3 君は君を見たか
「そういや、ちょっと、おまわりさん。最近、不審者がうろついているようだけど」
まだ四月も始まったばかりだというのに、冬期間の鬱憤を晴らすかのように張り切った太陽によって、紫外線が目に見えそうな程強い日差しがサンサンと降り注ぐある日の午前。毎日交番に茶を飲みに来る斉藤さんちのおばあちゃんが、バリバリとせんべいをほおばりながら声を潜めた。あたりには誰もいないし、聞かれちゃまずい話ではないはずなのだが、斉藤さんちのおばあちゃんは、こうやってよく背中を丸めて声を潜めるのが癖だ。
「不審者?」
ピンク色したタオルハンカチで額の汗を拭きながら、俺はおばあちゃんの顔を見た。ばあちゃんはせんべいを飲み下すと、涼しげな顔で熱いお茶をズズズとすすった。
「その不審者、どうやらお巡りさんを捜し回っているようだって、みんな言ってるわ」
「へえ」
大学の同級生かな。可能性のある人の顔を思い浮かべながら、誰だろうと首を傾げていると、口の端に煎餅をつけた斉藤さんが、それに、と続けた。
「私もしっかり見たわけじゃないから、細かいところまではよくわからないけれど、その不審者、お巡りさんにそっくりだったって、みんな言っているわよ。アンタ、双子だったのかい?」
「いや。独りっ子ですよ」
多くのお年寄りがいう『みんな』とはだいたい二三人程度で、みんなではない。なので、俺に似ているという点も信憑性がない。
けれども、たとえ二三人程度でも、俺に似ているというのなら、ほんの少しは似ているのかもしれない。
人口の少ないこんな田舎に珍しいことだと思いながら、手にしたハンカチをもてあそぶと、甘ったるい柔軟剤の香りが鼻についた。最近の柔軟剤は匂いがきつすぎる。暑い日にはたまらなく嫌なにおいだ。今使っているダウニーがなくなったら、違う柔軟剤に変えよう。
熱いお茶をうまそうにすするおばあちゃんを横目で見ながら、俺はコップに半分ほど残っているほうじ茶を一気に飲み干した。だいぶぬるくなってはいたが、最後の一滴まで胃の中に流し込むと、気分も幾分さっぱりした。
ほうじ茶は喉の渇きとともに、鼻腔内の甘ったるい香りも流してくれたようだ。
しばらくの間、たわいのない話をしながら、二人でお茶をズズズとすすり、おばあちゃんは一人ばりばりとせんべいを頬張っていた。
さて、そろそろパトロールの時間だ。そろそろお開きにしたい。どうしようかとちらりと巡査長の顔を見たのだが、巡査長は首を振ってから、おばあちゃんに気づかれない程度の小さいため息をついた。話し相手になってやれ、ということだろう。これも警察官の勤めか。
俺は諦めて、一人話し続けるおばあちゃんの話を聞くともなしに聞いた。内容の八割は三日前にも聞いた話だったが、俺は心を無にして聞いた。仕事とは耐えることなのだ。
空を見上げると太陽が目に飛び込んできた。慌てて目を逸らすも、プラチナブルーの空にちかちかと太陽の残像が浮かぶ。
足下では、おばあちゃんが落としたせんべいのカスを食べに来た雀が、チュンチュンとおこぼれ万歳のステップを踏んでいる。農道をトラクターが走り、その音を敵の襲来と勘違いしたのか、ヒバリがピヨリロビロビロビロ、と鳴きながら、蝶々のようにへろへろと頼りなく空を飛んでいる。
ああいったヒバリのへろへろ飛びが、敵に巣の位置を見破られないための飛び方だということは、小さいころ母親に教わった。偽傷といって、わざと怪我をしているようにへろへろと飛び、子供たちのいる巣とは違うところに敵を誘導するのだという。
ヒバリの落とした影を目で追いながら、そんなたわいのないことを、何気なく思い出す。
「自分と似てる人、モッコリゲンガーだっけ? 気をつけてねぇ。自分と同じ顔をした人を見ちゃうと、死んでしまうっていうからねぇ」
いつの間にか先ほどの話題に戻っていたおばあちゃんが、空のせいべい袋を大切そうに折り畳みながら、あっはっはと笑った。
うん、少しも惜しくない。それを言うなら、モッコリゲンガーじゃなくて、ドッペルゲンガーだ。物事は正確に覚えておくべきだ。
俺は一人頷きながら、ポットから熱い茶をおばあちゃんと自分のコップに注いだ。
「じゃあもし出会ったとしたら、そいつも俺と一緒に死んじゃうってことですね」
「それもそうねぇ」
なぜだかやたら嬉しそうに、ばあちゃんがコップを持ったままの俺の肩をばしばしと叩く。
たった今注いだばかりの熱いほうじ茶がコップの中で波打ち、縁を飛び越えてあふれ出た薄茶色い液体が、俺の指を濡らした。
あっちっち。おーっと、あっはっは。
雲ひとつない青空に、盛大な笑い声がこだまする。
そんな俺たちの頭上を、ヒバリがへろへろ飛びをしながら、通り過ぎていった。