31 俺の大切な人の話をしているのだが、俺はその人を知らない
俺はそんなことも忘れて今まで生きてきたのか。あいつが生きるか死ぬかの戦場をくぐり抜けているとき、俺は平和な日本で争いを知らずに笑っていたんだ。あいつが血を流して傷ついているとき、俺は不幸を知らずにお茶を飲んでいたんだ。何もかも忘れて。
それは確かに仕方のないことかもしれない。けれども、あっさりと全てを忘れてしまった自分が許せない。
「クロイツもその戦争で捕虜になって、色々……本当に色々あって、牢獄に入れられてそこから出てきたんだけど、その時きっとアスガルドに君のことも調べられたのだと思う。クロイツ、君が無事でいるか、一目でいいから見たいって。私も同じ気持ちだった。だから反対はしなかった。でも、結果として君まで見つかって、迷惑をかけてしまった」
少し困ったようにシオンが笑う。山を流れる風が夜の闇を少しずつ溶かして、俺たちの周りを通り過ぎていく。
おかしいだろ。俺のためなんかでそこまでするか。そこまですんなよ。そこまで想うなよ。俺はどうしたらいいんだよ。これからどういう顔をしてクロイツの顔を見たらいいんだ。
あいつの頼りない後ろ姿を見ていると、理不尽にも怒鳴りつけたい衝動に駆られた。
「自分独りで逃げることに、納得するはずがないってわかってたから、君の了承を得ずに、君が寝ている隙に、全てがとり行われたの」
何故かおかしそうにシオンが笑った。勝手に、か。そうだよな。自分一人で逃げ出そうなんてこと、どう考えても納得するはずがない。
「あのね」
「うん?」
「私、本当はシオンじゃない」
えっと、そっか、と十分な間を持って俺は頷いた。確かに、なんとなくそうは思っていたが、そのタイミングに少し驚いて一瞬言葉を失った。
おそらく、錯乱状態で見た記憶の中の女の子が本当のシオンなのだろう。俺がひたすら「シヲン」と名前を呼んでいた女の子。俺の腕の中で硬く冷たくなっていた目のない女の子。もう顔も思い出せない。
「ごめんなさい。クロイツには、やめておけって、言われたのだけれど」
「どうして嘘をついていたんだ」
彼女は無表情のまま、ちぎられた草を見つめている。責めるつもりはなかったが、声に出した言葉は言った俺も驚くくらいに、冷ややかに聞こえた。おそらく心の奥底では、けし粒ほどには彼女を責める気持ちがあるのだろう。俺は騙されていたことに変わりはないのだから。しかも、死んだ人の名を語っていたのだ。
「シヲンって、誰なんだ」
質問を変えてみた。出来るだけ柔らかく聞こえるように口調に注意しながら。すると彼女はその機械の様な表情を崩さずに呟いた。
「君の大切な人。そして私の大切な友人。今はもういない」
「殺された、のか?」
「うん。銀眼人種だったから」
「目をえぐりとられて?」
彼女は何かを封じ込めるようにゆっくりと顔を地面に向けた。その表情からは感情は読み取れない。
俺の大切な人。恋人、ということなのだろう。だが、思い出せない。思い出せるのは、錯乱状態に感じた時の体の冷たさと、眼窩の暗さだけ。
「銀眼人種は例外なく、殺されて目を抉り取られた。彼らの力は目に宿るのだと言われていたから」
「なんて……」残酷なんだ。目眩がして俺は額に手を当てた。
異常だ。ひど過ぎる。それはただの戦場じゃない。それは人がしていい行為じゃない。彼女たちはそんな悲惨なところで今まで生き抜いてきたのか。
「シヲンは生きているうちに目を……私の目の前で……。私は何も出来なかった。……なにも」
奥歯を噛みしめる彼女の唇から、ぎりと音が漏れた。遠くの物語を聞いているようで、かけていい言葉が見つからない。俺に関係のある話だという実感がない。
「あのとき私はどうすればよかった? その場から逃げることもできなかった。ただ彼女が……」
「シオン」
両手で顔を覆い、取り乱しかけたシオンの肩に手をおいて、嘘ではあるが名前を呼ぶと、彼女はびくりと体を震わせて、ゆるゆると顔を上げた。
「ごめんなさい」
「どうして謝るの」
シオンが唇を噛んで首を振った。俺は彼女の肩から手を離して、空を見上げるような姿勢で、両手を地面につけて体を支えた。
「なんとか援軍が来て、敵を撃退出来たけれど、シヲンはもう手遅れだった。一足遅れて来た君がシヲンの亡骸見て……」
「腕を撃たれた時、多分そのときのことを思い出してた。俺は亡骸を抱えていた。その子をシヲンと呼んでいたんだ」
だが、その映像も今では蜃気楼を見たみたいに不確かだ。
恋人が殺されたということは、悲しむところなのだろうが、実感が涌かないというか、本当のシヲンという女の子がどういう子だったのかすら思い出せない。哀しいほどに哀しみを感じない。まるで全てが海の向こうの遠くの出来事のようだ。 自分の身に降りかかった話だとは思えない。
「アスガルドは領土奪還の為の封域侵攻だとは言っていたけれど、それにしては銀眼人種を殺しすぎた。他にもさまざまな憶測が飛び交ったけれど、どれもはっきりしない。ただ、銀眼人種の力を欲しがった人たちが、始めた戦争だって言う人もいた」
「力が欲しいだめだけに? というか殺しているのに力が欲しいってどういう……」
「目を、食べるの。そうすると銀眼人種の力が手に入る……という迷信」
