2 「今がチャンスだ」
明朝は濃い朝靄に包まれていた。三人はルクスシティまで飛空艇で移動し、エアポートからブリックストリートへ移動する。ブリックストリートは文字通り『煉瓦通り』であり、地面に煉瓦が敷き詰められたルクスシティ最大の通りである。昨夜の屋台は朝市に変かわっていた。採れたての果物や野菜、魚などが並び、それらを買い求める人々で大いに活気づいている。
三人は昨日のスーツ、作業着、学生服姿から一変し、黒のタートルネックにズボン、革のベルト、鉄板の入ったブーツを履き、胸にプロテクターを付け、腰には剣や手榴弾、背中には弓矢、足には銃やナイフなど全身の至る所に武器を装備していた。ゼクスは紺色のマント、ニックとエルディオは深緑色のマントを羽おっている。
三人は朝市でオロン麦のパンと鴨肉のロースト、フィラム豆のスープ、根菜のソテー、スクランブルエッグのモーニングプレートという軽い朝食を済ませると、ルクスシティの玄関口である大正門まで歩いていく。
ルクスは四方を高い岩の城壁で囲まれた街であり、大正門からルクス城まで一本のブリックストリートでつながっている。大正門からルクス城を見た時、ブリックストリートを境として西側にはルクス大聖堂やエルディオが通うルクス大学、国立図書館、貴族たちの屋敷が立ち並ぶ高級住宅街がある。一方東側は、工業団地ややエアポートがある。ニックの勤める機械製作会社もこの工業団地の中だ。
また、闘技場では定期的に開催される『世界統一武術大会』や不定期開催の『北総軍志願者選抜採用試験』が行われている。
大正門を出ると、正面は開けた草原が続き、左手に暗黒の森が広がっている。三人は城壁沿いに歩いて森へと進む。先頭にゼクス、その後ろにニックと少し落ち着かない様子エルディオ。
「四天王がいないといいんですけどね…」
ぽつりと呟く少年に意地悪い視線を送るニック。
「何だ、ビビってんのか?」
「ち、違います!作戦も考えたし、準備も万全だし、怖くなんかありせん」
焦るエルディオの表情を面白がってからかい始める。ゼクスは背中で言い合いを聞きながら、森に着くまでに終わらせてくれ、と思っていた。痺れを切らしたエルディオが反撃を開始。
「じゃぁ、伺いますけど、ニックさんは怖くないんですか?相手は黒騎士団なんですよ」
「怖いって認めたな」とニックは口の中で呟いた。先ほどまでの意地悪な表情はなくなり、微笑みを浮かべながらエルディオに話しかける。
「そうだな…もしお前が黒騎士団に捕まるようなことがあれば、俺が命がけで助けてやるから、心配すんな。俺はあいつらのことは怖くないけど、エルを失うのは怖いしな」
ゼクスは振り向かなかったものの、その表情は穏やかで笑みを浮かべていた。エルディオは返す言葉を一瞬失う。
「…ありがとうございます。でも、そのセリフ、いつかできる彼女のために取っておくべきだと思います」と精一杯のお礼。ニックは「確かに」と苦笑した。
暗黒の森の木々は樹齢五百年を超える巨木ばかりだ。木漏れ日が地上まで十分に行き届かないため、小さな木の苗や草は育たずに枯れてしまう。日中でも薄暗い森の中、黒騎士団は小川の近くにキャンプを構えていた。
体長十五メートルを超えるのグレートドラゴンでも暗黒の森の中なら飛ぶことはできた。グレートドラゴンは全身が灰色の固い皮膚で覆われており、頭や尾に角はないが、強靭な顎の力で獲物を噛み砕き、鋸状に並んだ鋭い牙はいったん食い込むとなかなか外れない。また、彼らはドラゴンの姿をしているが、分類上は「魔族」となる。つまり、普段は人の姿で生活し、戦闘や移動の際はドラゴンの姿になるのだ。
キャンプのテントは大木の葉を巨大蜘蛛の糸で縫い合わせて作ってあった。テントの数はざっと三十、見張り役のグレートドラゴンが五頭、騎士が十数名。キャンプ内の騎士の数は全部で五十といったところだ。
キャンプのとあるテントの中、川のせせらぎが微かに聞こえてくる苔の上に、恵美理は横たわっていた。呼吸はしているが意識はなく、深い眠りに落ちているようだった。
恵美理を銜えて「時の門」をくぐったアレクとドレイクだったが、魔界に戻った時に予想外の出来事が生じた。恵美理の体が魔界の空気に触れたとたん、防衛反応を起こして結界を張り、ドレイクを弾き飛ばしたのだ。恵美理の体は暗黒の森へ落下したが、結界のおかげで地面への直撃は免れた。
しかし、結界が張られてしまった以上、迂闊に手を触れると手首ごとなくなってしまう可能性があり、アレクも手を出せないでいる。仕方なく、恵美理の結界が解けるまで暗黒の森で待機することになり、これが十日前にルクスを震撼させたニュースの正体だった。
恵美理はドレイクの牙で引き裂かれ、体の至る所から出血していたため、診察した医師は失血死するか、生きても長くないだろうと言った。医師も手当てしてやりたいのは山々だが、どうしても結界に阻まれてしまう。恵美理は目を覚ます気配もなく、食事を置いても食べた形跡がない。そんな状態が十日も続いているのだから、アレクも苛立ちを隠せない。
