4 「お名前を教えていただけますか?」
ゼクス達の住む「魔界」という世界は、地底世界でもある。惑星の表面は海洋と陸地が覆い、人々はその世界を「地上界」と呼んでいる。天地上界の世界地図を広げてみると、中央にエラル王国(エルフの国)、西にラフォリィ王国(多民族国家)、東にミルトン(人間の国)がある。
セレウス・ミルトン戦争中、天上界の古代兵器によって不毛の地と化したセレウス王国は、エラルの北に位置している。
エラルとミルトンの間、北東の上空には浮遊石の一枚板を中心とした「天上界」がある。大小様々な大きさの浮遊石が浮かんでいるが、その中で一番大きい浮遊石には、岩山を削って造られたような浮遊城が聳え立っている。
セレウス・ミルトン戦争以降、天上界は閉鎖され、現在人は住んでいない。浮遊城の主は美しき死属性の精霊ノルグランセ・インリディラである。彼女はかつて人間によって使われ、セレウスを壊滅させた古代兵器が再び悪用されることのないよう見張っている。
人々の人知を越えた力を持つ精霊にも「精霊界」という世界が存在する。その世界は空の中にあるとも、海底にあるともいわれているが、確かではない。
精霊界には十八人の精霊のみ暮らしている。精霊はそれぞれ固有の属性があり、地、水、火、風、生、死、音、力、光、闇、氷、雷、緑、星、無、智、時、美である。
この世界を循環する魔力は、精霊たちが持つ強大な力が溢れたものと考えられ、魔力の根源は精霊であると言われている。彼らは四つのグループに分かれており、それぞれのグループを統括する、統括精霊と呼ばれる精霊が存在する。
統括精霊は精霊界に置いても権力を持つため、彼らの行動や言葉は重い意味をなす。四人の統括精霊は定期的に交代しているが、現在は力属性のエレメンタル・ガーディアン、光属性のディアムント・エグゼクティア、闇属性のネルフィ・サイフォース、時属性のディア・アフスベルクとなっている。
そして、地上界の下、陸地と海洋の遥か底に「魔界」がある。魔界には瘴気と呼ばれる穢れ、人間にとって毒ガスが充満しており、そこで暮らすことができない。また、地底にあることから太陽の光は届かない。
魔族というと恵美理の世界では残虐残忍な怪物のイメージが強いが、この世界では「魔界に住む種族」もしくは「魔物の力を取り込んだ種族」という意味で使われているようだ。事実、魔界には多種多様な種族が暮らしてコミュニティを形成しており、アシューが狼になったり、ニックがドラゴンになるなど魔物のような姿に変化する能力を備えた者もいる。
魔族は長い間日光の届かない世界で進化してきたため、太陽光に対する抵抗力がない。昇って来た朝日を浴びるだけで体が蒸発してしまうのだ。彼らが地上界に上がる時は日の暮れた夜であることから、「闇の住人」と呼ばれることもある。
しかし、魔界にも光は存在する。太古の昔、常闇の中で生活する魔族を憐れんだ星の精霊が、彼らに光る石を与えたのだという。星の精霊から授かった光る石は「精霊石」と呼ばれ、魔界の北総と南総を分断するアシュタロス山脈の上空の南寄りに浮かんでいる。
その位置関係から、南総の気候は温暖で多湿、人々の性格も明るい。カジノやリゾート地があり、ビーチでバカンスを楽しむなど、娯楽も発展している。
一方、北総は精霊石の光が山脈に遮られてしまうため、娯楽より学問や魔科学技術が発達している。ウィリアム王が読書家で知られているが、ルクスシティの国立図書館には世界最大数の書籍が保管されており、エルディオの通うルクス大学は世界中の若者が憧れる超エリート校となっている。
工業団地の企業からは毎年多くの発明品が発表され、年に数回ある世界規模の展覧会では、ニックは情報収集に余念がない。また、気候は寒冷で冬になると豪雪、海は凍りつく。
北総の冬は早く訪れる。恵美理はエルディオに羽おってもらったマントを口元まで引き上げた。頭の中で自分の置かれている状況について整理しようと努めても、一向に考えはまとまらない。今、この瞬間も、黄金色の巨大なドラゴンに跨っているという現実をなかなか受け入れられない。
