんと頭を下げる。それでも怒りが静まらないのか、そいつも座り込んだまま、まだぶんぶんと怒っている。
俺よりも若干高い声ではあるが、声の質がなんとなく俺と似ている気がする。
ふと、フードを被った姿に、昼間聞いた話を思い出し、背筋がすっと寒くなった。尻をさすりながら男がゆっくりと立ち上がる。
柳の枝が俺に危険を知らせるように、ざわざわと騒ぐ。水平線をオレンジ色の光の筋で縁取りながら、夕日が完全に海の向こうに沈みこむ。それを合図に辺りがほの暗い闇に包まれる。
これ以上奴に近づく勇気はなかったが、座ったままでもいられない。俺は今にも逃げ出しそうな足を叱咤して、その場に立ち上がった。
奴は柳の木の下で闇に溶け込んだ幽霊のように、まっすぐとこちらを見据えて立っている。ねっとした潮風が頬を撫で、それが見えないなにかに撫でられたような錯覚を覚えて、ぐもぐもと恐怖心が生まれてきた。
深めに被ったフードから覗くやや下がり気味の目。口角の上がった口元。下り坂の下にいる俺を見下すように坂の上に立つそいつはまさに俺。
ドッペルゲンガーだ。