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短い吐息が後方からふうと吐き出される。
わたしはその息づかいにびくりと体をすくませた。
大きな声で互いを責め立てていた両親の姿は、とうにない。ついさっき、したり顔の母に押しやられるように二人が扉の向こうへと消えてから、部屋の中は静まり返っている。
全く、とんでもない仕打ちだと、わたしは堅く閉ざされた扉を睨みつけた。
いくらわたしが口から出任せを言ったからって、未婚の男女を平気で二人きりにするなんておめでたすぎるわ。そうでしょう?
「ーー殿下」
息を吐き出した人物が突然低い声を出してきて、わたしは思考を封じられてしまった。
異様な緊張感から、ついついどうでもいいことばかりを考えていたらしい。
「何を考えているのです?」
アーサーは背後から抜け出し、一歩二歩と足を進め前へ回ってくる。
こちらに背を向ける彼の後ろ姿が、妙に迫力があってなんだか怖いーーって変かしら?
「な、何をってお母様のことよ。わたし達を二人にするなんて、ひ、非常識だと思わない?」
わたしは緊張のため、からからに渇いた声で一気に話し始めた。
アーサーに付け入る隙を与えちゃいけない。彼が茫然としている間に話し終えて、早く部屋から追い出さなくちゃ。
「お母様ときたら娘をなんだと思ってるのかしら。一山いくらの見切り品だとでも思っているのかしらね」
「ーー殿下!」
「な、何よっ」
アーサーはくるりと振り向く。その顔は声に反して意外と穏やかだった。
「わたしが申しているのは現在のことではありません」
アーサーはにこりと笑みを深めた。
「わたしが申しているのは、先ほどのくだらない言い訳に対してです。何故、あんな馬鹿げたことを? アウトライムとのご縁談に、何か不安でもおありなのですか?」
彼はそう言って、わたしに答えを促してきた。その物わかりのいい大人ぶった態度が鼻につく。びくついていたことも忘れて、わたしは彼をまっすぐ見返した。
不安があるかですって? 当たり前じゃないの、大ありよ!
ーーなんて、口には出せないけど。
アーサーは一瞬目を見開き、そのまま続ける。
「アウトライムの第一王子フィリップ様は、堅実で真面目な方だとご評判でいらっしゃいます。近い将来、ご立派な賢王になられるだろうと、民からも絶大なる信頼を寄せられておいでです」
へぇ、あの嘘つき詐欺師王子が? へぇ〜。
確かに面白みに欠けた容貌をしていたみたいだけど、堅実で真面目ですって? 信じられない。
「それに比べ第二王子のエリク様は、明るい陽気な方だとか。どなたともすぐ打ち解けて親しくなられる、人懐こいご気性と聞き及んでいます」
アーサーは目を柔らかく細め、わたしを上から見下ろしてきた。
「溌剌として明朗なエミリアナ様とは、まるで古くからのお知り合いのようにお話も合うことでしょう。案外よいご縁談だと、わたしは思いますよ」
「なっ……」
確かにアーサーの言うとおり、無口な人よりおしゃべりな人の方が、わたしは付き合いやすいわ。だけど……、だけどだけど、ああ……。
返事をしないわたしに、更に落ち着いた声をアーサーは重ねてくる。子守歌のように優しくて甘い、安心させるような声で。
「会うだけでもお試しになられてはどうですか? この度のご縁談が纏まれば姉上様とも縁続きになれますし、何も恐れることなどないではありませんか。先ほどの言い訳のことならどうぞご安心を。陛下にはわたしの方から、それとなくお話をさせていただきますから」
は? 何言ってるの。
「だっ、駄目よ、そんなの……」
いたわるような眼差しから、わたしは辛うじて目を逸らした。
アーサーの澄んだ灰褐色の瞳に、まるで吸い込まれてしまいそうだった。
「そ、そんな子供じみたこと、出来るわけないでしょ。自分で言ったことの責任を全部あなたに押しつけるなんて。そ、そうよ、いくらなんでもそんな無責任なこと出来やしないわ」
ブツブツと口籠もるわたしをアーサーは静かに見ていたようだけど、不意に目の前からいなくなる。
「ご心配はいりませんよ、エミリアナ様」
部屋の隅へと向かっていた彼が、くるりと振り返った。
わたしは慌てて目線を元の位置まで戻す。戻ってきた彼の腕には、いつの間にか椅子が抱えられていた。
「殿下は度重なるご縁談にお疲れになっているのです。無理もありません。なかなか思う相手に出会えないのですから」
