閑話 昔語り(アーサー視点)
閑話はアーサー視点です。本編のエミリアナの一人称と違い、アーサー視点は三人称で書いています。
エミリアナ王女と、その護衛騎士アーサー・ヘルマンの婚約が発表されたのは、二人が秘密の賭けを始めた日から二日目のことだった。
城の内外に向けた国王の公式発表を受け、見事正式に婚約者同士となった二人は、近くハーディアの使者としてアウトライムへ発つことも決まっている。
勿論、祝いの品を届けるという本来の意味にかこつけ、王妃が目論んだエミリアナのお見合いはなくなった。
当のエミリアナはそのことに隠しきれない喜びを見せていたが、彼女の母親ーーマルグリット王妃は、「初恋が実って嬉しいのね」などと思いきり的外れな感想を口にしていたらしい。
かくして、今やエミリアナとアーサーの二人は彼が予想したとおり、城中の者達から祝福を受ける立場になっていたのである。
いや、周囲の浮かれぶりは、なにも城内だけにはとどまらないでいた。
アーサーはため息をつきながら、早馬で届けられた実家からの手紙を眺め、近場にある石段に腰を下ろす。
夕暮れに染まる風景の中、背をかがめて俯けば、長く伸びてきた城影に背後を取られ、酷く陰鬱な気分にさせられた。
宿舎に戻る前に人影のあまりない裏庭まで出てきたのは、この厄介な手紙を人知れず見るためだったのだ。
しかし、彼には手紙の内容など、実は見なくとも分かっていた。
おおかた、王女との婚約を知った両親が、慌てて詳細な説明を求めて、送りつけてきたものに過ぎなかったからである。
近日中には、ここハーディアへ国王夫妻に拝謁するため、当主である父が出向いて来るのは、まず間違いないだろう。
その時のためにも、彼らは詳しい内容を把握しておきたいのだ。そんなことは理解していた。そう、理解していたのだがーー。
アーサーはうんざりして、手紙をその辺に放り投げて膝の上に頬杖をつく。
どこから何を、自分は間違えてしまったのか。いくら考えても彼には分からなかった。
「ヘルマン様!」
その時、年若い女性の声が聞こえてきた。彼の姿を追いかけてきたのか、息を切らした侍女数人が目の前に立ちふさがる。
「この度は、おめでとうございます!」
中心にいる勝ち気そうな娘が声を張り上げると、残りの大人しげな娘達も怖ず怖ずと祝いの言葉を口にした。
「お、おめでとうございます」
「おめでとうございます、ヘルマン様」
頬を染めた年若い侍女達に見覚えはないが、彼と王女の婚約は瞬く間に広まっていったので、相手はこちらを知っているらしい。
「ありがとう」
アーサーは得意の上辺笑顔を貼り付けて愛想を振りまいた。この特技も随分年季が入っているので、彼の本音に気づく人はまずいない。
つい今し方の、不機嫌面など想像する筈もなく、侍女達は彼を見つめてますます頬を赤くしていた。
「殿下とお幸せに」
「お幸せに、ヘルマン様」
彼女達は更に甲高い声を上げてかしましく騒ぎ立てながら、茜色に染まる城壁の方へと戻って行った。娘達の談笑も聞こえなくなり、その姿も全く見えなくなると、彼はスッと顔に浮かべていた表情を消し去る。
疲れたーー。
アーサーは頭を抱え込んで、深々と長いため息を吐いた。
国王の正式発表以来、こんなことは日常茶飯事であった。彼もそれなりの覚悟をしていたつもりだったのだ。
なのにどうしようもなく気が滅入るのは何故なのか。疲れきって疲弊した体が、表情まで強ばらせるのはどうしてか。
分かっている。それは騒動の発端が、あのエミリアナ王女だからだ。
彼が最も苦手とする避けたい相手、エミリアナ王女自身が自分を渦中に巻き込んだからなのだ。
あの、とてつもなく我がままで自己中心的な王女が、とんでもない出任せを口にした時、彼はそのあとに自らに降りかかる未来をほぼ予想出来た。
だからこそ、少ない時間で出来うる限りの対処を試みた。
