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「エミリィ、あなたったらどうしたの?」
ベッドの中に体を丸めて潜り込んでいたわたしを、部屋へと入ってきた母は甲高い声を撒き散らしながら覗き込んできた。
わたしは母の声が耳に入らないよう、かけていた薄い上掛けをたくし上げる。
「放っておいて……、お母様」
努めて弱々しい声を出してみせたら、上から息を飲む音が聞こえてきた。
「エ、エミリィ……、どうしたのよ、いったい」
思った以上に心配そうな声。小さい頃とは違い、倒れることもなくなった病気とは無縁の娘が、夜でもないのにベッドにいるのが信じられないみたい。どうやらわたしの体調が思わしくないと本気にしたらしく、疑ってもない様子である。
しめしめ、なかなかの出だしだわ。とにかく、こ、堪えなきゃ……ね、笑ったりしちゃ駄目よ、絶対に。
なにしろ、今のわたしは一世一代の大芝居を打ってる最中なんだから。
「キャリーに聞いてびっくりしたのよ。あなたったら急に真っ青になって泣き出したんですって? そうよね、キャリー?」
母に問われたキャリーが神妙な声で答える。
「はい、本日ようやくお祝いの晴れ着が出来上がりまして、これでアウトライムにいつでも行けますわねとお話していましたら、突然エミリアナ様が涙をこぼされ、興奮したように叫び声を上げられて……。それからずっと、こうして泣き伏せっておいでなのです」
いいわよ、キャリー。興奮とか叫ぶとか言葉の選び方が今ひとつだけど、なかなかの演技力じゃないの。手はず通りだわ。
「どういうことなの? わたしに顔を見せてちょうだい、エミリィ」
いよいよただ事ではないと感じ取ったのか、甘い声とは対照的に無理やり上掛けを剥ぎ取ろうとする母の力に、わたしは負けじと応戦した。
「やめて、お母様。わたしの、わたしの顔を見ないでください!」
わたしの渾身の悲鳴を聞いた母の手から、嘘のように力が抜けていった。
「エ、エミリィ……」
そのまま言葉をなくしたらしい母を思い浮かべ、わたしはベッドの中で、一人ニヤニヤとほくそ笑んでいた。
つまり、わたしの考えた対策はこうだ。
それは健康そのもののこのわたしが、あろうことか、心の病気を発症することだった。
心とは言え、病気なんだからベッドに伏せる。食事も取らないで、一日中メソメソとベッドの中で泣いてるってわけだ。
より信憑性を持たすため、今日は昼食を既に抜いていた。お陰でお昼からそんなに経ってないんだけど早くもお腹は空いてくるし、退屈という責め苦にさえ苦しめられながらそれらを全部我慢してみせた。
当前でしょ。今頑張らなくていつ頑張るって言うのよ。
こんなわたしを見たら、さすがのお母様も無理やりお見合いさせようとは思わないはず。なんてったってかわいい愛娘が心を病んでるんですものね。まともな母親だったら、そんなもの取りやめるのが普通だわ。
「……アウトライムに、行きたくありません」
押し殺した声をわたしは出した。気を取り直した母がすぐに反応してくる。
「どうして、ユーフェミアに会いたいって言ってたじゃないの?」
「ええ、お姉様には会いたいわ」
「じゃあ、何故なのエミリィ」
ここからが肝心だ、緊張のあまり喉がゴクリとはしたなく鳴る。
「だって……、アウトライムへ行けば、お見合いをしなければいけないんでしょう?」
わたしは一気に言葉を吐き出した。
「自分の気持ちにこれ以上嘘はつけないわ……。わたしには、お慕いしている方がいるんです」
いつか観た悲恋物の舞台を思い出し、わたしはヒロインに成りきって泣き声を漏らした。本当に泣いてるわけじゃないけど、似ている声を出すのは意外と簡単だ。
「好きな人がいるんです、彼じゃなきゃ、わたし……」
悲劇のヒロインて、こんな感じかしら。母の絶句する気配が上から落ちてくる。