アーサーは椅子を下ろして、わたしに腰掛けるよう指し示した。半ば強引に座らされると、背の高い青年が目の前に腰を屈め跪く。わたしの目線より下に、きらきらと輝く金髪が見えた。
ち、近いじゃないの……顔が、さっきよりも! てか、こんな距離、今に始まったわけでもないのに焦ったりして、わたしってば変なの。
「急にご縁談を恐ろしく感じられたのではありませんか? それであんなことをおっしゃって、このお話から逃げてしまおうと思われたのですね?」
わたしはびっくりしてしまって、あんぐりと開いた口が閉まらなかった。
何でぴしゃりと当てられてしまうわけ? 心でも読めるのかしら、この男。
「大丈夫ですよ。そのお年頃のご婦人にはよくあることでございます。両陛下ともお分かりになって下さいますよ。何もご心配されることはございません」
「あ、アーサー、あの……」
「今日は落ち着かれるまで、ごゆっくりとされたらいいでしょう。あとのことは全てわたしにお任せください。お気を楽にしてお過ごしされますよう」
アーサーは笑みを深くすると勢いよく立ち上がった。幼い子供に向けるような、柔らかい眼差しはそのままだ。それから、彼は「失礼します」と一礼し、体の向きを変える。
「あ、アーサー、待って」
ど、どうしよう。どうしよう、どうしよう。このままじゃ彼に余計なことを言われてしまう。
「ま、待ってアーサー!」
焦って立ち上がりかけたわたしを、アーサーは上半身だけ振り返り引き止める。
「エミリアナ様、どうぞそのままおかけになっていてください。只今キャリー殿を呼んできますから」
い、いらないわ、キャリーなんか今はいらない!
早く彼を止めるのよ。部屋から出て行ってしまうじゃない。
「お待ちなさい、アーサー!」
扉の前に立つ背中に向かって、わたしは大声で叫んだ。
「わたしの話を聞いて、さっきの話は全部本当のことなんだから!」
冗談じゃないわ。やっとの思いで見合い話を亡き者にしたのに、ぶり返されたら堪らない。
「言い訳じゃないのよ、全て真実なの。わたしはあなたが好きなのよ」
足を止めた騎士が小さく呟く。彼はそのまま立ち尽くしていた。
「何? 何て言ったの? 聞こえないわ」
わたしの問いかけを無視して、向こうを向いたまま騎士は低い声を出す。
「本当と?」
「え、ええ、そ、そうよ。全部本当のことなの。決して、口から出た出任せなんかじゃないわ」
いや、出任せだけど、でもこれは絶対しらを切り通さなきゃ。今のわたしにとっては、最後の切り札に違いないんだから。
「し、信じられないのも無理はないわね。わたしだって最近気がついたんだもの。だけどね、嘘みたいだろうけど本当なの。わ、わたしは、あなたが……」
もう嫌! 何だってわたしがこんな恥ずかしい目に遭わなきゃならないの。これ以上何をどうすればいいのよ。
「だから、つまりわたしは……。あなたがね、あなたが、その……」
ちょっと、アーサー。あなたの主が愛の告白をしてるのよ。
ありがとうございますとか、身に余る光栄ですとか、言うべき言葉があるでしょうが。
「ーーなるほど」
直立不動の騎士から、押し殺した声が漏れ聞こえてくる。
「殿下はあの馬鹿馬鹿しい世迷い言を、あくまでも真実で押し通すおつもりですね。誰に何と諭されようと」
世迷い言? 酷い言い種ね。
「だって真実なんですもの。し、真実なんだから変えられるわけないでしょう」
わたしは胸を張って応える。臣下にびくついて負けるわけにはいかないのよ。
「真実だから変えられない、かーー」
アーサーがフッと笑って振り向いた。
その顔を見てわたしは息を飲んだ。
だ、だって、だってだって彼ってば、口元は笑っているけど目が……、目が全然笑ってないの!
普段なまじニコニコした笑顔ばかり見ているから、微妙な変化を見せる相手にわたしは動悸までおかしくなっていた。
「ですが、これからどうされるのですか? マルグリット陛下はともかく、おそらく国王陛下はわたしと同じ。あなたの言葉を、まるで信じてらっしゃらないでしょう」
アーサーはさらっと失礼なことを言ってのける。わたしの告白なんか自分は全く相手にしてないし、屁とも思っていないと。
「そうね……」
なんだか胃の辺りがムカムカとしてきた。
これはどう取ればいいのだろうか。主に対してこの態度はどういう気持ちの表れなの?