いつもの上辺笑顔と相手を丸め込む口の良さを使い、体よく王女の目を眩ませてやり、国王や王妃のあとを追う計画は残念ながら失敗してしまったが、なんとか王女を賭けに引きずり込み自分の土俵に乗せることに成功した。
あの時はうまくいったと、内心ほくそ笑んでいたのである。
勝負などあってないに等しいもの。彼が王女に負けることは、たとえ夜と昼が逆さになろうと有り得ないことだから。
つまり、この忌々しい騒ぎに付き合うのもせいぜい一月のことで、しかもその内のほとんどはアウトライムで過ごすとくれば、うるさい外野に煩わされるのも僅かの間ということだ。
アウトライムの人間は、エミリアナとアーサーにハーディアほどには関心を寄せないだろう。彼は被害を最小限に留めることが出来たのである。
ーーなのに、
その、あと少しのことがこうまで苦痛なものだとは。
彼はまるで理解していなかった。王女の影響力を甘く見すぎていた、大いなる誤算だ。
「周囲を見境なく荒らすお姫さまには、これ以上……付き合ってられないな」
思わずこぼした悪態に、誰かが問いを重ねてくる。
「聞き捨てならんな、ヘルマン。お姫さまとは、もしや婚約者様のことなのか?」
アーサーはびくりと体を堅くした。誰かに聞かれていたとは思いもしていない。
低く落ち着いた声の持ち主であった。自分をヘルマンなどと呼びつけたということは、おそらく目上の年長者であろう。
まずい……。
「い、いえ。これはその実家の妹のことで……」
アーサーは飛ばした手紙を指し示し、愛想笑いを声のした方に向ける。
「何だ、お前。その慌てた顔は」
目線の先に、彼を指差し腹を抱えて笑い転げる男がいた。
「ケインさん、人が悪いです!」
アーサーは顔を赤くして、男を怒鳴りつけてやった。
彼をからかって笑っていたのは、友人でもあり先輩でもある、王女の護衛から王太子の側仕えへとその身をかえた、ケイン・アナベルだったのだ。
***
「拗ねるなよ、冷静沈着が売りのくせに」
ケインはなかなか笑いが収まらないらしく、しつこく口元を歪ませている。
「誰がそんなことを? 俺は目立たず争わず、静かに城務めを終えたいだけですよ。少なくとも、王女が無事に嫁がれる日まではね」
アーサーはふてくされたように横を向いた。そんな彼をまるで実の兄弟のように、親しみを込めた眼差しで眺めるケイン。
ケイン・アナベルという男は、アーサーが取り繕う必要のない人間の一人である。
それは彼の師でもあるランス隊長を始め、同じ隊の仲間など他にもいるにはいるが、中でもケインは特別な相手と言えるかもしれなかった。
まだ体も小さい少年だった時分に、従騎士として城に上がってから始まって、ケイン自身が身を固めて宿舎を出て行ったその日まで、長い団体生活を二人は隣同士のベッドで過ごしてきた親友だからだ。
お互いの青臭い青春の日々も知り尽くしている。ケインはアーサーより六つは年上だが、同い年のように気安い付き合いをしてくれた。それは彼の、一見軽薄な見た目のせいもあるかもしれないが、ごく自然にアーサーは、ケインという人間に慣れていったのだ。
そしてこの男は三十を越しても、相変わらずどこか軟弱な雰囲気を漂わせている。だがその実像は、怖い奥方にしっかりと手綱を握られているのだから、見た目ほどには気楽に生きてはないのだろう。
「しかし、知らなかったな。アーサーが殿下を好いてるとは」
「な、好いてなどいませんよ!」
ケインの漏らした言葉にアーサーは噛みつく。
「よくもそんなことを。俺があの方をどんなに苦手に思っているか、あなたはご存知の筈でしょう?」
「そうだったかな」
額にかかる黒髪を揺らして、ケインは豪快に笑った。久しぶりの語らいが、アーサーにとっては不愉快な話題に終始しそうだ。
「大げさで興奮屋。恥じらいとか控え目な要素は欠片も持っていない。女性の中でも一番苦手で嫌いな性格ですよ」
