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「……これは誰だ?」
父の国王クリストバルが低い呻き声をこぼす。その鋭いとも言える剣呑な眼差しが、わたしの持つ紙へと注がれていた。
「ご覧になってもお分かりになりません?」
わたしは笑い声を収めて問い返した。
だってこの絵が誰なのか、分かりすぎるほどに分かりやすいのに、父はわざわざわたしに答えさせようとしているのだ。これは何を意味するのか。笑って余裕を見せている場合ではないだろう。
「エミリアナ、わたしは分からないから聞いているのではない。確認をするために問うているのだ」
イライラしたように父は吠えた。まずい、これは本気で怒っている時の顔。いつまでも意味のない問答を続けるのは、そろそろやめた方がいい頃だ。
「ですからこれはわたしの騎士の絵ですわ。わたしの護衛騎士、アーサーを描いたものです」
わたしは胸を張り宣言した。
「お分かりになってお父様。彼がわたしの片思いの相手なのよ」
わたしの宣言に父は絶句していた。いや、父だけではない。母もアーサーも度肝を抜かれて放心していた。
いい?
わたしの考えた作戦は、どうやら第二段階に入ったの。本当は、相手に関してはうやむやにするつもりだったんだけど仕方ない。
ここはひとまず、適当な相手にご登場いただくしかないでしょ。だって、誰だ誰だって想像以上に、この人達うるさいんだもの。
そんなわたしの相手として、アーサーは恰好の人材だわ。身近にいる全く眼中になかった男で、浮ついた噂すらない真面目な気性の人間。
主には忠実な騎士であるし、年齢は離れているけど逆にそれが大人の男だと、周りにもある種の安心感を与えてくれる。
安心感は大事よね、いずれわたしは本当の相手へと嫁ぐつもりだもの。その時、純潔かそうでないかなどと、いらない不安は払拭しておかなくちゃ。
アーサーは言わば、繋ぎでしかないのよ。ルィーズじゃないけど、時を稼ぐための囮と言うか何と言うか……。
しょうがないでしょう?
わたしの将来のためよ。彼には申し訳ないけど、高潔なる自己犠牲でもって主人の盾となってもらうわ。優しいアーサーのことだもの、多分分かってくれるわよ。
それにね、ここが一番大事なんだけど、きっとわたしだけでなく両親だって、今の今まで彼を気にしたことなんかなかったはず。つまりこれは、彼らにとっても寝耳に水の話なのよ。
だから、今のわたしの告白を聞いて、その心中やどうなっていると思う?
おそらく、驚きのあまり何にも考えられなくなっているはずよ。つまるところ、正常な判断なんて出来ないってこと。
実はそこが狙い目。
相手がびっくりしている間に、有無を言わせず決定事項にしてやるの。そう、父と母が混乱している今この時こそが、わたしの片思いを既成事実にしてしまう絶好のタイミングって訳よ。
「今まで内緒にしていてごめんなさい。でも、でも、わたし、アーサーが……」
わたしはアーサーの絵を握りしめて肩を震わせた。
涙……、は祈ったぐらいじゃ出てこないから、まばたきを我慢して目のふちが潤んでくるのをひたすら待つ。
「お父様っ」
やっと出てきた涙をまぶたの内側に大切に溜め込んで、わたしは勢いよく両親を振り返った。
未だ気の抜けた顔のままの父が、わたしをぼんやりと見返している。
「お父様ってば」
「う、うむ……」
駄目だわ、これは。
「お母様!」
わたしは早々に対象を母に変えた。
そうよ、よくよく考えたら落とすべきは、お父様ではなくてお母様だわ。お父様なんかお母様が、どうとでも操ってくれるはずだもの。
「お母様、わたし……」
「エミリアナ、今の話は本当なの?」
母は力の籠もった眼差しでわたしを睨んでくる。顔色は悪いのに、目だけが病的なくらい爛々と輝いていた。
こ……、怖いわね。
「え、ええ……、本当のことよ」
母から目線を逸らして懸命にわたしは答えた。不自然には見えないように、ものすごくものすご〜く気を使う。
「あなたにこんなしおらしい一面があるなんて、今までわたしは知らなかったわ」
母は興奮したように飛びついてきた。
「教えて、いつからなの? いつから彼を想っていたの?」
「あ、あの、お母様?」
「思い出すわ、わたしもあなたぐらいの頃、兄のように慕っていた護衛騎士に、淡〜い恋心を抱いていたものよ」
母はわたしを掴まえて、踊るように振り回し出した。アーサーの絵が手から滑り落ちそうになる。わたしはとっさにそれを両手で抱え込んでいた。
「ねぇ、エミリアナ、どうして黙っていたの。おしゃべりなあなたが」
奇妙な踊りの最中にも、目をキラキラさせて問いかけてくる母のマルグリット。
き、決まってるでしょ。口から出た出任せだからよ、なんて言えるわけないじゃない!
