『ティンパン』 無力
暗闇は怖い。
近づいてくる陰や足音すらも、闇に飲み込まれ拡散されて夢と区別がつかなくなるから。夜の底は深く、いつまで経っても光を映さない眼に感覚が麻痺していく。
だから夜は嫌いだ。息を殺してじっとしていても、恐怖はあらゆる隙間から服の中に入り込んできて、丸裸になった体を覆い尽くすから。
硬い床、冷たい空気、狂った聴覚、痛む肢体、響く靴音、血の臭い。明けても覚めても絶望が襲う。隙間から射し込むわずかな日光でさえ、深淵に突き落とすための前振りでしかないと、いつか見た映画に似た状況を思い出し笑う。
逃げられないと分かっていても全力で抗う。そのたびに殴られ、蹴られ、締め上げられ、これ以上抵抗できなくなる程の暴力を受ける。ようやく終わったかと安心したのもつかの間、再び聞こえてきた足音に、恐怖と痛みと疲労で動けなくなった体はたたき起こされ、再び容赦のない暴力が加えられる。連日泣き叫んでいたせいで声が枯れ、やめろと抵抗するどころか、許してくれと懇願する声すら出ない。それでも涙だけは意志とは無関係に流れ続ける。
強引に引き倒されると手錠が手首に食い込んで血が滲んだ。だが、体の痛みなんてたいしたことはない。精神的な痛みに比べれば。
一枚羽織っただけの、ほぼ何も着ていないも同然の体に、床石の冷たさが凍みる。横腹を蹴り上げられて芋虫のように丸くなると、また別の人間が容赦なく反対のわき腹を蹴る。仰向けになった体を数人の男に押さえつけられた。朦朧とした意識の中で見た天井は、自分とは正反対に真白でひとつの汚れすらなかった。
歯を食いしばり唇を噛んで耐えるも、口の端から喘ぎに似た空気が漏れる。それが奴らを喜ばせて、また必要以上の責め苦を受けた。痛みが麻痺してなにも感じられなくなり、意識が遠のく寸でのところで、頬を殴られる。気を失うことすら許されない状況で、肉体も精神も次第に追いつめられていく。
「なるほどこいつ、イチ、だったのか。通りで……」
俺の頭を半長靴の先で小突いて、男がははあと唸った。
「ああ、お前は今回が初めてだったのか。そう一なる人間だよ。やりがいあるだろ」
「しかし惨めだな。何百人もの兵士を殺した奴とは思えない」
「こんなガキみたいなちっせぇ体で、よくもまあ散々やってくれたもんだよ」
「まだまだ報復したりないとは思うが、こんなこと毎日続けてたら、こいつ流石にそろそろ死ぬんじゃないか」
「それならそれでいいんじゃねぇの。ストレス解消と楽しみはなくなるけどな」
「戦地で殺すのなら許されるけど、さすがに捕虜として連れてきて殺すのはまずいだろ」
「確かになぁ。でもこいつの特殊能力は野放しに出来ないしな。上はこいつをどうするつもりなんだろうな」
頭の近くで男達の話し声が聞こえる。もう抵抗する力すらないのに、床に体を縫い止めたまま、頭を押さえつけることをやめない。こいつらは数人がかりで執拗なまでに体の自由を奪う。ここが術力を奪い、特殊能力を無効化させる特殊な独房の中だというのに、だ。
結局のところ、こいつらは俺が怖いのだ。それを思うと自然と笑みがこぼれた。自分でもだらしのない笑みだったと思う。それに気がついた男が、俺の頭がイカレたと思ったのか、同様にだらしのないにやけ顔で満足げに笑った。
吐き気がした。気持ち悪い。ゲロ吐きそう。直視したくなくて目を閉じる。
「そういえば、ハガラズ少将にこいつの管理を任すとかいう噂、聞いたか」
目を閉じても耳までは閉じれらない。体の上にのしかかったままの男が、何故か楽しそうにそう言うのが聞こえた。
「まじかよ。初耳。なんでだ」
「捕虜への暴行ってのが上の耳に入ったらしくてさ。まあ、このことがなくても、ずっとここに縛り付けておくってわけにもいかないだろうしな。だからって、戦犯でしかも他国の最凶兵器を、この特殊独房から出すわけにはいかないだろ。出した途端暴れ出して俺らは皆殺しだ。軍でもこいつの処遇に困っていたわけだ。そこで、ハガラズ様の登場だよ」
ははあ、と男達が一様に頷いた。
「なるほど。ハガラズ様ならこいつの特殊能力だってねじ伏せられるだろう、と」
「管理というのは具体的にどうするんだろう」
「軍に入れて直属の部下にするとか?」
「そんなの他の奴らが黙っちゃいないだろ。至軸ニザヴェリルの戦犯を原動アスガルド軍人にするだなんて。それ以前に、こいつが従うわけない」
「じゃ、奴隷にするのかな」
「あの方の奴隷なら、ここにいるより悲惨な待遇だろうな」
「違いねぇ」
男たちの会話の中に幾度となく登場するハガラズという名前。声にならない声でその名前を反芻する。聞いたことはある気がする。その名前は脳味噌の皺の端っこに住み着いていた。
だがよくわからない。誰なんだそいつは。朦朧とする中、男達の話を自分のことではない心地で聞くともなしに聞く。
「こいつを捕まえたのだって、ハガラズ少将だろ」
その言葉に体が跳ね上がった。
「一体どうやって銀眼人種の特殊能力を封じ込められたんだろうな」
「結局のところ、魂への干渉の特殊能力は、原動アスガルド最強のハガラズ少将しか手に負えないってことか」
ハガラズ。俺を捕まえた男。あいつのことか。
「おい、どうした。震えてるぞ」
怒りとも怖れともわからない感情に体が震える。そのことに気がついた男が、俺を見下ろして楽しげに笑った。
「なにに反応したんだ」
「ハガラズ様の奴隷って聞いて怖くて震えてんじゃねぇの」
「ははは。殺されないよう頑張って機嫌とれよ」
「喜べよ。あの方は嗜虐的だから俺ら以上に可愛がって貰えるって」
男達が一斉に下品な笑い声をたてる。
ハガラズ。あいつの名前がハガラズ……殺してやる。
冷たく冷え切った体が熱くなった。熱さに突き動かされたためか、忘れていた怒りを思い出し、ありったけの術力を解放して特殊能力を発動させた。銀色に光った瞳を見た男達が瞬時に青ざめ、俺の上にいた男が動きを止めた。だが、それもすぐにせせらわらいに変わった。
「学習しねぇな。ここで特殊能力は使えねぇよ」
脳漿が飛び散るのではないかと錯覚するほど重たい拳が側頭に食い込んだ。あまりの痛みに発動の集中が途切れる。銀色に発光していた瞳の光もすぐに絶えた。術力が散り散りになってどこかへ吸い込まれていくのが分かる。
駄目だ、やっぱりここで特殊能力の発動はできないのか。悔しさにまた涙が溢れ出してくる。
「ちくしょう。殺してやる……っ」
「やってみろよ。だがな、今のお前は無力だ。ただの喋るお人形さんだよ」
かすれた声で呪いの言葉を吐くも、男達はあざ笑うように、抵抗する気力も体力もなくなった体を、いっそう激しく蹂躙するだけだった。




