PROLOGUE
輝く満月が浮かぶ夜空に、星の瞬きは一つとして見えない。静寂に包まれた天上界、浮遊城の一室のカーテンは開けられたままである。黄金のシャンデリアに明かりはなく、月光だけが部屋に差し込んでいる。
月が最もよく見える場所、重厚なカーテンの側に一人の老婆の姿があった。濃い鈍色のマントの下からのぞく薄紫の髪は月光を捕えて輝きを放っている。目深にフードをかぶっているので表情は読み取れない。老婆はひっそりとたたずみ、彼女を待っていた。
「いらっしゃい、随分と遅かったわね」
扉のノック音や開いた音はない。だが、彼女は老婆の十メートルほど後ろにいた。長く緩やかなウェーブのかかった金髪は光を反射して輝き、紺碧の瞳はまっすぐ老婆を見つめている。濃紺のベアトップドレスのレースを揺らしながら、ゆっくりと老婆に近づく足取りから疲れがうかがえる。
「ええ。門の修復に手間取っていたの」
疲れた声でそういいながら彼女――ディア・アフスベルク――はさらに老婆に近づく。
「壊れた原因は分かったの?」
「いいえ…」
そう言いかけて、ディアは老婆に聞きなおした。
「原因を知っているのね?それで、忙しいあたしを呼びつけたってわけ」
老婆はディアの察しの良さに小さくため息をつくと、彼女の方へ振り向いて濃紫の瞳を覗かせる。前置きもなく、老婆はしゃがれた声で話し出した。
「ディア、あなたにお願いがあるのよ。とても大切なお願いよ」
「急にどうしたの?あたならしくないわ…早く言ってちょうだい」
「お願いを聞くと約束できるかしら。そうすれば今回の原因も、全て話すわ」
ディアは老婆――ノルグランセ・インリディラ――の表情をうかがおうと首を傾げてみたが、窓を埋める月光が影を作るので諦めた。しかし、ノインのそれもらしくない態度にはそれなりの訳があってのことだろう。
ノインは予知能力を持つ。言葉尻に少し焦りが垣間見えるのは、彼女の見た未来のヴィジョンに原因があるのだろうか。ディアは顎に手を当てたが、門を壊したこともノインが全てを話すならわざわざ犯人を探す手間が省けるし、悪い話ではないように思えた。
「いいわ。約束する」
ノインはそれを聞くとフードを脱いでディアに歩み寄る。一歩ごとに顔の皺は薄れ、曲がっていた腰が伸び、髪は艶を取り戻し、濃い鈍色のマントは闇に溶けて水色のドレスが揺らめく。最終的に背はディアより高くなり、美しく若々しい姿を取り戻すと白鳥の描かれたシルクのソファに腰掛け、ディアにも勧める。
ディアが向かいに座ると、ノインは二人の間に置かれたテーブルに右手を置いてゆっくりと上げていく。手の動きに合わせてテーブルには果実の絵柄が描かれ、内側を金で装飾した陶器のティーカップが二つ、同じ柄のシュガーポッド、温かいミルクが現れた。ディアは早速、紅茶を注ぎ、自分のカップに角砂糖を二つ入れた。
「それで?」
ディアはティースプーンを回しながらノインに尋ねる。ノインはストレートのまま口に含んだ紅茶をゆっくり飲みこんだ。
「ついに彼が見つけたのよ。最後の魂の主を」
ディアの手が一瞬動いて止まる。言葉の真意を確かめるように、カップをソーサーにおろすノインの動きをじっと観察し、次の言葉を待った。ノインはディアの心を読んだかのように話し始める。
「冗談でも嘘でもないわよ。簡単に言うと、彼はその主を連れ戻すために門の外に行ったの。ちょっと強引にね。それであなたの大切な門が壊れてしまった」
「そんな…まさか。それって彼女のことよね?」
ノインは無言で頷く。
「だってもう千年以上も前の話じゃない。今更見つけたって言っても誰も信じないわ…ウィルだって信じないわ。それに、連れてきてどうするつもり?彼女は他の三人と同じように別の人生を歩んでいるはずよ」
「そうね…誰も信じないわ。でも、彼だけは信じてる」
ノインはもう一口紅茶を含む。
「そして、厄介な事情が絡んでいるの。私のお願いは、まさにそのことなのよ」
ディアは少し身構えたように言った。
「どうしろっていうの?」
「彼女を…あなたの力で守ってほしいの」
「守るって…どうして?」
「その理由は今から話すわ。私も可能な限り協力する。それから、このことはまだ他の一族に話してはだめよ。もちろん、ウィルにもね」