「他の方との結婚なんて、やっぱり無理だわ。わたしには」
わたしはベッドに突っ伏して、嗚咽混じりの嘘泣きを母の前に披露してみせた。
そう、こころの病気とは、ズバリ恋の病のこと。わたしの惚れっぽさは、もはや城では有名な話だ。だから、母も父も兄ですらこれを疑うことはないだろう。
どうせ披露するなら現実的なものにしなければね。すぐにバレてしまったら元も子もないもの。
わたしの迫真の演技に度肝を抜かれたのか、母は何の言葉も返してこない。
静まり返る室内の空気にこっちの方が音を上げたくなった。
このハーディアで一番権力を持つ母が大騒ぎしてくれないと、お見合い話が立ち消えになることはない。
焦るわたしは、緊張のあまり吐き気まで催していた。
「お、お母様……あの、うぷっ」
「キャリー!」
いきなり母が低い声を出してわたしの侍女を呼んだ。いやに厳しい声で、母はとうとう父の名前を出してきたのだ。
「陛下をこちらへ。それからしばらく、あなた達は席を外していてちょうだいね」
***
「エミリィ、ここにはわたし達しかいないわ。だから本当のことを話してちょうだい」
誰かが室内に入って来る気配がしたあと、やけにゆっくりと話す母の声がしてきた。多分、父の国王クリストバルが、とうとうわたしの部屋に入ってきたということなのだろう。いよいよ一番大事なシーンが幕を上げたのだ。
気を引き締めていかなきゃ、わたしは緩んだ頬に力を入れる。
キャリー達の助けが望めない今、自分一人の力で成功を収めなくてはならないのだから。
「本当のこと?」
ドキドキと胸を打つ心臓と闘いながら、わたしは弱々しい声を出した。
父が来るまで黙りこくっていた母が、いつもの威勢を思い出したようで、わたしにきつい問いかけを続ける。
「そうです、慕う相手とは誰ですか。お付き合いをしている相手がいたってことなの?」
「いいえ、お付き合いなどと……、これはあくまでもわたしの片思いで……」
緊迫感が半端ない。まるで尋問のような空気が漂っている。
慌てて言い返すわたしの声を遮って、母は父に詰問の矛先を変えた。
「あなた、エミリィが変だわ。こんなふうに好きな相手を秘密にするなんて、今まであったかしら? いいえ、ないわよ。いつもおおっぴらに宣言していて皆の歓心を買っていたもの。秘めた恋なんてこの娘に限っては、あり得ないことだったのよ。そうでしょう?」
「マ、マルグリット、そう興奮するな。おかしいとはどういうことだ?」
父が当惑気味に声を出した。母の興奮が何に対してなのか図りかねているらしい。わたしにもさっぱり分からないのだけど。もしかして、全くのでたらめだってこと、バレバレだってこと?
「だから、わたしはエミリアナの言動が変だと言っているのです。これは、いつものこの娘の行動パターンとは違いすぎるのよ。今まで何も言わないで、秘密にしておいたのがまず変でしょ。急に慕う相手がいたなどと、わたし達に発表するのも変だわ。まるでやむにやまれぬ理由でも出来たみたいにーーま、まさか、エミリィ?!」
「な、なあに、お母様?」
急に言葉を切った母はわたしにではなく「あなた!」と父に呼びかけた。
「な、何だマルグリット?」
驚いた父の声が裏返っている。わたしの心臓も、今まさに止まってもおかしくないほど暴れまわっている。
だけど思いつめたような声を出す母は、父やベッドの中のわたしの様子など意にも介していないようだった。
「あなた、エミリィはやっぱり変よ。こんなふうにベッドで塞ぎ込んでいるのも、さっきも急に気分が悪くなったみたいだし……、片思いなどと言っていたけど実は既にどなたかとお付き合いをしていて、まさか、この似合いもしない不調の原因は、この娘の腹の中に赤子が出来てしまったからではないの?」
ちょ、赤子って赤ちゃんのことでしょ?
な、何を言ってるのよ、お母様。話が飛躍しすぎでしょう!
