21 バクテリアになりたい
幸せな世界を願っていた。
森が人のせいで焼かれない世界。
サンゴが熱い海の中枯れない世界。
乾いた大地で虫が干からびない世界。
空を蹂躙する人間に鳥が撃ち落とされない世界。
そして、眼を開けて確認する。
ここは、ヒトとヒトとが殺しあっている世界。
ひたすらにヒトを愛するヒトは残酷だ。
ヒトを飢えで殺さないために、他の多くの生き物を殺す。
より多くの食料を得ようとして、多くの森を切り開く。
平和主義者が、戦場で全ての敵を殺して、自分の周りに平和を作るみたいに。
そして俺は、そんな世界に殺された君を想い、君を溶かし、喰らい、土に還すことのできるバクテリアをうらやましく思いながら、きみの天上を踏みしめる。
バクテリアになりたい。
バクテリアになって君を食べたい。
虫の死骸、渡り鳥の亡骸、ヒトの骨、君の血と肉、土に還った命たち。
君の眠る大地を踏みつけて、俺は生きている。
飛び交う銃弾。飛び散る鮮血。耳を塞いでも聞こえてくる悲鳴。倒れた死体を踏みつぶす戦車、銃を片手に戦地を走る兵士、そして吹き飛ぶ血の赤、戦火の赤。黒い煙と人や家が焼け焦げる臭い。
人々が次々と倒れていく。俺はそれをただ呆然と見ている。
人が死ぬ。ヒト同士が殺しあっている。殺し合うヒトたちは黒い髪だったり、金色の髪だったり、浅黒い肌をしていたり、白い肌をしていたり、様々だ。
見た目は違うが、殺されるヒトも殺すヒトもどれもヒトだ。
ヒト同士が殺し合うのなら仕方がないな、他の動物とは違って言葉は通じるはずなのに、理解し合えなかったのだから。そうなると子供のようにつかみ合って殴り合うしかないんだ。
仕方がない、仕方がない、いっそヒトなんて全部死んでしまえばいい。そうすればヒトのいない優しい世界になれる。
神様は一体なにをしているんだろう、この惨劇をただ傍観してるのか、こう言うときこそ人類に鉄槌を下すものではないのか。
洪水は起きないのか、嵐は起こらないのか、すべてを流してすべてを壊する自然による破壊は起こらないのか。一部のヒトの為にこんなにも世界が悲しんでいるのに、いや、一部のヒトなんて言い方はやめようか、どうせヒトはみんな愚かだ、人類総馬鹿だ、一部の愚かなヒトが滅んでもまた一部の愚かなヒトが生まれるのだ、そして世界を壊していく。
無に還ろうか。はじめからヒトの存在が欠乏している世界へ還ろうか。消してしまおうか、消してしまおうか、消してしまおう。死んでしまおう死んでしまおう。こんな世界もうやめてしまおう。
そう考えて俺は一人笑う。そんな俺の腕の中には、長く灰色の髪を持った女の子がいる。大切な、この世のなによりも大切なヒトだ。だが、腕の中にいるその子は既に冷たく動かない。
そして、両目をどこかに落としてきたのか、あるべきところにあるべき眼球がなかった。俺はうつろにその子の名前を呼ぶ。
「シヲン」
死ぬな、シヲン。
死後硬直の始まった体は蝋人形のように硬く、鉛のように重い。俺は倒木のようにぴんと張った彼女の手足を抱え込むようにして、物陰で震えている。
これは人ではない。朽ちた木だ。浜に打ち上げられた倒木だ。今起こっている現実の全てを否定して、俺は震えている。怒り、絶望、悲しみ。今までどうしてこの感情を忘れていたのだろう。
「シヲン」
俺は空っぽになった眼窩に指を差し入れた。粘度を増した赤黒い血液が、霜のようにひんやりと指を冷やしながら人差し指にこびりついてきた。
冷たい。肌はおろか、既にこの体の奥にすら、かすかなぬくもりはなかった。人差し指と親指をこすり合わせると、茶色い血液はあっと言う間に乾いて、ぱらぱらと音を立てて彼女の灰色の髪の上に落ちた。
……ッ。
何かが聞こえる。
……ワッ。グワッ!
戦地にヒキガエルか。
グワワッ!
どこかへ行ってしまえ。耳障りだ。踏みつぶすぞ。
グワワワワッ!