ノインは全ての事情をディアに話した。話しの一部始終を聞いたディアは低く呻きながらゆっくりとソファに背中を倒していく。軽々しくお願いを聞くと約束したのは早計だったかもしれない。精霊は一度約束すると誓いを立てたら破ることができないという掟がある。
話をまとめると、ディアはノインに立てた誓いによって『愛するウィリアム王を欺きながら約束を守らなければならなくなった』のだ。ノインは項垂れるディアの気持ちを察して彼女の一番好きなケーキである苺のミルフィーユを差し出す。
「ディア、面倒なことに巻き込んで申し訳ないと思っているわ。でも、どうしてもあなたの力が必要なの」
差し出されたミルフィーユをじっとみつめるディア。ノインは最後にこう言った。
「私は、彼らに賭けてみたい。きっと…」
「ねぇ、ノイン。フォークが見当たらないんだけど、出してくれない?」
ディアが話を遮って皿の周りをキョロキョロと見回している。ノインは目を細めて金のフォークとナイフを手渡した。ディアはさっと受取ると美味しそうにミルフィーユを食べ始める。ノインはディアの幸せそうな顔を見ながら、ふと、門の外に出ていった彼のことを考えた。
(どうか、彼女が無事でありますように)
そう願うノインの背後には、巨大な月が二つ輝いていた。
*****
部活を終えた恵美理は夜遅く帰宅し、部屋の明かりを付けた。鞄を机の横にドスンと落としてベッドを見ると、布団が手招きをしているような気がする。このまま倒れこみたかったが、汗と土まみれになった体で横になるのは気が引けたのでシャワーを浴びることにした。
疲労は恵美理が思っているより蓄積されているようで、階段を一段下りるたびに膝に鈍い痛みが走る。全身がボロ切れのようだ。温かいシャワーを浴びると、台所に向かい、冷蔵庫から冷たい麦茶を一杯注いで一気に飲み干した。
家の中に父親の姿はない。恵美理の母親は小さいころに他界し、今はサラリーマンの父と二人暮らし。帰宅途中、父から遅くまで残業があると連絡があった。会議が長引いて明日の商談の資料がまとまっていないそうだ。夕飯は適当に済ましてほしい、とのことだった。冷蔵庫には昨日の残り物があったが、食欲がわかなったのでチーズを一切れとトマトを一つ食べた。
恵美理は近所の私立高校に通う一年生である。この辺りでは有名なお金持ちが通う学校だ。クラスメイトには某大企業の専務の息子とか、大学教授の娘、といった類が大勢いる。普通なら恵美理のような一般人は入ることができない。恵美理は少し離れた学費の安い公立高校に行くつもりだったが、父が一人娘を遠くに行かせるのは心配だとごね、今の学校の事務長が父の知り合いだというコネで入学させてもらった。恵美理は成績優秀な生徒だったため、中学から推薦をもらって筆記試験なしで入学したのだった。
歩いて学校まで行けるのは便利だが、クラスメイトと付き合うのは一苦労だ。彼らは毎朝リムジンで登校し、世界のファッションブランドの話題で盛り上がり、クラシック音楽の流れた部屋で生活し、海外旅行では一流リゾートホテルで、一泊●万円もするようなスイートルームに宿泊している。どれもこれも恵美理には縁遠い話だった。
さらに恵美理を悩ませたのが部活動だ。校則では一年生は部活動に強制入部(ただし特別な理由がある場合を除く)となっている。ただ、どれもこれもお金がかかりそうなものばかりだった。入学前にある程度予想はしていたが、父親の給料を考えても、高額な学費に加えて、お金のかかる部活に入るのは気が引けた。
しかし特別な理由などあるはずもなく、部活動には入らなければならない。クラスメイト達は次々に入部を決めていき、入部期限が迫っていたのもあって、恵美理は焦っていた。
ある日、決めかねている言い訳を考えながら歩いていた恵美理。漂う黒いオーラですれ違う生徒の注目の的になるのも厭わず、ぶつぶつ独り言を唱えていると、目に一枚のチラシが目にとまった。
『あなたもクラブ ブリリアントの仲間になりませんか?部費無料!道具代無料!詳しくはこちらまで→×××‐×××』
恵美理は二回読み返した。
(部費と道具代無料ってほんとかな?)