黒騎士団の活動は何と言ってもグレートドラゴンによって支えられている。騎士達は地上戦より空中戦を得意とし、ドラゴンは狭い森の中より雲の中の方がいいに決まっている。それに対してウィリアム王は地上戦の戦術にも長けている。こうして恵美理の結界が解けるのを待つうちに、いつ攻めてくるか分からないのだ。
もちろんアレク自身に結界を解く術がないわけではなく、いくつかの魔術を試してみた。しかし、結界の強度は想像以上で、ある程度まで試したがそれ以上は無意味と判断した。高度な魔術を掛けると体力を消耗した恵美理の方が魔術に耐えられず絶命する恐れがあるからだ。
アレクの相棒であるドレイクは、常に恵美理のテントのそばに待機して見張りを続けていた。十日間、一度も鎧を脱がず、岩のようにじっと動かず、テントの中の微かな物音も逃すまいとした。時折聞こえてくる魔物の声に反応して首を上げたり、食事の時に体を起こすくらいで、後は地面に伏したままだった。
そんなキャンプの様子を、ゼクス、ニック、エルディオは倒木の陰に隠れながら匍匐前進で近付き、観察していた。ニックはメモ帳にキャンプの様子を細かく記入している。
「見ろ、赤のアレクだ。あそこに赤い飾り羽が見える」
ゼクスが小声で指差した先に、ドレイクの兜にあしらわれた赤い飾り羽が見える。ニックはすかさずメモし、エルディオが身震いしながらシャッター音のないカメラでドレイクの姿を写真に収める。
「何であいつだけ武装してんだ?」
ニックが小声でゼクスに尋ねる。他のグレートドラゴンは鎧を外しているが、ドレイクだけ鎧兜を身につけているのは明らかに不自然な光景だった。
「そんなのどうでもいいじゃないですか。早く帰りましょうよ」
エルディオが半泣きの状態でシャッターを切っている。しかし、ゼクスは聞こえないふりをした。
「確かに不自然だな。迂回してみるか」
ゼクスが見張りの騎士に気付かれないよう移動を開始する。ニックも胸ポケットにペンとメモ帳をしまうと後に続く。エルディオは一人で残るのが不安で、仕方なく二人の背中を追いかけた。三人の靴が草を踏んだ時、恵美理の指がかすかに動いたが、ドレイクの耳にその音は届かなかった。ゼクス達が巨木から巨木へ素早く移動し、キャンプの外周を大きく迂回してドレイクのいる場所がよく見える位置まで移動し、木の根の間から様子を窺おうとした―――その瞬間。
「敵襲だ!敵襲!」
見張りの騎士が大声を上げる。次の瞬間、ゼクス達のいる対角線側から爆発音が聞こえ、土煙りが上った。ドレイクは素早く首と体を持ち上げて咆哮し、騎士が角笛を吹くと、キャンプ内はあっという間に大混乱となった。
「何、何、一体何が起こってんの?!」
ニックも声を上げる。ゼクスは初め、自分たちの居場所がバレたのではないかと思ったが、そうではなさそうだ。
「あれは…北総軍の旗!国王軍だ!」
爆発音のした方から怒号や剣と剣が激しくぶつかり合う音が聞こえてくる。騒ぎを聞きつけたアレクが巨木の上から降り立ち、相棒の背中に跨ると、ドラゴンは巨大な翼を広げて飛び立った。羽ばたきで起こった暴風が恵美理のいるテントを吹き飛ばしたが、ドレイクは気付いていない。
「赤のアレクが離れたぞ…今がチャンスだ!」
「チャンスって…あそこに行くつもりか?!」
「計画にはなかったが、こうなったら行くしかないだろう」
ゼクスは騎士達が北総軍に気を取られているのをいいことに、恵美理のいる所まで素早く駆けつけた。ニックとエルディオは顔を見合わせて一瞬躊躇し、もう一度顔を見合わせて頷き合うと、ゼクスの背中を追いかけた。
ゼクスの足音が近づくにつれ、恵美理の周りに張っていた結界は薄れ消えていく。三人が苔の上に横たわる少女の姿を見た時、顔は青白く、今にも息を引き取ってしまいそうだった。隣に置かれていたのであろう食事は、テントと共にドレイクの暴風でひっくり返っていた。
「この子…このままにしておいたら、死んでしまいます!」
エルディオが叫ぶ。剣や魔術の音がそんなに遠くない場所から聞こえてくる。ここにいたらこの子は戦闘に巻き込まれてしまう。
「連れ出すぞ」
「正気かよ!黒騎士団の持ち物だぞ!」
「今はそんなこと言ってる場合じゃない。早く離れないと、俺たちの命も危ないんだ」
ゼクスはニックに変化するよう言った。ニックは納得できない、という表情をしながらも変化を始める。巨大な炎がニックの体を包むと、その姿はみるみる変化していき、体長七メートルほどの黄金色のドラゴンが姿を現した。エルディオが身軽にニックの背中に跨ると、ゼクスは恵美理を抱きかかえてエルディオの前に乗せる。ゼクス自身も背中から蝙蝠のような翼を生やし、ニックと共に空へ羽ばたいた。森の上空まで出ると姿を確認される可能性があるため、巨木の間を縫うように低空飛行して、戦場からできるだけ離れることにした。
ウィリアム王はすでに手を打っていたのだ。北総軍の奇襲は見事成功し、不意を突かれた黒騎士団は次々に森から撤退していった。アレクとドレイクが恵美理を回収するためテントの場所まで戻って来たが、そこに姿はない。ドレイクが目を離したほんのわずかな時間だった。ドレイクは歯ぎしりを立て、森中に響き渡るような咆哮した。
ゼクス達の耳にもドレイクの咆哮が届く。身震いを起こしたゼクスは、全速力でこの場から離れるようニックに言った。