わたしは今すぐにでも上掛けを蹴散らせ起き上がり、とんでもない勘違いをしている母の誤解を解きたかった。だけど、そんなことをしたら健康そのものの顔を見られてしまう。
今はこの顔を見せるわけにはいかない。と、とにかく、冷静に話を進めなきゃ。
「お、お母様落ち着いて……、わたしがそんなふしだらなことをするわけないでしょ……、考えてもみてよ」
「だってエミリィ、あなたさっき、うぷっとか催していたじゃない」
「それは緊張していたせいで……」
「えっ? 緊張?」
「な、なんでもないわ。とにかく今のわたしの不調の原因は叶わない恋のせいなの。お母様も知っているでしょ? わたしがいつも恋した相手に振り向いてもらえなかったこと……」
「え、ええ」
ムッ、否定はしないわけね。事実だからまあいいけど。
「お願いお母様、これが最後の我がままよ。想いを伝えたいの、それまではお見合いは……」
上掛けを握り締めて体をふるふると震わせた。どう? これっていかにも、己の運命に耐える健気な乙女の図だと思わない?
「マルグリット、エミリアナがかわいそうだ。あまりにも性急に物事を進めるのはよくない」
父がため息を漏らしながら、ポツリと言葉を落とした。
「でも、あなた……」
母がすぐに反論をしかけたけど、最初の勢いはなくなっている。
「どのみち、こんな状態のエミリアナなど、あちら側に断られるのがおちだ。君はこの娘の評判を更に落としたいのか?」
「いいえ、まさか!」
「ならば今回の話はなかったことにしてもらうんだな。元々君が推し進めていただけの話なのだからな」
「あなた……」
父の珍しく強気な口振りに、母は何も言い返すことが出来なくなったらしい。これは本当に珍しい現象だった。十五年生きてきたけど、こんな光景、今まで見たことあったかしら。母を黙らせる父の姿なんて。
でもま、そんなこと今はどうでもいいわ。それよりもーー。
「いいな、マルグリット。すぐに、アウトライムへ使者を出すのだぞ」
「え、ええ……」
やったわ、大大大成功よ。お見合い話が消えてなくなってくれたわ!
ベッドの中で小躍りしたくなるのを必死に堪えるわたしの耳に、父の得意げな声が届く。
「ーー全く、何が赤子だ。エミリアナがそんな娘だと本気で思ったのか、母親として実に嘆かわしい」
どうやら母を言い負かせたことが相当嬉しかったらしく、いつもより大胆になってしまったみたい。だけど、お父様、その一言はまずいわよ。お母様の機嫌を損ねるのはあまりよくないわ。
「あなた!」
わたしは母の怒りをはらんだ大声に、ビクッと上掛けの下で体を竦ませた。
「な、何……だ?」
母の奇声に父も相当萎縮したようで、声が物凄く小さいものになっている。
「あなたの言う通りだと、わたしも全文同意しますわ。わたしは母親として最低の部類に入りますわね、本当に」
「いや、マルグリット……わたしは何もそこまでは……」
「いいえ! 娘を信じることが出来なかった最低の母親と、娘に甘い寛大な父親。ここは公平な目を持つ他人の意見を拝聴した方が、わたしにはいいように思えますけれど」
「他人の?」
「ええ、偏った愛情を与える肉親だけではエミリアナの為にはなりませんわ、そうでしょう?」
ど、どういうこと? なんか脇の下の汗が止まらないんだけど。なんで、めでたしめでたしで終わらないの、これ?
「そんな隅にいないでアーサー。先ほどからのやり取りを聞いていましたよね?」
母の声に短く「はっ」と返事をする者がいた。わたしはびっくりして、もう少しでベッドの上から転げ落ちるところだったわ。
だって驚くに決まってるじゃない。わたしの知らないところで、父や母以外にもう一人、この部屋の中に別の人間がいたのだから。
しかも、アーサーですって?
なんでキャリー達を下がらせておいてアーサーなの? もう、意味が分からない。
「あなたはどう思う、アーサー。エミリアナの今の告白を」
母のどことなく仄暗い質問には正直生きた心地がしなかったけど、よくよく考えたら怖いことは何もなかったと気づく。
何しろ相手はあの、アーサー。
わたしの忠実なしもべで、穏やかで優しくてなんでもハイハイと聞いてくれる忠犬中の忠犬。主の危機には、身を挺して守ってくれるべき騎士の中の騎士アーサーじゃないの、ってちょっと言い過ぎかしらねーー?