大体、日本に灰色の超巨大なドラゴンが現れるなんておかしい。ニックの左隣のゼクスは背中に蝙蝠のような羽を生やしている。ニックは炎に包まれても火傷の一つも負わずにドラゴンに変身した。そんなのあり得ない。やっぱり夢ではないか。いや、そうであってほしいと願わずにはいられない。
しかし、自分の体が感じる風や空気の匂いは現実の感覚のようだ。雲の流れ、後ろに座っているエルディオの温もり、ニックが翼を上下させる度に空気を裂く音やその息遣い、ゼクスのマントが風を受けて翻る音、恵美理が羽おっているマントからほんのり薬品の匂いがすることも。
ただ、こうした感覚を現実だと受け入れてしまうと、自分の今後が真っ暗やみの中に落ちていくようで怖い。言葉が通じないため、ゼクスたちが何を考えているのかも分からないし、どこへ向かっているのかも分からない。
あの赤い男の所だろうか?それとも、牛や豚のように食肉用として裁かれるのではないか?もしかしたら、奴隷として人身売買されるのでは?その後も考えれば考えるほど悪い結論しか出てこず、不安と恐怖で再び体が震え出す。
恵美理の震えに気付いたエルディオが、手綱を置いて恵美理の肩をさする。その行為に驚いた恵美理が振り返ると、彼は優しく微笑んでいた。
「寒いですか?北総はそろそろ雪が降る季節なんです」
「…」
「それとも、僕たちがあなたを怖がらせているんでしょうか。まぁ、見知らぬ魔族に囲まれているんですから、無理もないかもしれません」
「…」
「でも、誤解しないでください。僕たちはあなたを傷つけたりしません。ただ、これからのことを考えると、あなたも何か話してくださらないと困ったことになるかもしれません」
「…」
エルディオは、じーっと見つめてくる恵美理の顔を見て少し視線をそらし、頭をかく。
「分かりました。じゃぁ、こうしましょう。僕は、エルヴィス・D・オークフェンといいます。長いのでエルディオかエルって呼んでください。
こちらは、僕の命の恩人であるゼクス・ボルライ兄さん。僕たちが跨っているのは二ゼル・クェルフェンさん…愛称ニックさんです」
エルディオが右手を差し出す。恵美理は、きっと握手を求めているんだろうと思い、恐る恐る自分の手をエルディオの手に重ねてみる。そして、洞窟の中から今に至るまで、いくつかのキーワードがあることに気付いた。ゼクス、ニック、エルディオ。おそらく、この人たちの名前なんだろうという察しはついた。
「どうぞよろしく。それで、あなたのお名前は、なんていうんですか?」
そうか、自己紹介してくれているんだ、と恵美理は思った。この人たちは自分を傷つけるつもりはない。もしそうなら、自分たちの紹介なんてしないはずだから。恵美理はそう感じると、今までの不安と緊張が少しとけた。
「有須川 恵美理です。日本から来ました。といっても、自分の意思で来たわけではありません。ある晩、洗濯物を取り込んでいたら、突然空に巨大な灰色のドラゴンが現れたんです。
私は目を疑いました。私の世界には、今跨っているようなドラゴンや、背中に羽の生えた人間は存在しませんから。そのドラゴンの上には人が跨っていました。ドラゴンの数は、全部で二十、人は四十くらいだと思います。
その中の一頭が襲いかかってきて、鋭い牙で大怪我を負いました。その後のことは…よく覚えていません。意識を失くしたんだと思います。でも、意識を失う前に、私を襲ったドラゴンに真っ赤な瞳と髪をした男が乗っていたのは覚えています。あまりにも不気味で、強く印象に残ったんです。
それから、大空に光る門のようなものがあったような…。それで気が付いたら、あなたたちが隣にいました」
ゼクス、ニック、エルディオは神妙な面持ちで聞いていた。
「私、聞きたいことがたくさんあります。ここはどこで、一体どうやったら家に帰れるんでしょうか。本当に不安で…どうしたらいい…」