半信半疑のまま、クラブ ブリリアントの部室へ向かう恵美理。お金がかからない部活なら父親に負担をかけず、伺いを立てなくてもできるし、校則も守れる。そう思うと足取りも少し軽やかになる。ひとまず話だけでも聞きに行こうと、部室のドアをノックした。
「失礼します。一年A組の有須川恵美理と申します」
お辞儀から直った恵美理が目にしたものは、黒いジャケットに白いキュロット、黒のチョーカー、ネクタイを締めて腕にヘルメットと鞭を抱えた部員たちの姿だった。恵美理は、この瞬間までクラブ ブリリアントがどんな部活なのかよく分かっていなかった。どう見ても馬術部。甚だ場違いなところにいることは間違いない。
「あれ、もしかして入部希望かな?」
優しそうな微笑みを浮かべるレディース&ジェントルマン(先輩)たち。恵美理は瞬間的にキラッキラのオーラと爽やか笑顔を振りまく男女から逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。しかし、自らドアを開けてしまった以上、立ち去ることもできず、結局このあと散々口説かれて入部することになってしまった。
チラシに書かれていた部費と道具代無料の理由は、厩舎の馬達の世話を手伝うこと。道具は先輩たちのお下がりをタダで譲ってもらった。とはいえ、馬房には馬が二十頭もいる。掃除するだけでかなりの重労働だ。毎日汗と埃にまみれながら馬たちの世話をし、休日は時間があれば先輩に乗馬レッスンをしてもらう。飲み込みの早い恵美理は、すぐに一人で乗れるようになった。
しかし、そんな日々の疲れはピークに達していた。この日も世話が終わったのは午後七時半。図書館で馬房の匂いを振りまき、白い目で見られながら次の日の予習を済ませて午後九時の閉館と共に帰宅した。
軽く腹ごしらえをして部屋に戻ると、ベランダに制服とジャージが干しっぱなしになっているのに気付いた。面倒だが、明日着ていく制服が他になかったので取り込んでブラウスにアイロンをかけなければならない。
窓を開けて制服に手をかけると、空に白っぽい一筋の不思議な雲が浮かんでいるのが目にとまった。天の川ではない。恵美理は生まれてからずっとこの空を見続けているが、この街で天の川をみたことは一度もない。まして今夜は満月で、星の瞬きはかき消されている。恵美理は初め、鳥の大群が飛んでいるのかと思った。
しかし、それがみるみる形と大きさを変えていくので鳥ではないことが分かった。その姿がはっきりと見えた時、恵美理は自分の目が疲労でおかしくなったのではないかと思い首を振る。その飛行物体はあまりに巨大で、そこに人らしきものが跨って大空を飛び交っているのだから。
「何これ…ウソでしょ?」
黒いマントに身を包んだ不気味な集団は、恵美理の上空を何度も行き交っている。恵美理が見た飛行物体は体長十五メートル級のドラゴン――グレートドラゴン――だった。その中でも一際巨大なグレートドラゴンに跨っていた男は恵美理の姿を捉えると、真紅の髪をなびかせ、自身が跨る赤い飾り羽をあしらったグレートドラゴンに降下の指示を出す。
ドラゴンは急降下し、恵美理のいるベランダに接近すると、羽ばたきで周囲の物を吹き飛ばして鋭い牙で恵美理を捕らえた。飛ばされた物干し竿が窓に当たってガラスが割れ、部屋が散乱するのを気にも留めず、恵美理をくわえたまま大空へ羽ばたいていく。恵美理の体に鋭い牙が食い込んで血が溢れ、叫びにならぬ声が夜空に空しく響いた。
「これで世界は変わる」
ドラゴンの口の中でもがく恵美理を見て、真紅の瞳が静かに呟く。男が夜空を仰いで呪文を唱えると光り輝く扉が現れ、ドラゴン達は次々と光の中へ飛び込んでいき、光に吸い込まれた。
恵美理は自分の身に起こった出来事がよく理解できないまま、意識が遠のいていった。