34 バクテリアになれない
「なぁエスタ」
「ん?」
俺の呼びかけにエスタが俺を見下ろした。俺はそよそよちゃんを肩に、膝の上におまるを乗せて、彼女を見上げた。
「俺はクロイツを殺そうとしたことなかったか」
不思議な光景を見たせいか、あれほどまでに言葉にすることをためらった疑問が、するりと口から滑り出してきた。
一瞬、エスタが息をとめたのがわかった。俺の問いかけに答えずに、凍りついた顔で俺を見下ろしている。
しかし、そんなことは聞くまでもなく真実だと分かっていた。俺はクロイツを殺そうとしたのだと心の奥底で自分が囁いていた。
何よりも、この手の感触が覚えている。無残に殺されるくらいなら、俺が殺してしまおう。苦しんで死ぬことと楽に死ぬこと。同じ死ぬのなら、楽に死にたいはず。たとえ、どのような死に方であっても。そう、思った。
だが、今思えば異常だ。病気だ。どうしてそんな考えにたどり着いたんだ。今の俺では考えられない。過去の自分が恐ろしい。だが自分自身理解できなくとも、まぎれもなくあれは俺の一面なのだ。それが確かな記憶なのだと確信している俺がいるのだから。
きっとこれは、クロイツだって忘れたい記憶のはず。なにせ弟に殺されかけたんだ。そのことで一番傷ついたのはクロイツだろう。俺じゃない。
なのに。
「なのに、どうしてクロイツは俺を助けてくれるんだ。どうしてああやって笑っていられるんだ」
思わず疑問が声になって零れ落ちた。立ち上がっていたエスタが、再び腰を下ろして空を見上げた。
「未遂で終わったよ。近くにいた仲間が君を殴って気絶させた。だから、クロイツはああやって今でも生きてる」
少し手荒なことをしてしまったと笑った彼女につられて、ふいに笑いそうになってしまったが、俺はもっとひどいことをしようとしていたんだ。笑える状況じゃない。下を向いて思わず緩んだ口元を結び直した。
「あの時君は、自分を失っていた。そんな状態でやったことだから、クロイツはあまり重くは、受け止めてなかったよ。むしろ怖いって言ってた。記憶の戻った時が。オマタ、それで苦しむかもしれないって。『あいつは力は強いが心が弱いから』って」
俺はきつく歯を噛みしめた。ぎり、という不快な音と共に脳みそに微弱な振動が走る。
馬鹿だ。やはりあいつは大馬鹿だ。自分の心配しろよ。命とられかけたんだぞ。
「ね」
エスタが夜空に消えた光の残像を目で追いながら、ふっと息を吐いた。笑っているようでもあったし、少しだけ哀しんでいるようでもあった。
「大切な兄弟だよ。助け合って笑い合うのに理由、いる? ヒトの心は複雑だって言うけどね、クロイツのは単純だから」
かすかなオレンジ色の光に照らされたクロイツの銀色の髪が風に揺れている。暗闇の中にたたずむ細い体。頼りなげな肩、か細い腕、折れそうな足。
ふと漠然とした不安が胸をよぎる。何かがまたどこかに行ってしまいそうだと、また失ってしまいそうだと。俺は『何』を『また』失うのを恐れているのだろう。それは目の前の兄弟なのか、過去の日々なのか、失った本来の自分自身なのか。よくわからない。
「大切だから、守るの。愛しているから、助けたいの」
エスタが俺の肩を優しく叩いた。誰かに触れられている安心感に俺はふと息をつく。そよそよちゃんが俺の頬に顔を寄せてきた。くすぐったくて温かい。膝に乗せたおまるの体温がじんわりと体の芯まで伝って来る。先程の不安が霧散して、鳩尾辺りがすっと軽くなった。
俺は馬鹿だ。大馬鹿だ。何もかも忘れて、わけのわからない行動をするあいつを憎んだ瞬間さえあった。そして、愛した人さえも忘れた。名前を聞いても懐かしさすら思い出せない。
「シヲンは苦しんで死んでいったのか」
「最期に、君の幸せを願って生き抜いた」
「少し、泣いていいか」
「沢山、泣いていいよ」
俺は泣いた。久々に泣いた。どうしようもないほど泣いて、誰のためか、何のための涙なのか。分からなくなるくらい号泣した。慰めようと伸びてきたエスタの手を、頭を横に振ることで拒否し、顔を覆う両の手から溢れ出た涙で足元の草をぬらしても、俺の慟哭は止まらなかった。
そんな俺の涙を、土の中のバクテリアが隠すように吸い込んでいった。