「何故? 何故なの、可愛いわたしのエミリアナ」
母はわたしをぎゅっと抱きしめて、今にもキスをせんばかりに上から覗き込んできた。
「え、ええと……」
こ、怖い、怖いわよお母様。どうしてかしら、本当に怖いんだけど。
「あ、あのですね、お母様……それは……」
「なあに、エミリィ〜?」
鼻歌でも口ずさみそうな顔で、母はわたしを見て微笑んでいた。
「いい加減にしないか、マルグリット!」
わたしを振り回していた母が、父の険しい声が聞こえた途端、ピタリとその動きを止めた。
そのまま表情を変えず、母は父の方をゆっくりと向く。
「どうなさったの、あなた?」
「どうなさったの、じゃない。娘を窘める立場の君が煽ってどうする?」
父は呆れたように頭を振りながら近づいてきた。どうやら腑抜け状態からは脱却出来たらしい。
「何故、窘めなくてはならないのかしら?」
「何故だと? 娘の暴走を止めるのは母親の役目だろう」
「暴走ですって、今のせつないまでの告白がそうだと言うの? あなたのその目は節穴かしら」
母のマルグリットもわたしから離れ、父へと歩み寄って行く。室内の温度が一気に下がった気がした。
こ、これってアレかしら。二人がわたしのことで喧嘩を始めるってことかしら?
父はフンと鼻で笑う。
「せつない告白? 節穴はどちらだ、明らかに苦し紛れに出ていた出任せだろうが」
ちょっとわたしの魂胆見抜かれてるじゃない、嘘でしょう。
だけど母も負けてはいない。
「愚かな人ね。あなたには、娘の心がまるで分からないのね。どうしようもない父親だわ」
刺のある言い回しに父はカッと声を荒げた。
「愚かは君だろう。娘の口車に乗せられて、いいように手玉に取られているじゃないか」
「手玉にですって、わたしのどこが?」
「そういう浮ついた性格がだ」
「まあ!」
母はぶるぶると震えながら唇を噛みしめる。顔を両手で覆い、くぐもった声を出してきた。
「酷い言い種だわ、わたしのことをそんな目で見ていたのね」
おどろおどろしく響く母の声。父は条件反射のように体を固まらせた。言い過ぎたことにようやく気がついたらしい。
「あ、いや、そういう訳では……」
口籠もりながら小さな声で反論する父に、母は勢いよくたたみかけてきた。こうなってしまったら母の独壇場だ。父に形勢逆転のチャンスはない気がする。
「いいえ、あなたはわたしをずっとそんな目で見ていたのよ。娘の結婚に奔走するわたしを、浮ついた性格だからと馬鹿にしていたのよ」
「ち、違う……」
「ではどうして? どうしてエミリアナの将来を、真面目に考えてやれないの」
「考えて、いる」
「嘘よ。考えていたのなら、この告白を真っ向から否定だなんてする訳ないわ。せめてもう少し、娘の言い分を真摯に聞いてやるはずよ」
「だ、だから、これはーー」
「わたしにはエミリアナの気持ちが手に取るように分かるわ。それは今までとはまるで違う態度からも、はっきりと窺える。エミリアナは本当の恋を知ったの。今までのままごととは違う、本当の恋をね」
「マ、マルグリット……」
「叶うなら、それを応援してやるのが肉親てものでしょう? 馬鹿にして切り捨てるなんてあり得ない行為だわ」
父は何も言えなくなったらしく、口を閉ざしてしまった。
巡る間しく変わる事態に、わたしも全然ついていけてない。
ええっと、最初はお父様が優位で、そして今は、お母様が優位に立っているってこと?
と、とにかくわたしだけでも落ち着かなきゃね。二人の様子を見るに、アウトライムの王子とのお見合い話はなくなった……、でいいのかしら?
その時、こっそりと深呼吸をしていたわたしの肩を、誰かががしりと掴んできた。
い、いたっ。誰よ?
「陛下」
伸びやかな声が背後からする。険悪な雰囲気に包まれていた父と母が、弾かれたようにこちらを向いた。
わたしのすぐ後ろにはアーサーが立っていた。
そう言えば彼もいたんだっけ。目の前の騒動がすご過ぎてすっかり忘れてたわ。てか、アーサー、あなた主に対して肩を掴むとかどういうこと?
「あの……、アーサー?」
いったい何をする気なの。
アーサーはびくびくと彼を見上げるわたしに柔らかく微笑み返すと、牽制し合って一歩も動けなくなっている父と母に顔を向け、ついと体を低くして声をかけた。
「お話し合いのところ申し訳ございません。わたしに少しばかり、殿下とご相談するお時間をいただけますでしょうか」
すみません、次話に続きます。