「そうですね、エミリアナ様の恋の話はよくあることですが……」
アーサーの涼やかな声が静かな室内に響き渡った。
わたしだけでなく父も母も、皆が固唾をのんで彼の次の一言を待っている。
「お相手を誰にも告げてないのは確かに妙ですね。側についている侍女達からもお名前が出ていないのなら、あまりよい兆候とは思えません。最悪殿下が相手の男に騙されている可能性も、なきにしもあらずですから……」
「ま、まあ」
「何だと?」
にわかに騒がしくなる両親の声。
「騙されているとはどういう意味だ、騎士アーサーよ」
国王である父の問いかけにもアーサーは平然と返した。
「陛下、これはあくまでも可能性の一つで、言うなれば単なる憶測でしかありません。本当にエミリアナ様にお慕いするお相手がいるのなら、ご本人からお聞きになればよいではございませんか」
本当に、ですって? 変な方向に二人を誘導するのはやめてよ!
「いい加減にして、アーサー! わたしの言うことが嘘だったとでも言うの?」
わたしは堪えきれず上掛けを振り落として、声のした方角を睨みつけた。父と母と信頼していた騎士の姿が見える。
どうしても我慢ならなかった。
長年尽くしてくれていた者からの突然の裏切り。気がつけばわたしは、ベッドの上から興奮するあまり飛び降りていた。
し、しまったわ……。今までの努力が全部水の泡になるじゃない。
「随分、ご機嫌麗しそうですね、殿下」
アーサーがにこやかに微笑んでいる。なんて胡散臭い笑い方なの。こんな顔の彼を初めて見たわ。
お父様もお母様も血色のよいわたしの顔色を見て、呆気に取られているようだった。アーサーのいつもと違う笑顔には、これっぽっちも気づいてない。
最悪。これってもしかしなくても、二人にわたしの仮病がバレたってことじゃないの。
どうしてわたしはこんなにも健康体なのかしら。
「エミリィ、あなた。全部嘘だったの?」
母が口元を引きつらせて近づいてくる。ねぇ、これって万事休すなの? い、嫌よ、絶対嫌。
「エミリアナ、本当のことを言うんだ。わたし達をたばかっていたのか? 今すぐ説明しなさい、どういうことだ」
温和なお父様まで、恐ろしい悪魔顔負けの形相をしている。
何てことかしら、もう少しでうまくいきそうだったのに……。
「嘘じゃないわ!」
わたしは走って隣の居間へと続く扉を開けた。すぐに母や父の声が追いかけてくる。
「エミリィ、待ちなさい」
「この期に及んで逃げる気か?」
二人の声はすれど、主を守るべきアーサーの声はない。
どういうことよ、わたしはあなたの主じゃなかったの?
お父様とお母様を焚き付けるだけ焚き付けて、あとは高みの見物でもしている気なのかしら。
冗談じゃないわ、見てらっしゃい。そう、うまく事が運ぶとは限らないわよ。
「違うってば、逃げているのではありません!」
あとを追ってきた人影を無視してわたしは棚という棚、引き出しという引き出しを引っ掻き回して、あるものを探した。
ええと、あれはどこに仕舞ったんだっけ? 適当にどこかへ片付けるなんて、わたしってば本当に馬鹿。
「何をしているのエミリィ」
母が呆れ果てた声で責めてくる。わたしの惨めな努力なんか、何の助けにもならないって言ってるみたい。
だけどその時、古いドレスを仕舞い込んだ衣装箱の中に、恋い焦がれるほどに探していたあるものを見つけてわたしは飛び起きた。
ぶるぶると震える手を使って、細く丸められた紙を広げる。そうよ、これこれ、これを探していたのよ。
「ふっふっふっ、遂に見つけたわ。神はわたしをお見捨てにはならなかった……」
「エ、エミリィ……?」
突然動きを止めて笑い始めたわたしを、父と母は不気味なものでも見るように怖々と覗き込んできた。
「エミリアナ、何をしている……んだ?」
「エ、エミリィ、気でも触れたの?」
年頃の娘に対する態度とは思えないほど、失礼な眼差しを向けてくる。皮肉ね、今だったらわたしが病気だとすぐにも信じてくれるかも。
「ーーお父様、お母様わたしは正気です。それよりも見てください、わたしの想い人はこの方なんです」
近づく両親に向けて、わたしは広げた紙をグイと押し付けた。
二人の驚きに広がる両目と、その向こうで顔色を変えるアーサーが見える。
そう、わたしが彼らに見せたのは例の肖像画の一つ。わたしの護衛騎士、裏切り者のアーサー・ヘルマンの絵姿だったのだ。