たかがそんなことで、紛争を起こして罪のない人間を殺すのか。なんて馬鹿なことを。……いや、戦争の理由はいつも馬鹿なことだ。
俺は思わず歯ぎしりをしたが、そんなことをしたって、怒りは静まらない。もうどうにもならない。過ぎたことでしかも遠くの星の話だ。
太平洋戦争、ベトナム戦争、朝鮮戦争、イラク戦争。争いはいつだって俺の遠くの話だった。
とある国の迷信で、敵兵の肝臓を食べると死なないといって、殺した敵兵の肝臓を刺身のようにしてスライスし、数人で食べている写真を、いつかの戦争写真展で見たことがある。目玉だってそれと同じようなものかもしれない。
それにしても目玉、か。俺は牛のレバーはいただくが、目玉ならマグロですら躊躇するぞ。
「それもひとつの憶測でしかないけれど。それに、目を食べたからといって、誰もが力をものに出来るわけじゃない。できたとしても少しだけ。魂の声が聞けるようになったり。髪の毛や瞳の色が銀色に変化したり」
俺は反射的に彼女の瞳から目をそらした。月の光を照り返して美しく赤銅色に輝く髪、そこからのぞく宝石のような銀色の瞳。
彼女と目を合わせると、どうしてもその瞳に魅入ってしまう。視線が彼女の眼球に張り付いたかのように、目を逸らすことができない。
少し離れた所に立っているクロイツの髪や瞳はくすんだ灰色に戻っていた。だが力を使ったときには銀色に輝いた。彼女の瞳はまさにその色だ。
「私」
なんとなく、言いたいことが分かったよ。
「私」
言わなくても良いよ。
「シヲンの」
「何か理由があったんだろう。生き残るのに必死だったんだろう。誰も君を責められないから」
彼女の白い顔は、月明かりの下でより一層白く見える。そして珍しくその目には感情が宿っていた。深い悲しみを帯びた目だ。
「この瞳の色になってから、君に会うのは初めて。私、君に殴られること、覚悟してたのに」
「正直シヲンの記憶がないから、怒るにしてもどうにも感情が涌いてこないんだ」
彼女にはどう聞こえたかわからないが、本心だった。
「言い訳をするつもりはないけれど、シヲンに託されたの。最期にこの目を食べて変わりにオマタを守ってあげてって」
じゃあ君は被害者じゃないか。彼女は哀しみを宿した目を見られまいとするかのように、俺から顔を背けた。赤銅色の髪が光を弾いてさらさらと揺れる。
「後悔もしてないし、恥じてもいない。でも、自分のしたことは真実。それより何より、私は食べたかったのだと思う。あいつらの物になるくらいなら、奪ってでも私が食べるのだと、咄嗟にそう思った。そして躊躇いもなくそうした。シヲンに促されるままに」
彼女の苦悩を想像するには難くない。地獄の様な戦場にいたのだ。生き残るのに必死だった所で生き抜いてきたのだ。彼女の気持ちは痛いほどよくわかる。
それに、俺も同じようなことを思ったのだから。他人に殺されるくらいなら、俺が殺すのだと。
その時はそれがおかしいなんて露ほども思わなかった。最悪だらけの選択肢の中での最高の選択だった。そう信じていた。
「君がシヲンのことをすっぱり忘れていて、正直、哀しかったよりも腹が立った。軽々しくシオンだという私を、軽々しくシオンと呼ぶのにイライラした。逆に殴ってやろうと思った」
それは俺に腹を立てているのではなく、自分に腹を立てているんじゃないか。シヲンになんてなれないことを分かっていて、自分をシオンだという自分に戸惑いを感じていたんだろう。
不器用すぎる。クロイツも、この人も。
「君もイライラするんだ」
「多分表情に出ないだけで、人の数倍怒ったりしてる」
そして、彼女は無言で俺の鳩尾辺りを指差した。
「ペンダント、持ってない? 中央と四隅に石の入った、上下左右が同じ長さの、銀色のペンダント」
俺は思わず胸元を押さえた。小さく硬いものに触れて指先が異物感を訴える。持っている。ずっとつけている。小さなシルバーのクロス。
中央に青緑色の石、左右には緑の石、上下には青い石、暗闇の中星星と月の光をキラキラ反射する女物のペンダント。男の俺がするには違和感のあるペンダントだ。
俺は首からぶら下がっているペンダントを取り出した。喉元を生温かい感触が通る。手のひらに乗せると、俺の体温で温まったペンダントは、夜風に当てられて急速に冷えていった。
「もしかして、シヲンの形見、とか?」
彼女は黙って頷いた。
「もちろん、さ、どうして持っていたかなんて記憶、ないんだよ。気がついたらつけていたんだ。ずっと」
すっかり冷たくなったペンダントを強く握り締めると、まるでペンダントに心臓が張り付いたかのように、手のひらがどくどくと脈打った。俺の体温が再び十字架に吸収されていく。
「左右は男女、上下は天地、等しく同じ、全ては天を巡り一つに還る。すなわち輪廻、それは廻天」
彼女は空を見上げて優しく微笑んだ。おまるが俺の首と顎の間に頭をねじ込ませて甘える。温かい。夜は少し寒いはずなのに、どうしてか体が熱い。
俺は自分の記憶があやふやでありながら、あらゆることに疑問を持たずに生きてきたのか。いや、持つのが怖かったんだ。分からないことが多すぎて、きっと心の奥では、それが分かる日がこないだろうこともわかっていて、永遠に迷路の中から出られなくなる気がしていたんだ。
みじめだ。ただひたすらに疑問から逃げてきたんだ。何も知らずに。自分の情けなさに泣きたくなった。