別にわたしはね、動揺して顔を真っ赤にしてこっちを見ることも出来ないとかーー、何もそこまでしろとは言ってないのよ。だけど……。
これはあんまりじゃない! 不愉快だわ。
「大丈夫よ」
わたしは椅子から立ち上がり、扉に片手をついてこちらを冷ややかに見返すアーサーの元へと、ゆっくり近づいて行く。
「お母様さえ、わたしを信じてくれたらそれでいいの。お父様はお母様の言うことに、結局は逆らえないんですもの」
アーサーはわたしの言葉に瞠目した。それからプッと噴き出す。
「やはり、殿下は聡明ですね。確かにクリストバル様はマルグリット様には弱いところがおありです。あなたのおっしゃるとおり、ご夫妻の力関係をひっくり返すことは至難の業だ」
愉快そうに笑うアーサーに今度はわたしが目を丸くする番。何だろ、これ。彼は何がしたいのかしら。
「そ、そうでしょう。わたしの作戦に抜かりは……」
ハッと我に返った。今わたし、調子に乗ってとんでもないこと口走らなかった?
口元を押さえ、恐る恐るアーサーを見上げると、彼はニヤリと口角を持ち上げて笑っている。
「ち、違うのよ、これは。作戦て言うのは、あの二人に真実をどうやって伝えようかと、あれこれ考えた過程のことで……」
「ああ、もう言い訳はいいのです、殿下」
アーサーはうるさそうにわたしの前で手を振った。
「えっ?」
言い訳はいいって? それって、観念したと受け取ってもいいのかしら。
「今更真相を暴いたところであなたの協力がなければ、一介の騎士であるわたしに、選択権などないに等しいのですから」
「どういう意味よ?」
「お分かりになりませんか? 先ほど両陛下の関係を、冷静に客観視されていたではございませんか。なら、ご想像出来る筈だ。あなたの告白をお聞きになったマルグリット陛下が、このあとどう行動されるかは」
「あっーー」
そうだ、彼の言うとおりだ。母は嬉々としてこの話を纏めにかかってくるだろう。父の言うことなんか母の行動力の前には、跡形もなくかき消されてしまうくらいの威力でもって。
アーサーはちらりと扉を一瞥してわたしに視線を戻す。
「お分かりになったみたいですね。この話はもう既にあなたの手から離れてしまいました。おそらく二・三日の内には否が応でも、城中の者から祝福されることとなっているでしょう」
「ま、まさか……」
ううん、充分有り得る。あの母がおとなしくなんかしてる訳ないもの。今頃手ぐすね引いて、今後のことをあれこれ画策しているわよ。
だけどーー、
わたしはそれを望んでたんじゃないの?
なのに、何で今頃になって、こんなに怖じ気づいているんだろう。
「先ほどわたしが退室しようとした時が、最後のチャンスだったんですよ。穏便に終わらせるね」
茫然と立ち尽くすわたしを前に、アーサーは苦笑いを浮かべたあと、ハアとため息を漏らし軽く頭を振った。
「一つ、勝負を致しませんか、エミリアナ様」
アーサーがわたしの方へ体ごと向き直る。彼の顔はさっきまでが嘘のように表情が消えていた。
「勝……負……?」
はい、と彼は頷く。
「今から……、そうですね、少なくともあと一月の間までに、あなたがわたしの心を手に入れることが出来たなら、わたしはあなたの仰せのままに従いましょう」
彼はわたしをじっと見つめてきた。信じられないけれど、どうやらこの様子は本気みたい。
だけど、何よそれ? 勝負って、いったい何を賭けた勝負なのよ。
「で、出来なかったら……どうなるの?」
わたしはゴクリと喉を鳴らして問いかける。ドクドクと激しく動く心臓の音が、静かな室内に響き渡りそうだった。
「その時は、あなたがはっきりと両陛下に、この話は自分が考えた苦し紛れの出任せであると、真実をありのままにおっしゃるのです。その結果、お二方から重い罰を科せられたとしても、わたしは一切関知しないこととさせてもらいます」
「何ですって?」
アーサーは目を細め唇を歪めると、意地悪く笑った。
彼と知り合って七年という年月を一緒に過ごしてきたけれど、一度として見たことのない嫌な笑い方だった。
「どうです? お見合いからお逃げになったようにわたしとの勝負からも、戦わずして敵前逃亡されますか? あなたの負け試合ですからね、そうされてもわたしは一向に構いませんよ」
小馬鹿にしたように、わたしを見下ろして笑うアーサー。
「な、な、な……」
こ、こんな性格だったなんて。彼が優しい仮面の下にこんな一面を隠していたなんて、わたしは考えたことすらなかったわよ。
「い、いいわよ」
体が震えそうになるのを懸命に堪える。
「勝負ですって、望むところだわ。絶対あなたを振り向かせて、わたしの足元に平身低頭で謝罪させてみせるから。覚悟してなさい!」
この時、わたしの耳の中では、勇ましくも激しい戦いの開始を告げるファンファーレが、高らかに鳴り響いていたのである。