言ってる内にアーサーの語気はどんどん上がっていく。たまりにたまった不満が、ここにきて一気に爆発してしまったかのように。
「俺はね、ケインさん。派手好きな殿下の目に留まらないよう己を殺して、穏やかで平安な城務めをなるべく長く続けたかったんです。そのために、少々頭を捻るような要求にだって、我慢に我慢を重ねて呑んできたんですよ。恥を捨ててね!」
「知ってるさ、殿下のごっこ遊びだろ? 僕もよく付き合わされた」
ヘラヘラと笑うケインをアーサーは苦々しく見つめる。
あなたはいいんですよ、好きでやってたんだからーー、彼はそう吐き出したいのを辛うじて飲み込んだ。
「相手は遊びたい盛りの子供だぞ。多少は我がままを聞いてやればいいじゃないか」
「殿下はもう十五におなりですよ。立派な大人の女性です」
ケインがエミリアナの玩具だったのは、彼女が本当に子供だった頃かもしれないが、自分の方はいまだに玩具扱いをされている。正確には同じとは言えない筈だった。
しかし、ケインは別の部分に反応したらしい。
「何? もう、そんなになられるのか。月日が経つのは早いもんだな」
男はアーサーの苦悩など気にもせず、感慨深げに頷いた。ケインが王女に仕え始めた時、彼女はまだ六歳の幼子でしかなかったのだ。
「そうですよ。送りつけられる縁談の中から、めぼしい相手を早期に見つけていただいて、俺はやっと殿下の守り役から解放されると思っていたのに。なのに、この仕打ちですよ? 最悪だ」
珍しく声を荒げる友人をケインは不思議そうに見返していた。
「なら何故、お前は今まで一人だったんだ? とっくに所帯を持っていれば今頃こんな目に遭うこともなかっただろうに……」
その問いが余計にアーサーの癪に障った。
「結婚なんて冗談じゃない! そんなことをしていたら俺は王城にいられなくなっていたんですから」
ケインはアーサーを哀れむように微笑む。
「いつも冷静なお前がそんなに取り乱すなんて、余程の理由があるんだな」
「い、いえ別に……余程の理由なんかじゃ……」
アーサーは決まり悪くなり、隠すように顔を伏せた。
「本当にたいした理由などではありません。だが、俺にとっては死活問題なだけで……」
急に歯切れの悪くなった年下の友人を見て、ふむ、とケインは息をついた。
「僕はお前に何のアドバイスもしてやれない。だがな、アーサー。結婚はいいぞ」
ケインは笑いをかみ殺してうそぶく。
「本当に……、そう思ってるんですか、ケインさん?」
「当たり前だ!」
「奥方の尻に敷かれているって、もっぱらの評判ですよ」
「そんなことはない!」
鼻息を荒くしてケインは息巻いた。
「僕はリシェルを愛してる。彼女の尻なら何をされても本望なくらいにな」
恥ずかしげもなく大声で宣言したケインを見やり、アーサーは背筋を伸ばして空を仰いだ。
すっかり日も落ちて、星々が夜空を彩り始めている。
「なんだかケインさん見ていると、どうでもよくなってきましたよ。相変わらず侍女長殿一筋なんだから、聞くのも馬鹿らしいです」
「何だ、その言い種」
「幸せな人には俺の気持ちなど分からないってことですよ。そろそろ俺は帰ります。あなたも急いだ方がいいでしょう?」
「待てよ、アーサー。いいことを思いついたぞ」
立ち上がったアーサーを追いかけて、ケインも歩を進めてきた。
二人は十年前に戻ったように、いつしか肩を並べていた。
「今夜うちに来い。僕と彼女がどんなに幸せか見せてやるから」
「遠慮しますよ。奥方にやりこめられるケインさんは、あまり見たくないんで」
だが、会話の内容までは戻ることは叶わなかったようだ。ケインの言うことは妙に所帯染みている。アーサーも苦笑をこぼした。
「そんな筈ないだろ。彼女ならお前を歓迎するさ。リシェルの飯はうまいぞ」
「いえ、本当にいいんで……」
この晩、日も暮れた王城の裏庭を、二人の騎士のたわいない会話が、誰にも聞かれることなくひっそりと、闇に消えていったのである。