言いかけた恵美理は突然はっとした。恵美理はゼクス達の言葉を理解できないが、逆はできるかもしれない。自己紹介をしてくれたとはいえ、ゼクス達が味方であるという保証はない。不必要に自分のことをしゃべると、かえって弱みを握られて命が危なくなるんじゃないだろうか。恵美理がそっとエルディオの顔を見上げると、エルディオは大きなエメラルド色の目をぱちくりさせていた。
「そういうことか」
ゼクスが呟く。
「俺たちの言葉が全く理解できていなかったんだな。そりゃ答えたくても無理だ」
ニックが続く。
「あの、失礼ですが、お二人とも今の話を理解されました?」
「全く分からん」とニック。
「右に同じ」とゼクス。
「そんな…こんなことってあるんですか?確かにミルトンと人間は諸国と交流がなくなりましたが、僕たちの通訳機には人間語の翻訳機能も備わっているはずです。それなのに、全く機能してないということは…この子が話しているのはミルトンの言葉じゃないってことですか!?」
「??」
エルディオが首に巻かれたチョーカーを触っている。世界中の人々が、言葉の壁を乗り越えてコミュニケーションが取れるように開発された通訳機だ。チョーカー型、時計型、ピアス型など様々な仕様の物が出回っている。これらを体の一部に身に着けていれば多種多様な民族語を通訳なしで翻訳できる優れモノだ。
「待ってください、それじゃぁ…これでどうでしょう?」
エルディオはバッグから羊皮紙のような巻物を取り出し、恵美理の前に広げて見せた。そこには、ゼクス達の世界地図が描かれている。エルディオは、魔界の位置と、現在の自分たちの位置を指し示す。
当然、恵美理にとってこの世界地図は初めて目にするものだ。恵美理はしばらく地図を眺め、エルディオの方に振り向くと、胸ポケットにあるペンを指さす。
エルディオがペンを手渡すと、先ほどの世界地図の裏に、「地球の世界地図」を書き始める。恵美理の知る限りの知識で、南北アメリカ大陸、アフリカ大陸、アジア大陸、南極、オセアニア、そして日本を描いていく。最後に、日本列島を黒く塗りつぶして丸で囲み、「日本――JAPAN」と書いた。
完成した世界地図をペンと共に渡す。エルディオはその地図を見て眉間に皺を寄せた。彼は初め、世界地図を見せれば恵美理がミルトンを指すのではないかと思った。
しかし、恵美理が迷いなく地図をひっくり返して自分の世界を描き出すので、いよいよ核心が見えてきたような気がした。興味に引かれてきたゼクスにそれを渡す。ゼクスはそれを持ってニックの顔のそばまで飛んでいき、二人で眺めている。
「…俺達、今、歴史的な接触を試みてるのかも」
ニックが低く唸った。恵美理がミルトンから来た人間だと思っていたから、ルクスへ行ってウィリアム王に引き渡すことで自分たちが救われると信じていた。しかし、言葉が通じないことや恵美理が描いた世界は全くの異世界であり、それが事実であれば恵美理は異世界から来た人間、ということになる。であれば、無関係な恵美理が処刑台に立つのはおかしくないだろうか。
「ルクスへ行くのは中止だ」
ゼクスが言う。
「この子は理由があって黒騎士団が連れて来たんだ。もう少し事情を聞いてからでも遅くはないだろう」
ニックは素直に従った。疑問は残るが、罪を犯していない恵美理を裁くことは彼の倫理にも反するようだ。恵美理は自分の行為がどのような反応で返ってくるか心配していたが、エルディオがさっきよりも晴れやかに笑っているので、少しほっとした。
「ええっと、何度も申し訳ないんですけど」
エルディオが恵美理に話しかける。
「もう一度、お名前を教えていただけますか?」
エルディオのボディランゲージを見て、もう一度はっきりした口調で言った。
「有須川 恵美理です。恵美理でいいです」
恵美理はゼクスやニック、エルディオを信じようと思う。根拠はないが、悪い人ではないようだし、きっと力になってくれる、と直感した。一先ず自分が殺されることはないし、あの赤い男の所へ連れて行かれないだろう。恵美理は前に向きなおって深い安堵のため息をついたのだった。